第15話 居場所

 いくら家に帰らなかったとは言え、如が会社にまでやってくるとは是俊も考えてはいなかった。

 「お前……」

 エントランスで自分を待っていた如の姿に是俊は目を見開いた。

 「話、したくて」

 如は自分の容姿の変化など口にもせず是俊がやってくるなりそう言った。

 同じ会社に勤めていた頃に比べれば短いとは言えないが、如は背中の中ほどまであった髪をばっさりと切っていた。長いこと着ていなかったスーツに身を包んでいるのも、是俊の職場を訪れる為の気遣いだったか。顔見知りの受付嬢たちが興味深そうに二人を見ている。

 「今夜は、帰る……」

 是俊が如の瞳を真っ直ぐに見据え、小声で言った。

 「ありがとう」

 如は張り詰めた表情のまま、微かに目元を下げた。そして

 「これ……食事してなかったらいけないと思って」

 言いながら手にしていた小さな紙袋を差し出す。如の店のネームが入った白い袋を是俊は黙って受け取った。

 「藤枝さんじゃないから、あんまり美味しくないかもしれないけど」

 お前が作ったのかと尋ねようとして是俊は思いとどまった。聞くまでもないことだ。如は目を伏せて曖昧な微笑を浮かべている。

 「ごめんね。忙しいのわかってたんだけど」

 「ああ」

 如は顔を上げて、また後で、と是俊に告げた。

 「ああ」

 「それじゃあ、ごめんね」

 如は受付にいる女性たちに軽く頭を下げるとそのまま出て行った。


 久しぶりの二人だけの夜。

 静かな時間は数日前と何ら変わったようには思えなかった。

 けれど、ほんの少し前にはどこにもいなかったはずの暗い沈黙が時折部屋を横切った。

 是俊がふっとため息をつく。

 「お前のしたいようにしろよ」

 優しさと呼ばれるのにふさわしいその声に如は顔を上げた。

 「誰より、愛してるから……俺はお前を縛れない」

 奪うのも愛だとそう信じていた自分は何と幼く傲慢だったのだろうと、是俊は苦く思い出す。今、最愛の人間の前で裏切りにさえ躊躇わずひれ伏している自分に不思議な気さえする。

 この目に映る、美しい人間には一生かなわない。そう宿命付けられている。ふと是俊は思った。

 ここが、そう切り出した如を是俊は見返す。何を告げられるのだろうか。花弁のような唇が震えるように開かれる。

 「ここだけが、自分の居場所だって、今でも思ってる。勝手なことをって、言われても仕方ないけど、僕は、本当にそう思う」

 それは、これからもここにいたいという、自分との生活を続けたいと如がそう思ったということだろうか。

 驚きも戸惑いもおくびに出さず、

 「先生が、好きなんだろ?」

 是俊ははっきりと尋ねた。

 「好きだよ」

 嘘のない、如の眼差し。

 自分で聞いておきながら、ただの浮気ではないと断言されるとやはりショックは大きい。

 しかし、それならと言いかけた是俊を制して

 「でもあの人との未来はない。一緒にいた時でも、次の瞬間を想像できなかった。ずっと一緒にいたいって、そう思う相手は篠吹さんじゃない」

 如の声は、その瞳と同じくらい真摯だった。

 是俊はどういう意味かと眼差しで如に問う。

 「僕は篠吹さんみたいになりたかった。女々しい外見も狭量で陰険な性格も自分の全てが嫌いだった。初めてあの人を見た時、僕は自分の理想がそこにいるんだと思った。自分がそうなりたいけどなれないから僕はあの人を愛してた。理想を手にいれたかった。でもそれは夢みたいなもので、僕は自分が……理想の側にいながら、永遠に交わらない存在だってわかってた。だけど、欲しかった。どうしても」

