第13話 遠ざかる体温

 今夜も帰ってこないのだろうか……リビングの床に座り込んだまま、如はじっとルームランプの明かりを見つめていた。

 一人で暮らしていた頃に買った、竹篭のランプを是俊も気に入っていて……夜はこの明かりだけでよく飲んだ。今も部屋を暗くして、ただ一つの明かりだけを灯している。帰りを待つ祈りであり、呪いのような光。

 こうして待っていれば、朝になる前に是俊が帰ってくるような気がしていた。温かで弱い光が、朝日にかき消されるその前に。

 「……」

 どれくらい経ったか、玄関が開く気配がした。

 痺れかけた足で如が立ち上がるのと、是俊が部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。

 「お帰り……」

 昨日と同じ服のままで、是俊はああと短く応じた。

 是俊が如を見る眼差しには、怒りも悲しみもなかった。だが、いつものような親しみも愛情も感じ取ることはできない。

 自分からは何も言わず、是俊はキッチンへ向かい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 「昨日は、どこに?」

 「……涼と一緒だった」

 そうだろうとは、思っていた。それで傷つくことはなかったが、如は応じるすべなくただ

 「そう」

 と、呟いた。

 水を飲んでいた是俊が、真っ直ぐに如を見た。

 「そう、か……。それだけか?」

 音を立ててペットボトルを置くと、是俊はカウンターを回りこんで如の目前に立った。

 「是俊っ」

 両肩を掴んで、是俊は如を壁に押し付けた。

 「聞いても、いいか?」

 間近に見上げた是俊は、如が初めて見るような悲痛な表情をしていた。

 「お前が……初めて抱かれたの、あの人なのか?」

 「な……」

 いつもなら軽くかわせる是俊の問いが、今は胸に迫ってくる。何も答えない如に、是俊の表情がさらに苦しげに歪んだ。

 「涼が俺のところに来た夜か?」

 如が息を飲む音が、滑稽なほど大きく聞こえた。

 「……」

 如の骨が軋むほどきつく肩を掴んでいた是俊の手から力が抜けた。

 「どうして?」

 半笑いのような崩れた表情で、是俊はまるで囁くように小さな声で如に問いかける。

 「どうしてだ、如……?先生が好きなら……どうして……」

 何も言えない如に背を向けた是俊。

 「ごめん……」

 ソファに身を沈めた是俊の傍らに、如は立った。

 他に、何を言えばいいのかわからなかった。

 「全部、嘘だったのか?俺を好きだって言ったのも、今までの時間も全部嘘か?」

 なぁ、如……そう言って顔を上げた是俊。

 そうじゃない、と如はたまらず呟いた。

 「ちが……嘘じゃないよ。僕は是俊くんが」

 言いかけた如の腰に是俊はしがみつき

 「如……お前が好きなんだ……好きなんだよ……」

 「……」

 今度こそ完全に言葉を失って、如はただ立ち尽くした。その間にも是俊はシャツをたくし上げ、如の腹に胸に唇を這わせる。

 何に対してか、もうだめだと、如は思った。

 謝罪の言葉さえ見つからない。自分がしたことはただの背信ではないという、その罪の意識で頭がおかしくなりそうだった。

 「いく……」

 その名を呪いのように繰り返しながら、是俊は如をソファに押し倒した。

 是俊にそんなつもりはなかっただろう。しかし如にとって、その時の是俊のキスや愛撫は、このまま殺されるかも知れないと思うほどの激しさだった。引き裂くように如の衣服を脱がせ、乾いた白い肌に痛いほどキスを降らせ、同時に全身を愛撫する是俊。如はされるがままに一切の抵抗はしなかった。

 「如」

 何度目になるのだろう。是俊が名を呼びながら顔を上げた。

 「先生はどんな風にする?どんな風に抱けばお前は喜ぶんだ?」

 「そんな」

 「教えてくれよ。先生に抱かれるのが好きなんだろ?同じように抱いてやるよ。お前がされたいように、全部……」

 如……と、是俊が動きを止めた。

 「ごめ……」

 わかっていた。わかっていながら続けていたくせに……どうしてこんなに苦しいのだろう。否応なく事実を知ってしまった是俊の苦しみに比べれば、自分の感じる痛みなど偽善に等しいに決まっている。しかし

 「ごめんなさい……」

 嗚咽を殺せない。是俊から顔を背けて唇を噛んでも、慟哭が突き上げる。

 どうして……。自分がなしたことの報いを受けているだけなのに。否、報いと呼べるほど是俊は自分を責めてくれてはいない。皮肉でも嫌がらせでもなく、是俊が本当に知りたいと思っていることに対して、如の心は激しく痛んだ。

 いつでもかっこつけたがる、誰にも弱い部分など見せない、自尊心の高い恋人にこんな惨めな言葉を吐かせるほど、吐かせてしまうほど、自分は是俊を追い詰めた。是俊が寄せてくれた愛情も信頼も、全てを踏みにじって……それでも平気で彼の腕の中で笑っていたのだ。

 自分がしたことだ。

 誰かではない。

 壊れてしまいそうに辛いのは、自分ではない。是俊の方だ。

 「……嫌なのか……?俺に触られるの、嫌か?」

 遠ざかった体温に是俊を見れば、ひどく傷ついた眼差しが揺れている。

 違う、と叫びたいのに声が出せなくて如は頭を激しく左右に振った。

 「……」

 是俊はそんな如の仕草をどう理解したか、如の髪をそっと撫でソファを下りた。

 「ごめんな」

 髪を撫でていた手がすっと離れる。

 無理な体勢から体を起こした如の肩に、是俊は床から拾い上げたシャツをかけた。

 哀しい歪みに似た微笑で、是俊は部屋を出て行った。

 行かないでと、追いすがれない自分を如は呪った。

 遠くで、ドアの開閉する音が響いた。

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