第10話 危いもの

 閉店後の静かな店内で、如は帳簿をつけていた。ある程度勉強もしていたし、慣れもあるとはいえ、最初はどうしても神経質になってしまう。本人は気付いていないが、売り上げの良し悪しに関わらず、数字と向き合っている如の眉間にはしわが刻まれるのが常だった。

 「どうぞ」

 そう言ってカモミールティーを出してくれたのは、キッチンを一人で切り盛りしている藤枝だった。職人らしい無口な男だが、腕のいいパティエで如の心強い相談相手でもある。今は飲み物からケーキ、軽食なども全て彼の手にかかっている。如は微笑んで礼を言った。

 「マフィンも、いかがです?オレンジとヨーグルトのを作ってみたんですが」

 「美味しそうだね。一つもらおうかな」

 「持ってきましょう」

 「藤枝さんも、一緒にどう?」

 ノートパソコンを端へよけて、如はカップを手に取った。

 「ええ」

 藤枝は見慣れた人間にだけわかる微かな笑みで頷いた。コワモテのシェフ、と店の常連である学生たちが言っていたが確かにそうだなと如は思った。藤枝はまだ二十代前半のはずだったが、自分よりも貫禄がある。190近い身長でラグビー選手のような体型をしているせいもあるかもしれないが、寡黙な雰囲気も手伝っているのだろう。本人はどうやら照れ屋のようだが、それを知る者はあまり多くなさそうだった。

 「美味しそう。いただきます」

 藤枝は自分のカップとマフィンを一つ皿に乗せて持ってきた。如は焼きたてのマフィンを頬張り大きく頷いた。

 「これ、いいよ。僕、チョコレートよりこっちの方が好きかも」

 そうですか、と短く頷いて藤枝もカップに口を付けた。

 「ごめんね。藤枝さんにばっかり頼っちゃって。もしよかったら、アシスタント探そうと思うんだ」

 年下であっても、如は藤枝をさん付けで呼んだ。それは小さいながらキッチンを預けている人間に対して、如なりに敬意を表してだった。

 「いえ。僕は大丈夫ですよ。オーナーも手伝ってくださるし」

 「そんな。コーヒーいれるぐらいだから」

 謙遜でもなく如がそう言うと

 「オーナーのコーヒーは美味しいですよ。クッキーも悪くない」

 生真面目に藤枝は応じる。

 「ありがとう。でも、夜はもう少しメニュー増やしてみたいんだ。藤枝さんの得意なもので、勿論うちの施設だから簡単なもので……少し、考えておいてもらえる?」

 「ええ。わかりました」

 「バイトの子たちも皆頑張ってくれてるし、スタッフに恵まれてよかったなっていつも思ってるよ」

 「人徳でしょう」

 「まさか」

 如は笑いながらカモミールティーに口をつけると、オーナー、と藤枝が控えめに声をかけた。

 「ん?」

 「出すぎたことを言うかもしれませんが、マネージャーを雇うつもりはないんですか?」

 「マネージャー?」

 ええ、と藤枝は頷き

 「ほとんど休みもないでしょう。それにこういう店では一線で店に目を配る人間が必要です。勿論、オーナーがご自身でされているのもわかりますが、バイトではなく、しっかりしたマネージャーを入れると雰囲気も引き締まります」

 「それは経験から?」

 珍しく熱心な藤枝の言葉に如は興味を引かれた。

 「そうです」

 「そう、か……。そうだね。長く続けていくなら必要だよね。キッチンのことも、ちゃんと考えなきゃね」

 僕は、と言いかけた藤枝を制して

 「料理人って皆独立を目指すんでしょ?でも、藤枝さんには少しでも長くいて欲しいし、いい環境で働いて欲しいから」

 如が藤枝の目を見て微笑むと、ありがとうございますと藤枝が頭を下げた。

 「こちらこそ、ありがとう。今日はもう遅いし、後はやっとくよ」

 「キッチンは片付いていますから。カップは食器洗い機に入れておいてください」

 「わかった。ありがとう」

 着替えを済ませ再び現れた藤枝は、あまり遅くならないようにと念を押し帰っていった。藤枝を見送った如は店の外に出て、柔らかな夜気を吸い込んだ。

 「先輩?」

 「ああ……ちょうどだったね。今、うちのシェフが帰ったとこ」

 スーツ姿の有麻に如は微笑んだ。




 「マネージャーをおくのには僕も賛成です」

 しばらく雑談した後、有麻はビールグラスを片手にそう言った。

 「店も順調なようでよかったですね。この前きた時には活気もあったし、正直安心しましたよ。そろそろ店の雰囲気を固めてもいい頃ですしね」

 「やっぱりそう思う?」

 ビールサーバから注いだばかりのビールの泡を軽く吸って、如も有麻の顔を見返した。

 「ええ」

 有麻は頷き、傍らに置かれていたノートパソコンに目をやった。

 「見せていただいてもかまわないですか?」

 「帳簿とか?うん、いいよ」

 有麻自身、如の店の開店や営業に関わっているわけではなかったが、パリに行く以前から様々な面で世話にもなっている。如にとって有麻は、こと経営に関して身内と呼べるような存在だった。

