第9話 旅行
水の流れる音が窓の外から聞こえてくる。旅館の裏手には小さな滝があると女中が言っていたからそれかも知れないなと篠吹は耳を澄ませた。
互いに忙しく会うことが減ったせいか、顔を会わせる度に涼は不自然な笑顔を繕うようになっていた。心変わりしたわけではないと篠吹には断言することができた。しかし、如との関係がもたらした何某かの変化を涼が敏感に感じ取っていたなら、それはきっと正しいのだろう。ずるいことをしているという自覚はあった。罪の意識は時として篠吹をひどく苛んだが、懺悔できるものでもなく、篠吹はただ涼と自分との関係を黙って見守っていたのだった。
旅行に行きたいと、涼が言い出したのは二週間ほど前のことだった。篠吹が何故と聞いても涼は曖昧に首を振るだけで満足のいく答えは出さなかった。けれど、それが何であれ、どういう意味を持つのであっても、篠吹には涼の願いを全て叶えたいという、負い目に裏打ちされた思いがあった。
「涼」
窓辺の椅子に体を沈め外を眺めていた涼がゆっくりと振り返る。やがて夏につながる清涼な夜風が涼の漆黒の髪を揺らした。
篠吹が床に入ってからも涼は一人、窓際から離れなかった。篠吹は決して焦れて呼んだわけではなかったのだが、涼はゆっくりと立ち上がる。
「窓、閉める?」
「ああ、そうだな」
浴衣の袖から伸びた白い手が、からからという音を立てて窓を閉めた。
涼は躊躇ってから篠吹と同じ布団に体を滑り込ませた。
「静かだね」
未だ暗い夜の景色に意識を奪われたままなのか、涼の声はどこか現実離れしたふわふわとしたものだった。
ああ、と低い声で応じ、篠吹は涼の髪を撫でる。微かに湿った冷たい髪は、張り詰めた絹糸のような手触りだった。その慣れ親しんだ感触に誘われるように篠吹が涼の額に唇を押し当てた。
「どうした?」
不思議そうに自分を見上げる涼に篠吹は優しく声をかける。涼はまた曖昧に笑って軽く頭を振った。
「旅行なんて……久しぶり」
篠吹の手の下で目を細め、涼は小さな声で呟いた。
「今回は、近いところにしたけど、どこか行きたいところは?」
「どこでもいいよ」
間近に見つめあって、涼は楽しげに微笑んだ。
「篠吹は、どこが好き?」
じゃれつくように篠吹の首筋に腕を絡ませ、涼はじっと恋人の瞳を覗き込んだ。
「どこかな……」
愛しい低い体温を抱き寄せながら篠吹は呟く。
「パリは、好きだよ。話しただろ?伯父について毎年同じ時期に行くって。冬のヨーロッパは、嫌いじゃない……。涼にも似合う」
「俺に?どうして?」
不思議そうな表情で涼が問うと、篠吹は涼の首筋にそっと口付けた。
「俺のイメージだよ。冷たく澄んでる空気が似合いそうだ」
いつか一緒に行こうと篠吹はいい、涼は嬉しそうに頷いた。
屈託のない涼の笑顔に、篠吹の胸は痛む。いつも決まった時期に訪れるパリの街は確かに篠吹の気に入りだった。美しく、澄んだ、寒々とした景色が、篠吹は好きだったけれど……今あの街にあるのは、涼と並び歩くという夢ではなく、遠くに消えていく誰かの、追い縋れなかった背中の幻だ。
思い出は、また意味を変えた。もう会わないと、そう誓ったあの日から、再び嘘と密やかな喜びを抱く暗い日常に帰ってきた。
ここから、どうやって涼の傍に戻れるのだろう。涼に対する愛情がほんの僅かでも薄れてはいないと、そう断言するのは簡単だった。しかし、自分以外の一体誰がそんな言葉を信じるのか。
涼は如よりずっと……自分にとっては大切な相手だと思う。けれど、大切だと思う相手ならばどうして裏切ることができるのだろう。一番大切だと思う相手を犠牲にするのは、何故か。
「……」
浴衣の合わせ目から胸に忍んできた熱い手に涼は首を仰け反らせた。
涼と呼んだ、その手と同じくらい熱い唇が磁器のような肌にキスを降らせる。裸の肩を撫でた手が浴衣の背に回り細い帯を解く。
「篠吹」
うっとりとした熱を帯びた眼差しで涼は恋人を見上げた。おずおずと手を伸べ、逞しい肩に触れると、篠吹の目が優しく笑う。
「久しぶりだ」
涼の耳元で篠吹が囁いた。うん、と掠れた声で涼は応じ、そっと篠吹の頭を抱いた。
「本当は……こういうの好きじゃない?」
「え?」
思わぬ言葉に篠吹は顔を上げようとしたが、涼はそれを許さなかった。そしてそれ以上何を言うつもりもないらしく、じっと押し黙ってしまった。
「どうして?」
篠吹はできるだけ冷静を装って涼に問いかけた。涼は少しだけ考えてから
「何となく、そう思ってた。一緒に寝るだけでも、俺は……嬉しいけど……あんまり、しないから……やっぱり、俺とするの、あんまり好きじゃないのかって……」
「そういうわけじゃないよ」
胸苦しさに、篠吹はわざと明るい声を出し、強引に顔を上げた。
「涼が、大切なんだ。今までの誰とも比べられない。セックスなら、それこそ誰とでもできる。だけど、涼は特別だ。だからそういう風に、扱いたくなかった」
「……」
涼は目を見開いて、安心したように、しかしどこか苦しそうに目を閉じた。ごめんと呟いた唇を篠吹が覆う。
涼に言ったことは本心だったし、如と再会してからも、涼といる時の自分に変化はないと信じていた。しかし……上辺だけの触れ合いと言い切れる体の繋がりは、あるいは体内の心をも変えていくのかもしれない。
如との行為を軽蔑するために、自分は涼を抱かないようにしているのだろうかと、篠吹は不意に思った。あるいは……涼に対する愛情を正当化する為に如を抱くのかも知れない。
「愛してる」
他の誰にも捧げない言葉を、篠吹は涼に告げた。免罪符のようにチープな囁きは涼にどう響いたのだろう。
涼は苦しそうに目を閉じたまま、小さく頷いた。
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