第12話 裏切り

 部屋まで送るといった是俊の申し出にも涼は首を横に振った。

 家に戻れば、必ず篠吹が訪ねてくる。今は、会いたくないと涼は小さな声で呟いた。

 さりとて、自分の家につれて帰るわけにも行かず、是俊は都内のホテルに部屋をとった。

 夕立にしては長い降り止まない雨を涼は窓越しに見ていた。何を思うのか、是俊にさえ想像できない沈痛な表情。

 自分たちを如の店に呼び出した涼の兄のことを、是俊はぼんやりと思い浮かべた。開店の時と、それから何度か顔を合わせたことがあるだけの相手だったけれど……いつも何を考えているのかわからない、不遜な笑みを絶やさない、是俊にとってはどこか胡散臭い男だった。

 そういうことだったのかとようやく理解し、是俊はまた涼の身の上について思いをはせる。

 そして、勿論愛しくてたまらない恋人の顔と、彼の隣にいた思いもよらない男のことにも……。複雑な話だと、是俊は無意識にため息をこぼした。

  是俊と、うつむいた涼が呟いた。

 「ごめん」

 「お前が謝るようなことないだろ」

 震える肩を抱いて是俊は小さく笑う。お前が悪いんじゃないと、そう囁いて。

 涼が怯えたように顔を上げた。

 「違う……。俺は、知ってた」

 「え?」

 涼は再び是俊から顔を背け、あの時と続ける。

 「如さんがパリに行く前、俺が朝行った時……」

  最後まで言い終えなかった涼の様子に、是俊は全てを悟った。

  そうかと無意識に是俊が漏らした言葉に涼は

  「一度、だけだったんだって、そう思ってた」 

 是俊の前で初めて裏切りに対し涙した。

 是俊はそうして、涼の篠吹への思いの強さを知った。

 愛してるんだな、と是俊は思った。涼も自分もどうしようもなく恋焦がれている。

  涼の肩を抱きながら是俊は如のことを思った。店を訪れた時……二人は驚愕した。そして如は何をするより早く篠吹を背後にかばった。全てはあまりに明瞭で、何一つ隠しおおせることなどできなかったのに。あれは、無意識だったのだろうか。あるいはもっと深い……本能の働きによるものだったか。

  是俊の腕の中で涼が震えた。自分だって涼を泣かせたことは何度もあったはずだが、それとは類の違う痛みに涼は今苛まれているのだと是俊は思った。それは他人と初めて共有することを許された痛みだった。胸の冷たくなるような息苦しい苦痛。鋭い針のような現実が自分と涼を交互に刺し貫きながら縫いとめていくようだった。互いの身じろぎにさえ悲鳴が上がる。愛しい人の面影を見つける度に生傷が血を流した。

   如への怒りはまだ是俊の胸に生まれてはいなかった。ただ、篠吹への怒りは抑えがたく全身を駆け巡る。

  「涼」

  涼の過去。涼自身でさえ、是俊が知っているなどと思いもしなかっただろう。篠吹は、知らないはずだ。もし知っているとすれば、知っていながらなお涼を裏切ったのだとすれば、篠吹は涼を愛してはいないのだろう。

   涼が実家を出て自分の元へ来るまではせいぜい二ヶ月だった。それでもその間にあったことはきっと、忘れたい過去に違いない。

  あの時、誰がそこまで涼を追い詰めたのか是俊にはわからない。あの男……有麻だったかも知れないし、家庭環境そのものだったのかも知れない。あるいは……涼自身だったのかも知れない。

  それでも、それだから……あの頃は涼を愛していた。涼を愛しく思っていた。そして、今でも大切に思う気持ちは変わっていない。別れても、離れても、涼ほど実弟を愛しいとは思わない。

