第11話 幸せの代償

 初夏の夕立は激しく、篠吹はブラインド越しに雨に打たれる街を眺めた。

 遠くで、落雷の音が響く。

 薄暗い室内に満ちた、物悲しい情熱の残り香を抱きとめるようにそっと、ソファの上で如が膝を抱く。

 「いつまで……続くかな」

 吐息のような声で如は呟き、寂しそうな微笑で篠吹を仰いだ。

 「いつまで、か……」

 首からかけたままのタイに手をかけ、篠吹は窓辺を離れる。

 如は篠吹が帰る気配を察して、肌蹴たままだったシャツのボタンをとめた。

 「……?」

 「今……」

 如がソファから腰を浮かす。

 開くはずのない、店の奥のドアが軋んだ。

 「如?」

 「……」

 時間が止まる。

 誰一人、声を発する者がいなかった。

 にわか雨に打たれたか、髪や服から雫を滴らせて……裏口の方から店内に入ってきたのは是俊と涼だった。

 どうしてとも、何がとも問えない。

 全てはあまりに明らかだった。

 見開かれた涼の瞳に、引き裂かれるような苦悩を篠吹は認めた。

 またと、思ったのだろうか……。それでも、涼は静かだった。

 雨音に紛れた足音が、涼の背後から聞こえた。

 「有麻くん……」

 如のかすれた声が、姿を現した男の名を呼ぶ。

 「残念です。冴島さん」

 悲しげにも見える微笑で、有麻は首を振り

 「でも、これは僕の権利でもあるんです。奪われた者としての」

 「奪われた者?」

 我知らず、シャツの胸元を片手で掴んだまま如がきいた。

 「そう……。大切な人を奪われた僕には、取り戻す権利があるでしょう?例えば、僕の一番愛しい弟が恋人に裏切られているなら……僕は、放ってはおけない」

 「弟?」

 如はかすかに眉根を寄せた。そして、はっとしたように涼を見る。

 「涼……」

 篠吹の声に涼は俯いた。

 千堂涼、といった。そうだったのかと、如は言葉を失くした。似ていないという以上に、有麻には何一つ涼を連想させる要素がなかった……。

 そんなことがあるのだろうか……。如は、不意に涼があの夜を知っているのだと確信した。

 この場で口にすることができるのは、恋人に対する謝罪だけであると如も篠吹も知っていた。しかし、この場で口にしてはならない言葉が謝罪であることをも二人は既に知っていた。

 言葉はない。沈黙さえも……許されざるものだろう。

 しかし、何が言えるのか。篠吹でさえ、立ち尽くすことしかできなかった。

 「これで、わかったか?」

 有麻の声は涼に向けられていた。

 有麻が言った。

 「お前の全てを受け入れてお前をそれでも愛せるのは僕だけだ」

 涼は今にも泣き出しそうな表情で顔を上げ、兄の顔を見つめる。

 「お前は裏切られたんだよ。恋人を寝取られたんだ」

 ねえ、と有麻が如に微笑んだ。

 「そうでしょう?冴島さん」

 「!」

 「勿論、貴方も同罪ですけどね」

 篠吹を横目で見ると、有麻はまた涼に視線を戻した。

 「お前は片岡さんに話してるのか?」

 涼は沈黙を返し、篠吹と如は涼を見た。是俊だけがじっと有麻を見つめる。

 「やっぱり何も話してないんだな」

 有麻がアルカイックな笑みを浮かべた。

 涼と躊躇いがちに名を呼んだ篠吹に涼は震えた。

 「つまんねぇことばっかり言ってんじゃねぇよ」

 突然そう言ったのは是俊だった。涼がはっとしたように是俊を見た。

 「誰にだって後暗いことくらいある。あんただって同じだろ?」

 「そうですね」

 有麻は相変わらずの微笑を称えたまま頷いた。

 「でも、僕なら全てを承知で涼を一生愛せますよ。心変わりも目移りもしないで。涼」

 こちらを見ろと促され、涼はこわばった顔で有麻に視線を返す。

 「いつでも戻っておいで。昔みたいに楽しく暮らそう」

 涼の脳裏をよぎるものは何か。

 それではと言いおいて有麻が行ってしまうと、是俊がそっと涼の肩に腕を回した。

 「行こう」

 涼は項垂れたまま頷いた。

 降り止まない雨の中へ二人は引き返していく……。如と篠吹の存在を忘れ去ってしまったように

 二人は店を出て行った。篠吹も如も、まるでスクリーンの上に流れる物語を見るような心地で、動くことも声を発することもできなかった。あるいはそんなことができるとは考えてさえいなかったのかも知れない。

