第14話 誓い
篠吹が涼と顔を合わせることが出来たのは、如の店で別れた翌々日になってからだった。
店を出て涼の姿を探したが見つからず、その日も翌日も電話が繋がらなかった。
結局、涼のアパートを度々訪ね、一日経ってから帰宅した涼を捕まえることができたが、当然のことながら涼の表情は暗く口も重かった。
どうしても話をしたいのだと言い張る篠吹に、涼は遂におれた。けれどそれは諦めというよりただ疲れきっていたからのようだった。
涼の暮らす部屋で、二人は向き合った。
「如さんが、好き?」
篠吹の瞳を真っ直ぐに見つめて涼がきいた。篠吹が言葉につまると涼は目を伏せ
「是俊は、如さんがすごく好きだって言ってたけど、お互い、同じくらい好きじゃないと上手くいかないのかもね」
「涼」
俺はと涼が顔を上げる。力強い眼差しは僅かにうるんでいた。
「篠吹が好きだった。あの時、相手が誰かわかってもしらん顔してた。あの人も篠吹が好きなんだってわかったから」
俺よりと涼は声を震わせた。
「あの人が好き?」
「涼」
自分の言葉に耐えられなかったか、顔を背けた涼に篠吹の胸は激しく痛んだ。
是俊の部屋に涼を迎えに行った時と同じ、あるいはあの時以上の罪悪感。
自分が追い詰め、傷付けたことを知りながらどうやってその傷を癒すというのだろう。自分の存在自体、今の涼にとっては耐え難いものだろうに。
篠吹は一瞬思案し、それからゆっくりと口を開いた。
「聞いて欲しい。彼と……俺のことだ」
はっとしたように篠吹を見つめた涼は怯えたような眼差しをそれでもそらさなかった。
涼の視線を真っ直ぐに受け止め、篠吹は静かに話し始めた。
「彼と知り合ったのは、実は大学時代だったんだ。だけど、俺はそれを忘れてた。正確には、出会ったことを忘れてたんじゃなくて、彼が誰だったのかわかってなかったんだ。その当時から、俺は、彼の存在は知っていたのに、彼が誰か知らなかった」
涼の表情が微妙に変化した。驚いているようにも、物言いたげにも見える唇の微かな震え。篠吹はそれを見て、そっと涼の頬に手をかけた。
「いつか、話したね。まだ涼と知り合って間もない頃……俺には、二度と会えない人間がたくさんいるって」
涼は呼吸を止めて、篠吹の顔を凝視した。
篠吹は涼の頬を撫で、ゆっくりと手を引いた。
「彼とは、仕事の付き合いで何年か前に知り合ったんだ。だけど、それでもまだ俺はわからなかった。それどころかいい友達になれたらいいって、本当にそう思ってた。だけど、涼に出会って……初めて会った時に、恋をした」
「……」
篠吹の言葉にちょっとだけ苦しそうな顔をして涼は目を伏せた。
そうされて勿論篠吹の心も痛んだが、今は自分の感じるささやかな悲しみなどにかまっている場合ではなかったと思い直し
「彼が、記憶の中の人だって知ったのは……涼が家に来た、あの夜だった」
最後まで言い切る。
涼は信じられないという表情で再び篠吹を見る。
「程度や回数の問題じゃないって、そんなことわかってる。けど、彼とは、本当にそれだけで終わりにするつもりだった。フランスに行く話も、涼が教えてくれて初めて知ったんだ。それが……俺のことだけが原因じゃないのは間違いないだろうけど、俺には、それが彼の決意みたいに思えた。だから連絡も取らなかったし、それこそいつ帰国したのかも知らなかった。再会したのは、本当に、偶然だった」
「でも」
そこまでじっと篠吹の話に耳を傾けていた涼が声を発した。
「如さんは、篠吹が好きで、篠吹だって如さんが」
「涼」
遮ろうとした篠吹を制して、涼は吐き出すように続けた。
「今だって……今だってそうなんじゃないの?」
「そうじゃない」
「どうして?だったらどうして?」
破裂しそうな悲しみを湛えた涼の眼差し。
篠吹は口を開きかけ、そして止めてしまった。ゆっくりと口を突いたのは
「すまない」
低い悔恨の言葉だった。
「そんなんじゃ……わかんないよ」
また顔を背けて、涼は呟いた。
「すまない……」
涼に、その震える肩に伸ばしかけた手を篠吹はゆっくりと下げた。
傷を癒せない沈黙が流れ、やがて涼がかすれた声を発した。
俺も、とそう言ったのだろう。
篠吹は黙って涼を待った。
「俺も話すよ」
「……」
眉根を寄せ、まるで何かに耐えるような眼差しをしながら、それでも涼は口元だけで微笑んでいた。
搾り出すような微笑は、泣き顔よりいっそう篠吹を責め苛んだ。
篠吹はどうしてそんな顔をするのかと問おうかと一瞬躊躇した。
けれど涼は
「俺のこと、話すよ」
そう繰り返し、暗い笑みを浮かべた。
「俺が初めて抱かれたのは、兄貴だった」
突然の告白。
言葉を失った篠吹に涼はまた微笑んだ。