  是俊は大きく息をついて涼の背を撫でた。もう泣いてはいなかったが、涼は苦しそうに瞳を閉ざしていた。

 恋人に裏切られたのは自分も同じはずなのに……自分の胸に怒りはおろか悲しみさえ湧いてこないのを是俊はいぶかしんだ。

  もしかすると感情が働かないほどショックを受けているのかも知れない。未だ信じがたいのだ。あまりに現実感がない。

  行為自体を目撃したわけではない。けれどあの場のいたたまれない程陰惨な空気には覚えがあった。あれは……涼と麻美がベッドを共にしているのを見た時だ。それに、如の気だるげな潤んだ眼差しには抱かれた後にだけ表れる物悲しい媚があった。

  見慣れた、自分を虜にする瞳だとあんな状況でさえ是俊は感じた。

  あの場所は、如にとって神聖でさえあるのだろうとそう思っていた。いつか自分とのキスさえ拒んだ店内で如は……どんな思いで篠吹に抱かれていたのか。そう考えた時、ようやく是俊の胸に絶望が芽生えた。

  如は彼の城とも呼べる夢の結晶の中でも篠吹に体を許した。それは、それにはどんな意味があるのか。

  推しはかることしかできない。如の心はここにはない。仮にあったとしても目前で切り開いてみてもきっとわからないだろう。

  如は、篠吹を愛している。

  是俊にはそうとしか考えられなかった。他のどんな理由も如の行為を説明するには不十分だった。都合のいい言い訳を如がしてくれたらどれ程救われるか……。

 是俊は涼の髪を撫でた。

 是俊と涼が呼んだ。

 沈痛な眼差しから何かを感じとった是俊も静かに涼を見返す。

  「有麻が言ってたこと」

 そこまで言うと涼は俯いた。是俊は知っていると既に悟っているらしい。

  「悪かったな。黙ってて。ただ、あいつとの、雅也との約束だったんだ。お前が自分から話すまでは何も言わないって」

  じゃあ、と驚いて顔を上げた涼に是俊は頷いた。

  「お前が家に来る前から知ってた」

  あまりのことに涼は言葉を失った。是俊はそっと涼を胸に抱き

 「あいつのせいだったのか?」

  押し殺した低い声で問いかける。

 「お前がウリなんて、初めて会った時は何も思わなかったのに、後からだんだん信じられなくなった。そこまでして何で家出たかったのか、不思議だった」

  「ごめん」

   腕の中で小さく震えた涼の背を是俊はそっと撫でた。

   あの人は、と涼のかすれた声が続ける。

  「両親も忙しくてかまってくれなくて、有麻だけがいつも俺を見てくれた。いつも誉めてくれて優しくて、何でもできて」

   俺はと躊躇いながら涼は言った。

  「兄貴が好きだった。子供の頃は本当に、有麻が全てだった」

  そうか、と呟いて是俊は小さくため息をついた。幼い日の記憶を辿るように涼は自分を慕っていたのだろうとそう気が付いた。

 「昔は、ああじゃなかった」

 全てを話してしまいたいと、涼の目が是俊に告げる。

 「昔は……本当の兄弟みたいだった。いつも一緒で、寝る時も一緒で……いつも手を繋いでた」

 そうか、と是俊は頷いた。そして涼の不思議な習慣が、有麻との暮らしの中で生まれたことを初めて知った。無意識のように手を求めてくる涼の、悲しい愛慕。

 今でも、恨むことさえできないのだろう。未だに変わらず慕いながら、それでも怯え、恐れ、傷ついている。

 「初めて抱かれた時……嫌だって言えなかった。嫌われるのは、絶対に嫌だったし……でもそれ以上に……そうされるのは、嫌いじゃないってわかってきて……たぶん、有麻じゃなかったら、きっと平気だって思った」