 ため息をつきながら微笑んで、如は確かにと呟いた。

 「それだけだって言い切ることはできないけど」

 きっと、と如は表情を曇らせた。

 「篠吹さんの相手が、もし涼君じゃなかったら……僕はあの人を諦めてたと思う。勿論、こんなの言い訳だってわかってるけど……でも……涼君だって知った時は」

 ショックだった……。

 「如」

 愛しくてたまらない相手の名を呼んで、是俊は如の頬に手をかけた。短くなった柔らかい髪をそっと撫でて

 「後悔するとわかってる選択をする奴は、ただのバカだぞ」

 それは優しさでも愛情でもない、是俊は静かに告げる。

 思いつめた眼差しで、如は首を左右に振った。

 「是俊君を好きなのは、本当だから。今までも、これからも、僕が恋人だってそう言えるのは是俊君だけだよ」

 それは旅立つ前と同じ言葉。

 自分を打ちのめすほど幸福にした如の言葉だった。

 力強く如を抱き寄せた是俊。腕の中で如は静かに顔を上げた。

 「何て謝ればいいのか、わからないよ。何をすれば許してもらえるのか」

 そこまで言うと如は是俊から視線を反らした。それは確かに悔いている、後悔ゆえに苦しむ人間の表情だと、是俊は知っていた。

 「許して欲しいなんて、僕が言うべきじゃない。許されるなんて、思ってない。謝ることしかできないけど、何でも、是俊君の言う通りにするよ」

 許しは求めていない。ただ償いたいと、その傷を痛みを癒したいのだと、如は静かに続けた。

 神は自らを称えさせる為に人に言葉を授けたという。今の如は、是俊に捧げる言葉しか持たなかった。

 だったら、と如を抱きしめたまま是俊は囁くような低い声で耳元に告げる。

 「全部くれよ。身体だけじゃなくて、お前の気持ちも、心も、全部、俺にくれ」

 攫うような力強さで是俊は如を寝室に連れ込んだ。ベッドに押し倒し、引き裂くように如の衣服を脱がせる。

 初めて目にする荒々しい是俊に、如は死を覚悟した人間のように抗うことなく従った。

 如、まるで呪いのように祈りのように、苦しく厳かに是俊はその名を呼ぶ。

 震える指先の愛情に溢れた、優しい軌跡。

 「なんで……」

 如の声がかすれる。

 「優しく、しないで……」

 是俊は驚いたように動きを止めた。

 見下ろした如の前髪をゆっくりと撫でる。どんな、とかすれた声で是俊が呟いた。

 「どんな気持ちで、あの人のところに行った?」

 潤んだ如の目が見開かれる。是俊が問うのは、きっとあの日のこと。

 「涼くんじゃなくて、僕のものになるはずだった、なのに、何で、って、何で、僕じゃなかったのか、僕の方が先に出会って、先に、好きになったのに。そう、思った」

 切れ切れの如の言葉に嘘はない。如の態度が言葉が真摯であればあるほど、それが自分への誠意からではなく、篠吹への思いの深さからくるのではないかと、是俊は思った。

 「抱かれて、満足したのか?」

 重なる是俊の問いに、その苦悩と痛みを思い知る。如は是俊を労わるように言葉を選びながら口を開いた。

 「痛かったから、ただそれだけで、それ以上、何も感じられなかった。けど、それで、関係も壊れて、期待するものも意地もなくなって、少し安心した。もう、この人のことを考えることも、執着することもなくなるんだろうって、あの時は本当にそう思ってた。何かが終わって、解放されたような気分だった」

 そうか、と是俊は呟いた。如を深く知ることのない人間には、想像も及ばない如の激しい情熱。篠吹への、如の思い。普通ならば、理解などできないかもしれない。けれど、自らのプライドを守るという意味ではなくて、是俊には、如の痛みや悲しみがわかってしまう。如が決して、自分を裏切ることを、傷つけることを意図していたわけではないと。ただ長年の情熱のままに燃え尽きたかったということを。

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