儚く散った、愛するあなたへ

景崎 周

儚く散った、愛するあなたへ




「ななちゃんのお姉ちゃんはね、もうすぐ天国にいってしまうんだよ」


 暑い暑い夏の日。

 病院の先生は、私にそう告げた。


「だからね、寂しくともお母さんとお父さんに協力してあげて」


 うん。とも、いや。とも言えずただ口を噤む。


 不思議と悲しくはなかった。いつも感じている寂しさも消えていた。

 ただただ衝撃的で、瞬きすらも忘れていた。


 私のお姉ちゃんは今年で十三歳になる。

 もうすぐ中学生なのに、生まれてから一度も病院の外に出たことがない。

 生まれつきの病気で学校にも遊園地にも海にも行けない体なのだ。


 そして、お姉ちゃんの体を蝕んでいた病魔は、遂に命を食い潰そうとしていた。




「ねえ、お姉ちゃん。今日友達にね、人魚の話を教えてもらったの」


 一人病室に戻り、今日の出来事を報告する。私の毎日の日課だ。


「どんなお話?」


 鼻カニュラを付けたお姉ちゃんは横になったまま、ゆっくりと言葉を話す。


「それがね、アニメや絵本の話とは全然違うんだよ。十八歳の女の人がね、お父さんが持ち帰った人魚の肉を食べて不老不死になっちゃうの。その女の人は寂しくなって、洞窟に引きこもってね。最後には若い姿のまま八百歳で死んじゃうんだって。ちょっと怖いでしょ?」

「人魚、食べちゃうんだ」

「そう。食べちゃうの。しかもその女の人がいた洞窟がね、うちのすぐ近くの粟嶋あわしま神社なんだって。ほら、この前話した山の上にある神社だよ」

「へえ」


 お姉ちゃんはすうっと、大きく息を吸う。


「私、そのお肉欲しいなぁ。食べたらきっと、病気も治って長生きできるから」


 心臓がぎゅうっと縮んだ。急に体が冷えて、先生の言葉が過ぎる。

 奇跡が起きない限り、お姉ちゃんは死んでしまうのだ。


「ななちゃん。人魚のお肉、持ってきてよ。私は探しに行けないから」

「……うん。絶対見つけるね」


 私は大きく頷いた。




 翌日。

 朝一番に神社でお参りし、おじいちゃんと中海なかうみへ向かった。

 人魚を釣る。釣ったらおじいちゃんに捌いてもらって、病院に持っていくのだ。

 私が、お姉ちゃんを助ける。絶対に絶対に、死なせない。


 来る日も来る日も釣り糸を垂らし、釣りに明け暮れた。しかし釣れるのは、キューキュー鳴くフグとゴズばかり。お蔭で毎日ゴズのから揚げを食べなければならなかった。

 唐揚げにも飽きた十日目にようやく、中海はヘドロの溜まった海だから、人魚はいないのかもしれないと思い至る。サンゴ礁のある澄んだ南の海ならいるのだろうけれど、ここは駄目だ。人間の手が入って、すっかり穢されてしまった。



「ねえ、ななちゃん。おじいちゃんに聞いたよ」

「え?」


 夏の終わり。

 私が真っ黒に日焼けしている間にもお姉ちゃんは衰弱していった。口からご飯が食べられなくなり、点滴が増えた。もうすぐお腹に穴を開ける手術をするそうだ。


「人魚のお肉の話、気にしなくていいんだよ。あれはちょっとした冗談だから。ななちゃんは自分のしたい事をして? 私は多分もう、ダメだから」

「やだ! 絶対絶対釣るのっ!」


 絶対に人魚の肉を手に入れるの! と私は泣きじゃくった。




 病院から帰り、おばあちゃんの作った干し柿を持って一目散に粟嶋神社へ走る。

 毎日登っている百八十七段の階段を無視し、右側の木々に囲まれた細い道へ。危ないから近づかないのよ、と言われていたけれどもう知らない。この先に人魚伝説に出てくる女の人が籠った洞窟があるのだ。行かなければ。

 細道の入り口には『しずの岩屋』と書かれた看板が立っていた。矢印の通りに私は進む。

 鬱蒼と生い茂った木々。苔に覆われた岩。シダや変わった形の葉っぱが、足元で艶やかに濡れていた。地面にはマットのようなものが敷かれているが、それも苔むしている。

 妖怪が出てきそうだ。心細くなりながら私は歩き続ける。


 やがて、開けた場所に出た。そして視界に鮮やかな朱色の鳥居が現れる。

 あそこだ。

 ゆっくりと近づくと、鳥居の傍には二基の石灯籠が並んでいた。その奥には、柵と紙垂で護られた小さな洞窟があった。


八百比丘尼はっぴゃくびくに様。どうか人魚の肉を分けてください」


 小柄な鳥居の前に干し柿を置き、手を合わせる。

 どうか、お姉ちゃんを助けてください。私の大好きなお姉ちゃんを。


 それから毎日、干し柿を持って洞窟に通った。まず洞窟に行き、それから階段を上って拝殿でも手を合わせる。

 夏が終わって、樹木が赤や黄に色づいてもやめなかった。木枯らしが吹いた日も、雪の日もずっと。




 でも、八百比丘尼様はお姉ちゃんを救ってはくれなかった。

 庭の沈丁花の花が咲いた日。お姉ちゃんは天国へと旅立った。

 眠るような安らかな最期だった。


 葬儀の後、私は泣きながら家を飛び出した。

 辿り着いた粟嶋神社の階段をがむしゃらに駆け上がる。

 階段周りに茂る草木がさらさらと揺れ、私を嗤っているようだった。


「大っ嫌い!!」


 肩で息をしながら、木製の古びた拝殿へ叫ぶ。

 二度と手を合わせてやるものか。と睨みつけて、一気に階段を駆け下りたのだ。



 ***



 あれからもう、二十年がたった。

 大人になった私は再び粟嶋神社に赴いていた。

 大きなお腹が邪魔で階段を登るのも大変だ。


 お姉ちゃんが亡くなってから、私は頑なに神社に行かなかった。

 しかし、ここは安産の神様、少彦名命すくなびこなのみことを祀っているのだという。


 どうか、お腹の子が健やかに育ちますように。

 お姉ちゃんのように誰からも愛される女の子でありますように。


「あの時はごめんなさい」


 何とか階段を登り切り、拝殿に手を合わせてゆっくりと祈る。


 もうすぐ生まれてくるこの子には、お姉ちゃんと同じしずかの名をつける予定だ。

 静が元気に長生きしますように。八百歳とはいかないまでも、百歳までは。


「ごめんなさい」


 今でも鮮明に思い出す。穏やかな声も、吐息の音も、笑った時のえくぼも。何もかも忘れられない。



 目を閉じて涙ぐんでいると、私を呼んでくれた優しい声が聞こえたような気がした。


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