 世界から削り取られたような空間で二人は息苦しい沈黙の内に立ち尽くす。

 如がカウンターのイスに音を立てて座ると、すまなかった、そう篠吹が言った。

 「僕のせいです」

 崩れかけた微笑みで如は首を左右に振った。

 篠吹は驚いたように目を見開いたが、あえて何も言わないようにしているようだった。

 互いの存在に触れ合わないように、二人はそれぞれに沈黙した。

 何を思うのか……背を向けて俯く二人を雨音が一つ腕の中に抱いていた。

 それぞれを責め、自身を苛んで……それでも、許されないと思う。

 許されざることは、既にわかっていた。

 きっとどこかで浮かれていた。そう、如は思う。

 運命のような偶然が重なる度に戯れの狂騒に興じていた。

 夢から覚めたような、ある種の信じがたい絶望感が二人を取り巻いていた。

 慈善事業ではないと有麻が言ったのはこういう意味だったのかと、如は不意に思った。 

 是俊は、ほとんど自分を見なかった。何かを言いかけた有麻を遮り涼をかばって。どうして、ともいつからとも、自分にはただ一つの問いさえ向けなかった。

 篠吹はタイをしめなおし、椅子の背にかけてあったジャケットを手にとった。つられて立ち上がった如に苦い微笑を見せ

 「お互い、一人になった方がいいだろう」

   そう言った。

  「そうですね」

   如はうなだれるように再び腰を下ろした。篠吹は如の様子に痛々しそうに目を細め、そっと傍らに立つ。

   「悪かった」

   労るように如の背を撫で、篠吹が低い声で告げる。

 如は顔を上げ、もうやめましょうと弱々しく首を振った。どちらが悪いとか責任があるとか、そんなことを言い合っても意味がない。全ては二人がともに招いた事態だということは何より明らかだった。

   「早く、涼くんのところへ」

   本音とも思えない悲痛な声で如が訴えた。

   「すまない」

   短く頷いた篠吹から顔を背け、ドアが開閉する音を如は背後に聞いた。

 夢のようだと、いつか言った自分の言葉が如の胸の中で震える。あまりに鮮やかな幕切れだった。

 あの時と如は唇を噛む。

 バーで再会した時、篠吹を拒絶するべきだった。運命などと浮かれずに、篠吹を拒絶するべきだった。

 ただでさえ、パリでの一週間は償いようのない背信だったのに。

 運命なんて、奇跡なんて……そんな言葉に縋った自分の弱さを今になって憎んでも仕方ない。欲しいものが手に入れば、人は満足するどころかますます貪欲になるのだ。もっと欲しいとただそれだけを願うようになる。けれど運命の悪意に気付くには、自分はあまりにも捕らわれ過ぎていた。

 篠吹を初めて見たあの日に、生まれて初めて拒まれ、美しい瞳を閉ざされた瞬間に、自分は捕らわれてしまった。虫ピンで時間を貫かれた蝶のように羽を開いたまま身動きが取れなくなった。

 強烈な憧れだ。途方もない情熱で、捕らわれることの快感に打ちひしがれていた。

 片手に大切なものを抱きながら、もう一方の手は常に篠吹だけに向けられている。どちらがより大切かとは思わなかった。  手の中にある愛しいものと手の届かない恋しいものとを比べることはできない。けれど片方の手を虚空に伸ばしたまま、もう一方の手で愛撫を加えることは許されないのだろう。

 慈しもうと触れた指が従順な白い肌に無惨な爪痕をつける。それは自分の望みではなかったのだとどれ程悔やもうと取り返しがつかない。誰かではなく、自らが刻みつけるのだ。

 是俊は永遠に守りたいもので、手放したくはないもので、篠吹は永遠に焦がれる、欲しがり続ける対象だった。篠吹が手に入らないことを知ったのは、いつだったのだろう。互いの恋人にどれほど裏切りを重ねようと、篠吹と交わるのは一瞬だった。是俊のように、重なり合いながら生きていける相手ではないのだと悟ったのは自分の心か頭か。

 離れがたく思えたのは、一つになれないからだ。

 是俊がいて、篠吹には涼がいて……大切なものは既に手の中だった。互いの存在をたった一つとして選び取らなかった。

 今なら選んでくれるかと、如は戯れに篠吹に尋ねたけれど、篠吹は答えは現在にはないとそう言った。選び取る瞬間は遠く過ぎ去っていると。

 過ちとは、もう呼べない。確信犯だと、自分でも思う。

 何もかも捨ててしまおうかと、そう一瞬でも思ったのは本気だったのだろうか。暗い、衝撃と痛みを押し殺した是俊の表情に……確かに胸が痛んだ。あんな是俊の顔を初めて見た。

 あんな表情を是俊がするのであれば、するとわかっていれば……自分はもっと大切にしたのだろうか。

 有麻はきいた。三村さんが大切ですか、と。人の心は変わりやすいのだと、そうも言っていた。

 失っても、まだ信じられないこともある……有麻は、一体どんな思いで告げたのだろう。

 失うのだろうか。今でも傲慢にも、是俊の気持ちは自分のものと確信しているけれど、信じることができないうちに、あるいは失うのかもしれない。

 止まない雨の中へ消えていった二人の後姿が如の脳裏に蘇る。涼をかばった是俊。自分たちの裏切りから、涼を救おうとした是俊。悪いのは自分なのに……どうしてこんなに悲しいのか。

 篠吹と重なりながら、どうなってもいいとそう思っていたはずなのに。

 しかし今となっては……刹那的な興奮が、あの狂おしい情熱を支えていたようにも思える。

 何が正しいのか。自分の真実は一体どこにあるのか。

 降り止む気配のない雨空を窓越しに如は見上げた。

 あの日も、雨が降っていた。同じように雨が降っていて……あの時自分が感じた幸福さえ、今は遠く煙って見える。

 幸せの代償という言葉を、如は不意に思い出した。

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