第4話 千種の密談
1582年、5月。
この日、千種峠に季節外れの雪がちらついた。
「しかし寒い。のう
峠の麓に宿を定め、徳川家康一行は一泊する予定でいた。粗末な寺ではあったが部屋数は確保でき、決して人数の多くない一行には少人数で警備できるお誂え向きの規模である。
「右少将様、丹波に比べれば然程の事もありませぬ」
寺の一番奥の部屋には三人の男が座していた。
一人は徳川右近衛権少将、徳川家康である。その横には、家康の側近である本多佐渡守。
そしてもう一人、元の名を三宅弥平次。この年からその姓を明智に改めた、明智左馬助
本多が盃をゆっくりと傾け、少しばかり視線を宙に舞わせてポツリと呟いた。
「それにしても……
ここで四半刻ほど会話を楽しんできたが、いよいよ本題が切り出された事に三人の間に緊張が走る。
「未だご決断の様子はありませぬ。右少将様には柔軟なご対応をお願い致したく」
左馬助の言葉に、家康はあえて怪訝な表情で答えた。
「悠長な事を申して居る場合ではないぞ左馬助殿。こちらも動き出しておるのじゃ」
だが、その程度で狼狽えるような左馬助でもない。
「こればかりはご容赦を。主の口から言葉が出ぬ以上はどうにも」
その様子に、本多が再び口を開く。
「まあ……我らに選択肢は御座いませんからな。生きて安土から出る事が出来ましたら、その時また考えるとしましょう」
そう言う口とは裏腹に、本多の脳裏では様々な可能性が列挙され、どう転んでも徳川にとって有利に運ぶように手を打つ算段が出来上がっていた。
密議を終え、左馬助が帰路につく。
密かにこの場所を訪れていた左馬助を、これもまた密かに見送った二人は改めて盃を傾けた。
「弥八郎よ、どう見た」
弥八郎とは本多の元の名だ。
「さて、頼りなげ……に見えましたな。言うても
考えている事を全ては言わない男である。
この本多正信という男は、家康が幼少の頃からともに過ごしたが、三河一向一揆に加担して家康の元を離れていた。その後は松永久秀に仕え、更には諸国を放浪し、つい前年に徳川家に帰参している。
質素倹約、質実剛健を地でいく三河武士で構成される徳川家にあって、特に武功のある名将たちからは虫のように嫌われている人物でありながら、主君家康からは絶大な信頼を勝ち得ている妙な男だ。
家康は本多正信に対して全幅の信頼を置き、改めて別の件について問う。
「御本所様はどうなっておる」
御本所。
織田信長の次男にして、伊勢国司である北畠家に養子として赴き、今は北畠家の当主として伊勢方面を統治する織田家の有力武将である。
その元は、茶筅丸という名であった。
「そちらのほうは、上々と見てよいでしょうな。ですが阿呆のする事、何をしでかすか」
そう言って薄ら笑いを浮かべた。
「弥八郎よ、その顔はやめよ。背筋がぞくっとするわ」
「はっはっは、こりゃ失礼」
過去の確執が功を奏し、この二人は以前以上に深い信頼関係で結ばれている。晩年、家康は正信の事を家来ではなく「友である」と称したほどだ。
「で、どうやって御本所様を焚きつけた」
「岡崎三郎様の話を少々。親兄弟という間柄など、この乱世にあって如何に当てにならぬ物であるかを……ご理解頂いた。と、言ったところですかな」
そしてまた、薄ら笑い。
「やめよ。その顔もそうだが、三郎の事は申すな」
「はっはっは、こりゃ失礼」
三郎とは、数年前に自害に追い込んだ家康の長男の事である。
呑気に酒を酌み交わしているこの主従は、数日後には命を懸けてとある場所に足を踏み入れなければならない。
「生きて帰れるかのう」
「上様次第、で御座いましょうな」
右手に持った盃を、微動だにせず見つめ続ける家康に対し、本多は更に言葉をかけた。
「流石にその場でバッサリという事にはなりますまい。然れども、恐ろしいのは『大儀であった』と一言だけの場合……」
「これと言って今後の事を語らうでもなく、現状を褒めるだけ……それは確かに危うい。これからは用無しという事ではないか」
