第3話 嫁と姑、親と子

 織田家の家督が織田信忠へと移譲された頃、織田家の盟友である徳川家に徒ならぬ空気が満ち溢れていた。


 合理的な思考で本拠地を移転させていく織田信長に習い、徳川家康もその本拠地を三河国岡崎からその隣国、遠江国浜松へと移した事が切っ掛けである。


 ――いかに武田への対応を迅速にするためとは言え、これからは遠州の者を重要するという事か。


 徳川家の根幹地でもある岡崎では、そんな言葉が囁かれるようになった。


 原因はひとつ。

 合理的な思考を家中に浸透させ切ってしまった織田信長に比べ、徳川家康の思考がどちらかと言えば保守的であった事にある。主がそうであるから、家中も当然ながらそういった思考が強くなる。そうなれば当然、旧来からの伝統や慣例を重視し、古き良き物を守ろうとする。


 松平の家名を捨て、徳川と家名を改め、岡崎を捨てて浜松に移った。一見合理的なこの判断に、家中には理解を示せない者が多かったのである。激動の時代にあって二カ国を支配下に納めておきながら、徳川家は未だ戦国大名化に成功しているとは言い難い状況が続いていた。



 1578年。

 そしてついに、三河派の空気が見過ごせない状態にまで悪化した。


「殿、お呼びで御座いましょうか」

「おお来たか、すまぬな」


 浜松城の奥、家康の居室へと呼び出された重臣酒井忠次は、この後、予想だにしない命令を受けて目を白黒させる事になる。


「このような事、その方にしか頼めぬ」

「はて、如何様な」


 徳川家当主である家康の頭を悩ませている事は多い。

 特に内憂に関しては二つ。


 一つ目は、三河岡崎城の城主とその母にある。

 三河岡崎城を任せているのは、家康の長男である徳川信康。織田信長から「信」の一文字を拝領していみなを信康と名乗り、織田信長の娘を嫁に貰い、性格は勇敢で武勇に秀で、人望も厚いとの評判であった。


「岡崎の事よ」

「若様の」


 酒井忠次は、家康が幼少の頃から支えてきてくれた年嵩の重臣である。その重臣をわざわざ呼び出してまで相談するのは、己の息子の事だけでは収まらない状況になった事についてだ。


「あれは良く岡崎の衆を纏めておる。それだけならばよいが、心配なのはあれの母の事」

「築山殿……ですか」


 徳川信康の母は徳川家康の正室で、今川家一族である瀬名氏の姫である。

 家康が今川家の配下だった頃に夫婦めおととなった妻で、織田信長に討たれた今川義元の姪にあたり、婚姻の際には今川義元の養女として家康に嫁いでいた。

 その信康の母にしてみれば織田信長という人物は、言わば叔父であり養父でもある今川義元の仇である。

 その憎き仇であるはずの織田信長の娘が、あろう事か可愛い息子の嫁として嫁してきた。可愛い息子の嫁が、親の仇の娘である。心境穏やかでない事は間違いないであろう。

 

「あれの母とな、織田の徳姫とが上手くいっておらんのだ。これから申す事、他言無用ぞ」

「御意」


 そして問題はそれだけではない。


「母君がな、本気で『離縁しろ』と言い出して困っておる」

「於大の方様が……」


 家康の生母、於大の方。

 内憂の二つ目はここにある。先にあげた信康の母にとっては姑にあたる人物だ。

 徳川と名を改める前の松平家は、桶狭間の合戦以降、今川家の支配下から独立したわけであるが、それ以前はそもそも独立勢力であった時期が長い。


 その独立期に家康を身籠っていた家康の母は、松平家の没落を目の当たりにしてきた。我が子である家康を人質に取られ、涙を流す日々を過ごした事もある。徳川家康の母にしてみれば今川義元という人物は、我が子を奪った憎き相手であり、松平家を没落せしめた張本人なのだ。

 そして、その憎い相手の姪であり養女でもある女が、引き離されてしまった愛する我が子の嫁である。そしてその憎たらしい嫁の産んだ孫に、織田家から嫁が来た。憎き相手である今川義元を討ち取った、英雄に等しい織田信長の娘である。

 必然的に、家康の母は孫の嫁を贔屓する事になった。


 情況は複雑怪奇を極めていた。三角四角では言い表せない程、家康を取り巻く女達の事情は深い遺恨が絡まり合っているのだ。

 これが男同士であれば「過去の事は水に流し」と語らって終わる事もあり得るであろうが、ある程度歳を重ねた女同士ではなかなかにそうも行かない。

 この嫁と姑の関係は、いつ終わるとも知れない冷戦状態が続いていた。


「それと同時にな、築山の我慢も限界に達したらしい」

「築山殿まで……武田の脅威が弱まったとは言え、内乱は拙う御座いますな」


 家康の正室は、ついに我慢の限界に達していた。今川家から徳川家へ移った築山を待っていたのは、住まいであるはずの岡崎城に入城を許されないという、屈辱的な仕打ち。既に十年以上に渡って城下で暮らしている。徳川家当主の正室にして、跡継ぎである長男の母であるにも関わらず、城に足を踏み入れることが出来ないのだ。