 俺は、と涼は苦しげに少しだけ笑う。

 「是俊たちと違う。俺は、男しか好きじゃない」

 そうなったのが有麻のせいだとは涼は言わなかった。

 是俊は返す言葉を見つけられず、ただ涼の頭を撫でる。涼は、一体何を言おうとしているのだろう。

 「篠吹さんは……男を抱いたことないって、そう言ってた」

 「……」

 篠吹にとって、涼は特別な存在だった。そう悟って、是俊は束の間安堵した。けれど安堵したのと同じ程度に衝撃を受けた。あるいは、涼が如を篠吹の特別にしたのかもしれない。涼に出会わなかったら、篠吹はもしかしたら如に興味を覚えなかったのかもしれない。

 しかしそれは本人にしかわからないことだ。どうしてこんな事になったのかさえ、自分と涼にはわからない。自分は如を愛しているし、涼も篠吹を愛している。篠吹だって涼を愛しく思っていたはずだし、如もまた自分を思ってくれていたはずだ。

 心変わりと、目移りと、有麻はそんなことを言ったけれど……。そんな言葉で全てを片付けられるほど単純な問題なのだろうか。少なくとも涼には、未だに癒えない傷がある。自分と過ごした、あるいは篠吹と過ごす時間によって涼は過去に負った傷を癒そうとしていたはずだ。

 だからと言って、涼が篠吹を恨むことも如を恨むこともないのだろうと是俊は思う。けれど、涼がどれほど篠吹を好きだったかはわかる。

 涼は誰かを責めはしない。ただ、自分を追い詰めるだけだ。いつか、泣きながら自分の元にやってきた時さえ、涼は何も訴えなかった。

 気を利かせて、二人が、目の覚めるような言い訳をしてくれればいい。自分たちがバカだったと、自分も涼も笑えるような、そんな飛び切りの言い訳を。

 まだ、責められない。

 裏切られても、失望しても、信頼を踏みにじられても……嫌いにはなれない。

 騙されていたんだと自分を嘲っても、罵っても、何をしても……何があっても、それでも……まだ、愛しい。

 不意に是俊が笑う。

 涼は不思議そうに是俊を見つめた。

  「どうしたの?」

  涼に問われ今度は苦く微笑んだ是俊。

  「呆れたんだ」

  言葉の意味を解せないのか、黙ったままの涼に

  「今でも、お前はあいつが、先生が好きなんだろ?」

   一瞬目を見張った涼はそれでも苦しそうに頷いた。是俊は涼の様子に少しだけ哀しそうに微笑し

  「俺もだ」

  そう言った。

  「どうすればいいんだろうな。とてもじゃないが面と向かって責められないしな」

  ちょっと疲れたような表情で、是俊は涼に微笑みかける。

  「こんなこと今さらなのにな。自分だって散々してきた」

  いつになく饒舌な様子に、涼は是俊がいかに如を愛しているかを思い知った。

  天井を仰いでため息を一つついた是俊から涼はそっと目をそらす。

 どうすればいいのか、わからない……それはまさしく涼が感じていることだった。

 篠吹に会いたくはないと是俊につれられてここまで逃げてきたが、いつまでもここに閉じこもっているわけにもいかない。何が一番辛いことだろうと、涼は不意に思った。

 篠吹に会って……会ったとして、今以上に傷つくことなどあるのだろうか。

 篠吹に嘘を重ねられることと、自分ではなく如を愛しているのだと告げられること……そして、別れを切り出されることの、一番耐えられないのはどれだろう。

 貴方だけが好きと、そう告げた如の声が涼の耳に蘇る。篠吹はやはり、如を好きなのだろうか。出会った頃と同じように今でも篠吹は優しい。自分をとても大切にしてくれている。けれど……自分ではないのだろうか。是俊が如を好きになっていったように、篠吹も如を愛しているのだろうか。

 あんな場所で、と涼は思う。篠吹はあんな場所では自分を絶対に抱かない。そう気がついた時、胸を引き裂かれるような痛みを涼は感じた。

 篠吹は……そうだ、自分には決してしないようなことを如にならできる。あるいは、如になら求める。

 是俊が如に惹かれたように、篠吹にとっても如は特別なのだろうか。優しい是俊の眼差しの中で涼はそっと目を伏せた。

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