第16話 別れ話

 別れ話をしよう、そんな歌があったと、如は不意に思い出した。

 今日も雨が降っている。

 ラウンジの大きなガラスを濡らす雨は霧のように細かく、緑の庭園を煙らせていた。

 どうやって終わりにすればいいのだろう。

 お互いにすべきことなどわかりきっている。そう、ただこのまま離れてしまえばいい。会うことも、電話も、それにメールも、互いの存在など初めからなかったかのように静かに自分と恋人との生活にひき戻ればいい。

 ただ、それだけのこと。

 最後だから、別れ話をする為だからとこうして会うことさえ、恋人への裏切りかもしれなかった。

 どうしてだろう。

 何度目になるのか、何に対してか如はまたそう思った。

 いつまでも続けられると思っていたわけでもない。

 誰かを裏切り続けてもそれが明るみにならなければそれでいいと、そう思っていたわけでもない。

 ただ何となく、未来が見えないように終わりも見えていなかった。

 篠吹との関係はいつも曇り空だった。いつ晴れるともいつ雨になるとも知れない、暗く重たい空。

 虹の話をした。そして、虹はもうすぐ幻や追憶と呼ばれるものになるのかもしれなかった。

 ぬるくなったカモミールティーで唇を湿らせて、いつまでも篠吹がこなければいいと思っている自分にようやく気付いた。

 今日は会いたくなくて、その目的の為には会いたくなくて、だから約束の時間よりずっと早く待ち合わせの場所にやってきた。

 そして待っている。いや、精神的には待ってなどいないのだろう。

 会うことが終わりならば、会いたくなどない。宣言もなく終われる方があるいは幸せなのかもしれない。

 終わりだと、これが最後だとそう口にすることさえなければ、永遠は沈黙の内に約束されるのかもしれない。

 口をつぐむ、それは秘密を殺すことではなく、秘密を眠らせることだ。

 永遠を、望んでいるのだろうか。

 「待たせたかな」

 その気配が間近にやってくるまで、如は顔を上げなかった。

 いいえ、と唇だけを動かして微かに笑う。

 篠吹は如を正面から見下ろし、少しだけ表情を変えた。髪を切ったのかと、問おうとしたのかもしれない。けれどそれ以上何も言わず向かいのソファに腰を下ろした。

 「コーヒーを」

 と篠吹がボーイに告げると、

 「僕にも同じものを」

 如もそう言った。

 空になったティーポットに、篠吹は如がこの場所で過ごした時間を思った。

 如は微笑んでいるようにも見える表情で、眼下の庭園を見ているようだった。

 霧雨を払うように篠吹は自分の髪に触れる。如が篠吹を見た。

 髪を離れた篠吹の手を如は目で追う。男らしい、けれど美しい篠吹の手。その手の愛撫を何故か強く思い出し、如は自分が篠吹の手を、そして篠吹を、好きで、愛していたことをまた強く思った。