「有麻とは、全然血は繋がってない。けど、俺にとっては……本当の兄弟以上の存在だった。再婚してからも、母親は忙しかったし、新しい親父になんて俺は何も期待してなかった。だけど、有麻だけは……いつも俺を見ててくれた。いつも、俺を誉めてくれた。俺は本当に有麻が好きだった」
是俊に話したことを繰り返すように涼は語った。違いと言えば、是俊に話した時よりずっと苦しいということだろうか。
「いつの間に、あんな関係になったのか、もうわかんないよ。小さいときは、抱きしめられてもキスされても、ただ嬉しいだけだった。それが……だんだん違う意味になってきて……だけど、それでも俺は兄貴が好きだった」
「もういい、涼。わかった」
篠吹はそう言って涼を抱き寄せたが涼はさらに続けた。
「抱かれるのが嫌だったわけじゃなくて……有麻が俺にとって兄貴じゃなければよかったんだって気付いた。有麻は……有麻だけが、家族だった。血は繋がってなくても兄弟で、兄弟だから、だから有麻は俺を愛してくれるんだってそう思ってたから……」
「……」
涼は全て話すつもりなのだと篠吹は悟った。
有麻が言いかけ、是俊が制したこと、きっと何もかも。
そっと背を撫でると涼が顔を篠吹の首筋に押し付けた。
「家を出たのは、妹に見られたからだった。俺の部屋で、抱かれてるところを見られて……有麻は平気だった。妹に目で出て行けって合図して、それだけだった」
そうだったのかと篠吹も低い声で応じた。
そんなことがあったのかと、篠吹は涼を抱く腕に力を込めた。すると
「本当は」
涼が不意に顔を上げた。
もう苦しげな笑みなど浮かべてはいなかった。
涼はただ、苦しそうだった。
「俺が謝らなきゃいけない」
「涼?」
涼の苦しげな眼差しを絶望にも似た諦観が過ぎていく。
篠吹は俄かに不安を覚え、ゆっくりと涼を抱いていた腕を放す。
「俺は、是俊に会うまで……家を出てから……ウリ、やってた」
篠吹は今度こそ言葉を失くした。
「病気は、持ってない。それだけは調べてもらったから。けど……イヤだよね。知ってたら抱かなかったでしょ?」
顔を背けて、自虐的に笑った涼。
「俺、汚いよ。いろんな奴と寝た。篠吹に、大切にしてもらう価値なんてない」
挑戦的に篠吹の顔を見た涼は突然篠吹の腕を取って自分の顔に近づけた。
「殴っていいよ。俺は篠吹を騙してた。あの人みたいに……バカみたいに篠吹だけを思ってたわけじゃない。男が好きなんだ。有麻に教え込まれたからさ。誰でもよかった。是俊に飽きたんだ。だからもういいよ。篠吹は……篠吹だけを好きな人のところに行けばいい。俺なんか傍においてても何もならないよ」
いつになく饒舌な涼の引き裂かれるような胸の痛みを、怯えた瞳の中に篠吹は見つけた。
腕を掴んだ手が、震えている。
「涼……もうやめてくれ」
「っ!」
涼が驚くほどの力強さで篠吹はその体を抱いた。
抱いて壊れればいいと、切に願った。痛みはきっと、涼の心を引き裂く激痛を僅かでも和らげるだろうから。
「愛してるんだ。涼が今まで何をしてこようと関係ない。他の誰かが俺を必要としてくれても、俺は涼しかいらない。如君じゃない。俺は涼が好きだよ」
涼は篠吹の腕の中で呼吸を止めた。
どうして、と呟く声が嗚咽に変わる。
「こんな言い方無責任かもしれないけど……彼といると絶望的な気持ちになった。彼は俺を覚えていて、俺は彼の存在だけを知っていて……だけど、お互い別の相手を好きになった。それでも、出会った日のことが忘れられなくて……昔を思い出すみたいに、昔を取り戻すような、そんなつまらない、いや、不可能な遊びをしてたんだ。彼との未来は、想像できなかった。その瞬間と過去だけが、俺と彼を繋いでた。それが……絶望的で、気持ちが良くて、いけないとわかっていたけれど、そこに立ち戻ることは心地よかった」
すまない、と篠吹はいつかと同じ言葉を口にした。
「涼に飽きたとか、嫌いになったとか、そういうのじゃない。彼を涼みたいに大切には……できなかった。彼にも、勿論申し訳なかったと思う。だけど、涼と同じようには……他の誰も扱えないんだ」
「おれ、もう嫌だよ」
泣きながら涼はそう言った。
「いらないなら、嫌いになって。もうお前はいらないって言って欲しい……じゃないと、俺はずっと苦しい」
ここまでの告白は、やはり自分に嫌われる為だったのだと篠吹は改めて理解した。
優しい言葉で誤魔化しながら裏切るくらいなら、いっそ捨ててくれればいいと涼の願いはもっともだった。
すまないと告げる篠吹に、涼は
「嘘は、もうつかないで……それは耐えられない」
顔を上げて、けれど目を伏せたまま囁いた。
「わかった。誓うよ。今度は必ず守るから……」
篠吹の腕の中で身を硬くして、涼はゆっくりと目を閉じた。
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