本多は更に続けた。
「穴山殿の事も危うい原因ですな。あれの甲斐河内郡の領有を上様がお認めにならなければ、危うき事で御座います」
穴山家は甲斐武田家の親類にあたり、当主である穴山梅雪の妻は武田信玄の娘でもある。これ程までに武田家に縁の深い人物など、もはや穴山程度しか存命していない。
「あやつめ、上様が『甲斐を離れろと』申しても断るだろうな。厄介な事よ。弥八郎、先に穴山めを口説き落としておく事は出来ぬか」
「無理でしょうな。我らが『甲斐を離れてもらう事になるやもしれん』などと申せば、その場で『帰る』と言い出すでしょうな」
「そりゃいかん。上様はこの儂と、穴山梅雪の二人を呼んでおるのだ。儂一人だけでは意に背く事になる」
武田討伐の後、徳川は独自で切り取った駿河の領有を認められており、家康はその返礼という名目で安土城に入る予定でいる。
そして穴山梅雪は、甲斐国において河内郡を治めているわけだが、現段階では甲斐国は織田家の支配下にある。そのため、今回は安土城に挨拶に出向くという名目となっていた。
「穴山など調略すべきではなかった。失敗したわ」
家康は焦りに焦っていた。
武田家に強い執着を持つあまり、独断で武田一族の穴山梅雪を調略して寝返らせたわけだが、先の通り穴山家の領地は織田の領内であり、今後穴山家が今まで通りの領有を認められるか否かは徳川家康の裁量ではどうにも決めようがない。
「殿が調略されたのではありませんか。それを今更」
本多は小さく笑みを漏らし、再び盃を傾ける。
「冷たい事を申すでない。どうにか駿河あたりに代替え地を宛がう方向で決着すればよいのだが……」
数年前。
丹波国の「攻略」を命じられた明智光秀は、丹波最大勢力であった波多野氏を激戦の末に降伏させる事に成功した。
だが、信長の命令はあくまで「攻略」であり、波多野家の存続や領有を一切認めなかったのである。降伏の挨拶に安土へ出向いた波多野家の当主はその場で自害に追い込まれ、光秀はとんぼ返りで無慈悲な攻略を押し進める事になった。
それにより、波多野氏は明智光秀に騙されたと思い込み、最後まで徹底抗戦の末に滅亡。その後丹波国の経営を任された明智光秀は、国中の人々から「旧領主を騙し討ちにした悪人」という立ち位置から事に当たらねばならず、大層苦労を強いられる事になった。
それと同じ状況だと言えなくはない。信長が穴山家の存続を一切認めなかった場合、穴山家は徳川家康に騙されたという形になってしまうのだ。
本多は視線を宙に舞わせつつ、甲斐国の統治状況を思い浮かべて言葉を並べた。
「甲斐の統治を任されている河尻殿が、どうにもご苦労をなさっている様子。ここで穴山まで処断すれば甲斐はどうにも治まりますまい。上様もそれをご存じでしょうからな、穴山の河内郡領有はお認めになる、そう考えるのが自然でしょう」
本多の読みは正しい。
「そりゃ困るぞ」
だが家康にしてみれば、それはそれで面白くない。穴山梅雪の調略は、旧武田勢力の取り込みを狙っての事である。その穴山家が織田領内に所領を持つという事になれば、徳川の影響力は必然的に薄れていくのは明白であった。
「はっはっは、我儘な事を申される殿じゃ」
「う、うるさい。何とかいたせ」
半ば不貞腐れた様子で盃を傾ける家康に、本多は相変わらずの薄ら笑いで頷いて見せる。
その『何とかいたせ』について、手を打っているからこその、この日の明智左馬助との密談であり、焚きつけた御本所の存在であるのだ。
本多は盃を空にすると、遠い目で答えた。
「まあ……なるようになるでしょうな。あまり気を病んでも結果は変わりませんぞ」
「何じゃそれは。弥八郎、だいたいその方は昔からな――」
徳川主従はこの日、春にも関わらず冷え込む夜を、昔語りに花を咲かせながら過ごしていった。
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