 そうなるように圧力をかけているのが、家康の母である。


 家康は手にした茶碗を力強く握った。その気配に、酒井は主が徒ならぬ決意をしたであろうと読み取る。


「岡崎がな、衆を良く纏める器量を持っておる事は喜ばしい。だが今はそれが逆に危ういのだ」

「……謀反のご心配を?」


 酒井の問に、家康はぎろりと鋭い眼光を向ける。


「築山が『父を追って国主となれ、あの武田信玄でさえそうしたのだ』とでも焚きつけてみよ。あれに従う者が多くなるやもしれん」

「そのような事……」


 信じられないとでも言いたげな酒井に対し、家康は手にした茶碗を傾け、まだ熱い茶を一気に胃袋へと流し込んだ。


「ありえるのだ。それにな、手を打つにしても右府様の許しを得ねばなるまい」


 右府とは、この時期の織田信長を指す。酒井はその為に呼ばれたのだと気付いた。


「それを……某に」

「ああそうだ。すまんな、厄介事を」


 酒井はしっかりと頷いて両手をついた。


「なんの。お家の大事であれば」


 酒井の言葉に、家康は小さな笑みを浮かべて答えた。


「三河の衆には岡崎城へ詰める事を辞めさせる。特に主だった者達からは誓紙を出させよ、人選はおぬしに任せる」

「はっ。直ぐにでも『決して殿を裏切らぬ』と誓紙を出させます。安土へはいつ頃」


 家康は、内心ではもう既に決意を固めている。だがそれではあまりに薄情というもの、ここはひとつ猶予を与えるふりをするつもりでいた。


「三河の衆を岡崎から遠ざけ、誓紙を出させ、それで収まれば良しだ。そうでないならば、尚も不穏な動きあるとなれば仕方がない。おぬしが右府様の所へ行って子細説明してくれ。後の事は儂がやる」

「はっ」


 その言葉を最後に、酒井は部屋を出る。家康は薄暗くなりはじめた室内で、どこを見るでもなく視線を宙に舞わせてひとりごちた。


「我が子一人をどうにも出来んとはな……情けない。だがそれも必要か」


 徳川家康の学問の師に、太原雪斎という坊主がいる。今川家の人質時代に世話になった師で、その師は今川義元の頭脳として近習し、時に軍を率い、時に外交の一切を取りまとめた。東海道における織田家との抗争も、松平家接収も、概ね太原雪斎が指揮を執った。近隣諸国に激震を与えた甲駿相三国同盟も、その音頭を取ったのは太原雪斎である。


「師よ、儂は……」


 家康は師を大いに尊敬していた。

 そしてその師の影響で、武田信玄という人物に異様なまでの執着を持っている。


 かつて挑み、何度も破れ、ついには大敗し、どうにも届かなかった巨星の背中を今でも追い続けている。

 武田信玄という人物は、己の父を追放して国主となり、外交上の行き違いから発生した嫡男の不穏な行動に対し、死を与える事で決着とした。あの武田信玄でさえ、長男を死なせている。自分も同じ道を辿ろうとしている事に、言い知れぬ高揚を覚えていた。



 そして翌年。

 酒井忠次の姿は安土城にあった。右大臣を辞任した織田信長の元に、家康の使いとして訪れているのである。そして、家康の苦悩を打ち明け、三河の空気が荒れ模様となる事について許しを請うた。


「三河殿のお好きになされるがよい。そう伝えよ」


 岡崎周辺の状況が不安定な事は、信長も既に把握してる。自分の娘の嫁ぎ先であるからこそ、その情報というのは嫌でも入って来るのだ。


「有り難きお言葉、しかと主に伝えまする」


 ここに、徳川信康とその母である築山の運命が決した。


 1579年10月、徳川信康、自害。


 後年、様々な逸話に彩られる事になる信康事件。だがそこには、複雑怪奇なまでに絡まり合ってしまった女達の事情があった。

 そして、親としての愛情など育む間もなく戦場を駆けまわった父と、少しばかり優秀すぎた息子の悲運。

 乱世とは言え、悲しい結果であった。


 それから、隠れた意図がもう一つ。


 1580年、正月。

 長男信康の自害から二ヵ月と経っていないこの日。浜松城の家康の居室に元気な泣き声が響いていた。


「泣くな、泣くな、ほれ、ほれ」


 生後六ヵ月になる男児を両手で抱きかかえ、父としてどうにかあやす。


「殿、かわりましょうか」

「よいのだ、儂は父だぞ、泣き止め、ほれ、ほれ」

「まあ、長丸、そなたの父上が頑張ってくれておりますよ」

「ほれ笑え長丸、ほれ、ほれ」


 見るからに仲睦まじい夫婦と、その間に生まれた子。

 子の母は三河の有力豪族である西郷氏の娘で、室町期に守護代まで務めた名家である。その元は土岐氏の一族であり、正しく姓を名乗るのであれば「みなもと」という由緒正しい武門の流れ。


 所謂「源氏げんじ」の血筋である。


「泣くな、ほーれほれ、おぬしが徳川の嫡男ぞ、泣くな」


 家柄を欲し、源氏であると称して徳川という家名を新たに設ける事で、どうにか「名」だけは手に入れた。だがその「実」が乏しい、名ばかりの家名。その跡取りに、三河西郷氏、言うなれば「源氏」の血筋を得た。名実ともに、由緒正しき源氏「徳川家」となったのである。

 その子こそが、後の徳川二代将軍、徳川秀忠である。


 徳川家康は、この源氏の血を引く男児誕生の直後に、長男を自害に追いやった事になる。更に言えば、その子を西郷の娘が身籠った事が判明した時期に、三河派の動きが不穏になり、徒ならぬ空気が漂い始めた事になる。

 だがそこにある真相がどうであったかを、調べる術の残されていない。


 家康はその子を頭の上に高く掲げ、徳川家の将来に夢を見た。


「ほれ高いぞ。おお、泣き止んだ。おぬしはな、徳川源氏の長じゃ。そうであるからには――っと、これ、これ、ぶわ」


 そして子が垂れ流した小便を顔中に浴びながら、自身の心にあった罪悪感を拭い去っていった。

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