覇王の秘密

犬のニャン太

第1話 交わされた約束

 1563年5月某日。


 尾張犬山付近にある小折城の一角に、織田信長の姿があった。

 城と呼ぶには小さい、大きな屋敷の奥にある小さな一室。るいという名の女性が住まうその部屋に、信長が訪ねて来ているのである。


「嫌で御座います」


 女性は明確な言葉で信長の提案を拒否した。信長は特に表情を変えるでもなく、その理由を問う。


「何故だ」

「嫌なものは嫌で御座います」

理由わけを申せ」


 凛とした姿勢のまま拒否を続ける類に対し、信長は表情一つ変えることなくその理由を問いただす。この不毛な押し問答が、かれこれ小一時間続いていた。


「では申し上げます」


 先に根を上げた類が、ついにその理由を口にせんとする。

 だが、言葉よりも先に、その両目から大粒の涙を零していた。


「茶筅に苦しい想いをさせとうはありまぬ」


 類と信長の間に生まれた子、茶筅丸ちゃせんまるの事が心配だと言うのである。


「案ずるな」


 短い言葉で返す信長は、涙を流す類の肩に手を置いた。ここ数年ですっかりと瘦せ細り、骨ばってしまったその躰を、信長が優しく抱き寄せる。


 乱世にあって、権力者の元に生まれた男児という立場は、想像を絶するほど重い荷を背負う。

 医療レベルの低いこの時代、病で命を落とす人間は多い。とりわけ幼児期の死亡率は現代と比べ物にならない程に高いと言える。財産である土地を持つ権力者には、その後を託す男児が必要であり、死亡率の高さも相まって権力者は多くの子を設けた。

 だが、その子たちが無事に育つと、今度は別の問題が発生する。現代風に言うなれば遺産相続である。男児の取扱いを慎重にやらねば、将来必ずと言っていいほど問題が発生するのだ。ましてや、正室の生んだ子と側室の生んだ子が入り混じるとなれば、その危険性は目を覆っても見える程となる。


 信長自身、それを痛感していた。

 織田信長は父の正室の長男であるが、実は腹違いの兄が存在する。父の側室が生んだ子が、所謂「庶長子」として織田家の一番上の兄なのである。

 織田家の嫡子を定める際、その庶長子である織田信広と、正室の生んだ長男である織田信長との間で意見が割れた。そして、父織田信秀は嫡子を正室の子である織田信長に定めた。正室の生んだ子や、正室という属性が備え持つその背後にある勢力。それらを何の後ろ盾もない側室の子が纏め上げられるとは思えず、苦渋の決断をしたのである。

 それによって、兄である織田信広は肩身の狭い思いをせねばならなくなった。兄であるにも関わらず嫡子として認められなかった劣等感に苛まれ、同じ理由で人々は陰口を言う。一方、嫡子となった信長は、そんな兄に気を配らねばならず、不仲となっては不要な戦乱の火種となる。

 いつしかそれは現実の物となり、兄である信広は隣国美濃の斎藤義龍と手を組んで謀反。数度に渡る戦闘の末、ついに兄が頭を下げて許しを請うという決着を見た。


 だが問題はそれだけに留まらなかった。

 道理を言えば長子が後を継ぐのが筋であるが、その筋を曲げて長子が後を継がないとなれば、それ以下の弟たち誰しもに「機会がある」という解釈をさせてしまう危険がある。

 それによって生じた心の亀裂により、織田信長はすぐ下の弟とも激しくぶつかり合う事となり、その弟の「死」という決着を付ける事になってしまった。


 類の心配はそこにある。

 今後、信長と正室との間に子が出来ないとも限らない。


「茶筅を死なせとうありませぬ」


 信長に身を預け、涙ながらにそう訴える。


「何度も申しておろう。子らをのうの養子とする」


 濃とは、美濃から来た姫を意味する呼び名で、織田信長の正室を指す。正室の子としてしまう事で、その正当性を確保しようと言うのだ。信長が「子ら」と表現したのには、養子に迎えようとする子が複数いる事を指していた。

 茶筅丸の上には、奇妙丸という名の兄がいる。

 同じく下には妹がいる。


 類は黙って俯いた。元より、言い出したら止めても無駄なことくらいは承知している。それでもこうして抗っているのは、どうしても守りたい存在があるからであった。


「ならば、奇妙ばかりはお許しください。私めだけの、私めひとりの子として育ててゆきます。どうか、私めと奇妙の事はお忘れください。必要とあらば、高野山へでも何処へでも行きます、どうか、どうか」


 懇願。涙がながらの懇願で、どうにかこれだけは認めてもらわねばならない。叶わぬなら、我が子は必ずや悲痛な運命を背負う事になる。


「ならぬ」

上総介かずさのすけ様! お願いで御座います、奇妙だけは、奇妙だけはお許しください!」


 縋りつき、覚悟を決めた。

 これで駄目なら、自害してでも訴えるしかない。どうせこの先長くない命であろうし、今に至るまで、この身を預ける男に深い情をかけられ、夢のような日々であった。後悔はない。類はそう覚悟を決めた。


「案ずるなと申しておろう」


 信長は類の両肩をしっかりと支え、体を引き離して顔を覗き込むと、やつれてしまったその頬に、己の頬を添わせるようにしながら耳元で言葉を続けた。


「織田の嫡男は奇妙だ。約束したであろう……奇妙の事は大切にすると、そう約束したではないか、忘れたのか。奇妙は、俺の子だ」


 信長の言葉に、類は声を発する事が出来ないでいた。その様子に、信長は珍しく饒舌に言葉を並べていく。


「生まれたばかりの奇妙を最初に抱きかかえた男は、この俺だ。奇妙と名付けたのもこの俺だ。奇妙が腹の中におるときから、俺が父だと言い聞かせてきた。案ずるな、奇妙は俺の子である。誰が何と言おうとも、奇妙は俺の子、織田の嫡男である」


 類はそのまま「ああ」と声を上げて泣き崩れた。そうまで言われてしまっては、断る理由がなくなってしまう。三人の子を取り上げられるような気がして、心と躰が引き離されるような気がして、ただただ愛する主に縋りついて泣いた。


 数か月後。

 織田信長と類との間に生まれた、茶筅丸と五徳姫。そしてその兄である奇妙丸の三人は、完成した小牧山城で織田家の家臣団にお披露目となった。

 主である織田信長に子がいるという事実を知らされていなかった家臣たちは、唐突に発せられた「庶子を正室の養子とする」との宣言に、それはそれは驚いたと言われている。

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