 「……」

 如が立ち上げたパソコンの画面を有麻はしばらく黙って眺めていた。そして

 「会計士を雇っているんですか?」

 「え?」

 ふいに画面から目を離し如を見つめる。


 「いえ……経理のソフトはいろいろあるんでしょうが、つけ方にちょっと特徴があったものですから」

 「正式には……雇ってないよ」

 有麻に、秘密の在処を嗅ぎつけられたような気がして如は、ちょっと、と言葉を繋いだ。

 「知り合いに、詳しい人がいるから……相談はさせてもらってるんだ」

 そうですか、と有麻は再び画面に視線を戻し

 「頼もしいですね。三村さんもそうだし、ジルベール氏も素敵な方だから」

 「うん……」

 そうだね、と如は空ろに微笑む。

 「有麻君にも、本当にお世話になっちゃって……ありがとう」

 「とんでもない。僕は慈善事業ではないですから」

 目が合うと、有麻はアルカイックな笑みを覗かせ剣呑な台詞をはいた。しかし如が真意を問いただす前に

 「冴島さんにとって、一番大切なものは何ですか?」

 グラスを手に取った有麻が問う。

 「一番大切なもの?」

 ビールを一口飲んで、有麻はええと応じた。

 「人でも、物でも、形のないものでも、なんでもいいんです。絶対に手放したくない、あるいは必ず手に入れたいものはありませんか?」

 「……」

 有麻は無言でパソコンの電源を落とした。何を考えているのかわからない静まりきった表情に如は痺れに似た恐怖を覚えた。

 「二度目だよね」

 如の言葉に今度は有麻が沈黙を返した。

 「確か前にも、こんな話をしたことがある……あの時は、好きな人の話だったけど」

 「そうでしたね」

 水滴のびっしりとついたグラスを手に如は口を開きかけ、それから

 「何かな」

 そう言って苦く微笑した。

 「今は、この店だって……そう言うべきなんだと思うよ。本当にそれしか考えられないし、毎日充実してて……すごく、楽しい。寝ても覚めても仕事のことばっかり考えてる」

 確かに、とグラスを傾けながら有麻は微笑する。

 「そうでしょうね。そうでなかったら僕たちだってがっかりだ」

 「うん」

 ようやく微笑んだ如。そのタイミングを見計らってか、でも、と有麻が囁いた。

 「冴島さんは情熱的な人だから」

 「僕が?」

 そうですよ、と目を細める有麻に如はどうして、と重ねて尋ねた。

 「同じものを感じるからだ、なんて言ったら怒りますか?」

 甘い奸智のように耳に忍び込む有麻の声。

 「有麻君も、情熱的だってこと?」

 表情を崩さないように必死に努めながら如はぎこちなく笑ってみせる。

 「きっとね」

 冗談めかして頷いた有麻は続ける。

 「冴島さんも、僕も、危ういものが好きなんですよ。魂の奥深い、常識も理性も手の届かない……深淵で燃えている炎が好きなんだ」

 違いますか、と如に顔を寄せながら囁きかける。

 「難しいこと言うんだね」

 空になったグラスを手に、如は勢いよく席を立った。

 「僕はそんなことないと思うよ」

 弱々しい如の声をどうとったか、有麻は如の背を見つめ小さく笑った。

 「破滅的な恋愛をしたことがあるかって、僕がそう聞いた時も、冴島さん、同じ顔しましたよ」

 「何が言いたいの?」

 カウンター越しに振り向いた如は口調こそ穏やかだったが、常にはない苛立った表情をしていた。

 「僕が怖いですか」

 音もなく席を立った有麻が、ゆっくりと如の元に歩み寄る。

 「有麻君?」

 狭いカウンターの中で如は僅かに身を硬くした。突然乱暴なことをするタイプの男ではなかっただけに、笑みの消えた表情はなおさら如を怯えさせた。

 「三村さんが、大切ですか?」

 「え?」

 思いもよらなかった有麻の言葉に如は何も言えなかった。

 「僕には、冴島さんと三村さんのことはよくわかりませんが……本当に愛しているなら大切にしてあげた方がいいですよ。人の心は変わりやすいから」

 それに、と有麻は口元だけで微笑んだ。

 「他人の気持ちなんて、所詮、他人のものです。自分のものであるなんて、自分の元に在るなんてそうそう信じない方がいい。失ってもまだ、信じられないくらいだ。僕は、失ったとは思っていません」

 最後は、告白だった。

 失ったと思ってはいないと……理知的な有麻がそこまでの執着を寄せるものは一体何なのだろう。

 「……」

 有麻は如の目を見つめたままそっと手を取り、空のグラスを握らせた。

 「ご馳走さまでした」

 にこりと微笑むと、有麻は鞄を手にして店を出て行った。

 有麻は変わった、と如は思った。確かに元々癖のある男だったのは間違いないが、それでも昔はもっと……節度と呼べるような距離が二人の間にはあったはずだった。それが、いつしか壊れた。有麻はしたり顔で謎かけのような言葉ばかりを投げかけてくる。しかも、それは有麻が如自身に興味を抱いているからではなさそうなのだ。

 手渡されたグラスを食器洗浄器に入れて、如は使っていたテーブルを拭き始めた。

 閉じたノートパソコンを見ると、有麻の言葉が浮かぶ。篠吹の存在など有麻が知るはずはなかったが、居たたまれないような胸騒ぎが如を責めた。

 何かを、知っているのだろうか……。まさかそんなことがあるはずはないと、如は首を振って苦笑した。自身を励ますかのような力のない笑いだった。

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