 篠吹はやや怪訝そうな表情を浮かべた。篠吹には如が微笑んでいるように見えたのだった。如は完全に吹っ切れたのだろうか、そんなことを考えた。

 「失礼いたします」

 二人の間に沈黙はどれだけ続いたか。ボーイが香りのよい湯気を立てるコーヒーを運んできた。

 篠吹はそのままで、如は少しだけミルクを加えてコーヒーを飲んだ。

 篠吹はカップを見つめたまま

 「店の方が旨いな」

 そう呟いて苦く笑う。

 「ありがとうございます」

 如も篠吹を見ずにそう応じた。

 沈黙。それは確かに正しい答えだった。話すことなど初めから何もない。

 如はカップを手の平に包み込み、再び窓の外に視線を向けた。

 「また」

 口をついて出た言葉に自ら驚きながら、如はゆっくりと篠吹を見た。

 篠吹は如を見返す。戸惑いを隠しきれない、しかし如の言葉を待つ静かな表情をしていた。

 「また、どこかで出会ってしまった時はどうしますか?」

 「そうだな」

 黙っていることはできなかった。その瞬間の如を裏切りたくなくて、傷つけたくなくて、篠吹は意味のない言葉を口にした。

 その思いは受け止めていると、ただそう伝える為だけの言葉だった。

 如は満足気とはいかないまでも少しだけ穏やかな表情になって目を伏せた。

 「どうして、選べないんでしょうか」

 「え?」

 表情に反した言葉だと篠吹は感じた。

 ゆっくりと篠吹の瞳を覗き込みながら如は繰り返す。

 「どうして僕たちはお互いを選べないんでしょうか」

 篠吹に向かう怒りではない。自分たちに向ける哀れみでもない。一番近いのは自身に向ける問いだろうか。

 「如くん?」

 「……あなたが欲しい」

 篠吹から突然目を逸らし、如はラウンジの中央に置かれていたグランドピアノに目を移した。

 いつの間にか音楽は変わっている。軽やかでどことなくのどかな、篠吹も聞いたことのある曲だった。

 「サティの、あなたが欲しいという曲です」

 「ああ」

 如の態度に戸惑いながらも篠吹はそうか、と小さな声で応じた。

 「誰かを大切に思う気持ちと、欲しいと思うことは、違うんでしょうか」

 ピアノから篠吹の視線を通り過ぎ、如は窓の方に視線を向けた。

 白いカップを口元に運ぶ手がわずかに震えているようだった。細い指に篠吹が感じたのは、今までにはない痛ましさだった。

 如には、今までもいろいろなことを尋ねられた気がする。

 思えば、その問いは全て物事の、少なくとも自分というものの存在の本質に繋がっていて、問われることが気持ちよかった。

 今の言葉もまさしくその通りだった。

 篠吹にとって涼は何よりといえるほど大切な存在だったけれど、如はそれとは少し違っていた。

 涼は身近にあって、愛しく大切な存在だ。如は、いつもは自分のそばにはなくて、あるいはそれ故に手を伸ばしたくなるそんな存在だったかもしれない。

 これほど奇跡的に出会いを繰り返し、そして同じようにすれ違うことも珍しいだろう。如は何を思うのだろうか。疲れているようにも見える横顔、如は痩せただろうか。短くなった髪に縁取られた、芸術的な輪郭。

 まだ、自分にとって彼は、特別な存在なのだと篠吹は改めて思う。

 「……」

 篠吹の思いに応じるように、如が篠吹に視線を向けた。

 唇が動きかけて止まる。如は一瞬息を止めて、ゆっくりと笑った。同じ、とかすれた声がした。

 「同じ、気持ちなのかな」

 「俺も、同じこと考えていたよ」

 「辛いですね、かえって」

 ああ、と篠吹も寂しげに微笑む。

 「同じものを感じる。同じように、同じ瞬間に」

 それが、と言いかけ如は額をそっと自分の指先で支えるように俯いた。

 如の声が震える。

 「心地いい、幻想なのかもしれませんね」

 如は細く長く息を吐いた。

 「いく……」

 濡れそぼった髪から雫が落ちたのかと、篠吹は一瞬錯覚した。

 如の指先から流れて落ちたのは。

 ぱたっとそんな音がした気がする。指の合間から零れる雫が、テーブルの下へ消えていく。篠吹には如が泣いていることが信じられなかった。いや、信じられないのではなかったかもしれない。ただ、如が自分との別れに際して涙を見せるということが想像できなかった。

 何故なのかはわからない。

 「って……さい」

 「え?」

 如は顔を上げず消え入りそうな声で呟いた。

 「あなたを失いたくない」

 今度は篠吹にもはっきりと聞き取れる声で告げた如。それでも顔は上げない。

 「僕はあなたを引き止めてしまう。僕には、終わりにできないから……もう、行ってください」

 如は揺れている。

 気持ちに反したことを訴えている。

 密やかな幸福だけに支配されてきた関係ではなかった。誰かのことを思って、いつも苦しくも痛くもあった。それでも離れられずにいた。ここまでやってきた。

 如の痛みは自分の痛みでもある。

 許されないのだとしても抱きしめたくて、何か言葉を口にしたくて、できなくて、胸が押しつぶされそうだという気持ちを篠吹は初めて知った気がした。

 帰れば涼がいる。自分が、自分たちが傷つけた、愛しい人が待っている。

 何故お互いを選べないのか、如の問いが新たな重みで篠吹に迫る。

 何故?何故選べない?

 答えが……

 「……」

 出せない。

 篠吹は黙って席を立つ。

 如の気配が微かに震えた気がした。

 「同じ」

 篠吹の唇を言葉がついて出た。

 「同じ気持ちだよ」

 足早にラウンジを横切る。最後はお互いを見なかった。

 どうしても何かを伝えたかった。彼一人を苦しめることのないような、彼一人が苦しんでいると思わずに済むようなそんな言葉を。

 如は何と思っただろう。今もまだ涙を流しているのだろうか。

 彼が泣くのを見たのは、帰国してあのバーで再会した夜以来だ。

 レジに二人分の代金を預け、釣りがでれば相手に渡して欲しいと篠吹は言った。

 そして振り向かない。

 もう二度と会うことはないのだろうか。ふとそんなことを思った。

 

 残された如は目を閉じたまま顔を上げた。

 篠吹の最後の言葉が耳に残る。

 それに縋ることはできる。けれどだからといってその言葉が今の自分を救ってくれるわけではない。

 理由などわからない。ただ苦しかった。

 愛していた。言葉にできないほど、どうしようもないほど、好きだった。失う前からわかっていたはずだった。もう、何度目になるのか。けれど、これまでとは決定的に何かが違った。

 既に自分たち二人だけの問題ではなかった。こうしている時間が、明確に、誰かを傷つけている。これまでの裏切りはさらに、その痛みをひどくする。

 これでいい。

 本当は、もっとずっと前に終わった筈だった。これまでの時間は、是俊たちに、詫びても詫びきれないけれど、いつまでも続かないと悟りながら過ごした時間は、ただ楽しく幸福なだけではなかった。だから許されるとは決して思いはしないけれど、苦しい時間もこれで終わったのだと、そう考えれば少しは安堵できるのかも知れない。

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その思いの果て -バタフライ・モノクローム3- 西條寺 サイ @SaibySai

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