第2話 守られた約束

 織田信長が奇抜な発想で家中の意見を纏め上げ、小牧山城へその本拠地を移した年の事。

 信長が嫡男奇妙丸に用意した縁談話に、家臣たちは度肝を抜かれていた。甲斐の守護大名、甲斐源氏の名門、甲信地方を治める大大名、武田信玄の娘を嫁に貰い受ける婚約を取り付けたと言うのである。


「こ、これは……。殿、いったいどのような手を使われましたか」

「ふん。ただひたすらに頼んだ。それだけだ」


 この数年間、美濃の攻略を着実に押し進めていた織田信長は、平行してひとつの交渉事に多額の資金を投入し続けていた。それが、攻略予定の美濃と国境を接する信濃の支配者、甲斐に本拠地を置く武田信玄への友好政策である。

 桶狭間の合戦において武田信玄の盟友である今川義元を討ち取ったあたりから、毎月欠かさず大量の金品を送り届け、ただひたすらに機嫌を損なわぬように気を配ってきた。

 その様子はあたかも平身低頭しているかのようで、武田信玄に「誠意がある」とまで言わしめる事に成功。本来は人質を差し出す側であると言っても過言ではない力関係の中で、逆に実の娘を貰い受ける約束をとりつけるという、神業的な交渉をやってのけたのである。


 織田家嫡男奇妙丸。

 その妻となるのは武田信玄の娘。

 大いに拍が付いた。

 織田信長はその事に一つの安堵を覚えていた。



 そして数年後。


 時に1576年。

 関係が悪化して宿敵となっていた武田家との一大決戦に辛うじて勝利した織田信長は、近年武将として各地で活躍を続けている長男を呼び出していた。元服後は勘九郎かんくろう信重のぶしげと名乗り、この年には信忠のぶただと名を改めていた奇妙丸である。


「勘九郎、うぬに家督を譲る」

「!?」


 あまりの事に呆気にとられる信忠に対し、信長は更に言葉を続けた。


「織田家の当主となるのだ。よいな」

「父上、お待ち下され!」


 これを黙って受け入れてしまえる程、信忠という武将は愚鈍な人物ではなかった。

 両手をつき、頭をさげ、言葉を投げ返す。


「畿内の安定化、中国には毛利、北陸では上杉、甲信の武田とて未だ健在、課題は山積で御座います。今この時にご隠居されるとあっては、家中は纏まりませぬ!」


 信忠のこの言葉に、信長は満足げに頷いた。


「案ずる事は無い、隠居はせん」


 床に手を付いたまま、信忠はゆっくりと顔を上げた。その長男の顔を、信長は優しい瞳で見つめている。


「尾張一国と美濃東郡を任せる。岐阜を本拠として織田の当主となれ。今後はうぬが織田を背負うのだ」


 信長の意思は固く、いくつかの反対意見を封殺する形で、織田家の家督は信忠に譲られる事になった。


 これ以降、織田信忠は精力的に軍事活動に参加。総大将として北陸から中部、時には畿内にまで出陣し、織田家当主としてその役割を必死になって勤めていく。そして、ついに武田家を滅亡に追い込むまでの才覚を手にするのだが、それはまだしばらく先の話。


 織田信忠は同年、朝廷から正五位下に叙せられ、官職として秋田城介あきたじょうのすけに任官。これは北陸で上杉家と争うにあたり、東北地方を治める正当性を肩書に求めていたとされており、その大義名分ともなる官位に織田家の当主が就いた事に意味がある。


 織田信長は同様の政策を好んで行った。

 両腕である羽柴と明智の両名には、九州攻略を見越して「筑前守」と「日向守」の官職を与え、更に九州の名家の家名を自身の家臣に名乗らせた。明智、丹羽、塙、梁田は、それぞれ惟任、惟住、原田、別喜。中国地方の官職として長門守を村井貞勝に、四国地方の官職として伊予守を滝川一益に。

 更に、信長の弟達や子達は、その殆どが尾張伊勢方面の有力豪族や大名への養子として送り込み済みである。


 戦国大名化に成功している権力者の多くは、自身の子を有力な地方豪族の養子として送り込み、その家を丸ごと配下に納めてしまう手法を取った。そうする事で、かつては反目しあった勢力でさえ一族として取り込めてしまう事と、もう一つ、跡継ぎではない男児を他家に養子に出す事で、余計な家督争いを発生させない狙いがあった。


 信長は今回の家督継承にあたり、信忠以外の選択肢が無い状態を作っておいたのである。それは、一大勢力に成り上がった織田家の内部分裂を避ける狙いと同時に、一人の女性との約束を守る意図があった事を、知る人物は多くない。


 かくしてその約束は守られたかに見えた。


 だが、やはり乱世は厳しく。

 女性の憂いはやがて、現実のものとなって若い当主に降りかかるのである。

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