第8話 雨

 「三村君」

 エレベーターを待っていた是俊にそう声をかけてきたのは総務の河上という女性だった。部署は違うが是俊とは同期になる。昼食に出かけるところだったのか、彼女の連れは如のかつての恋人である篠原だった。

 「これから昼?」

 黙って会釈した篠原に軽く頭を下げて是俊は河上に尋ねた。

 「そう。一緒にどう?」

 「あー、悪い。俺、ランチミーティングなんだよ」

 篠原に対するちょっとした好奇心もあった是俊は残念だなと呟いた。

 「そうかぁ。また今度飲み行こうね」

 ああ、と応じた是俊に河上が突然大きな声を出した。

 「そうだ!私この前冴島さんに会ったの」

 「冴島さんて、あの?」

 何故かぎょっとして是俊は篠原を横目で盗み見た。が、かつての恋人は綺麗に作り込まれた眉一つ動かさずに黙っている。

 「そう。フランスに行っちゃった冴島さん。それですごいのはね、冴島さん、片岡先生と一緒だったのよ」

 「え?」

 思わず聞き返した是俊に篠原が静かな眼差しを向ける。是俊はいつ頃かと尋ねた。

 「先週。友達の披露宴の帰りにホテルのロビーですれちがったの。はじめは片岡先生の方に気が付いて、すごい美人と一緒だなって思ったら冴島さんで。冴島さん、髪長くてアップにしてたから女の人みたいに見えたんだよね。仲良さそうだったし、何かお似合いって感じだったよ」

 二人とも独身だし、と河上は意味ありげに笑った。

 「思わない?」

 屈託なく同僚を振り返って河上が篠原を見た。そのあまりに自然な表情から、是俊は、篠原が如との関係を公にしていなかったのだと悟った。

 「さぁ」

 曖昧に相槌を打って是俊に微苦笑を向ける。その時初めて篠原をいい女だなと是俊は思った。

 「あんまり三村さん引き止めたら悪いよ」

 篠原がそう言いながら是俊に笑いかけると、河上もようやくそうだねと頷いた。

 「また今度ね」

 「ああ」

 篠原は何を思うのか……視線だけを下げて是俊に礼をする。化粧の賜物か、如よりもまだ長い睫毛を震わせて篠原が目を上げた時、是俊は彼女の眼差しの中に癒えない傷を抱える人間の悲しみを見て取った。

 好きだったんだな……そう思うと、目前の女に妙な親近感と愛しさを覚える。篠原はまさか、自分のかつての恋人が男と付き合っているとは思いもしないだろう。申し訳なさか、それとも同病相憐れむ心地だったか、是俊の胸がわずかに痛んだ。

 そうか、あいつはひどい男だったんだ……そう思い至った是俊の胸には切ない痛みが生まれた。


 「お前さ」

 夜食のパスタを器用にフォークに巻きつける如に是俊が声をかけた。

 「何?」

 「今でも片岡先生に会ってるのか?」

 「え?」

 如の動きが一瞬だけ止まったように是俊には感じられた。

 「どうして?」

 口元は、微笑んでいるのに……表情はどこか暗いように見える如の顔。手の中のグラスを軽く揺すった是俊は少しだけ意外そうな表情をした。

 「いや、総務に河上って子がいて……篠原さんの友達みたいだけどな、そいつが、お前と先生が一緒にいるとこ見たって言うから」

 「そう……。うん。実はちょっと相談とかさせてもらってる」

 「へぇ……それはタダでか?」

 食事を再開した如に是俊は重ねて問う。

 「うん。篠吹さんに、お金払ってなんて相談できないよ」

 フォークを片手に如はそう言って笑って見せた。そしてふと思いつめたような眼差しで是俊を見る。

 「あんまり……よくないでしょ?前の会社で知り合った人だし、何か利用してるみたいで……だから言わないようにしようと思ってたんだ」

 歯切れの悪い如の言葉。そんなものかと是俊は首を傾げる。

 「関係ないだろ?同じ業界で独立したわけじゃなし。個人的な付き合いならなおさらだろ」

 「そう、かな」

 如は曖昧に微笑してグラスから水を飲んだ。

 「涼君とは会ってないの?」

 今度は如がそう尋ねた。一年以上前のあの出来事を如が持ち出すことはもうなかったが、是俊は未だに負い目を感じているらしい。

 「会ってないな」

 すぐに断言する。

 如は是俊の様子に少しだけ笑った。

 「よかったら……店にも遊びに来てもらって」

 「ああ。そうだな」

 如の思わぬ提案に一瞬面食らった是俊だったが、

 「お前から片岡先生に言った方がいいんじゃないか?」

 ふと思い直したように如を見返す。

 「うん……今度、機会があれば話してみるよ」

 「かせよ」

 食器を持って立ち上がりかけた如の手から是俊が皿を奪う。

 「ありがとう」

 さりげない気遣いが、愛情に満ちた眼差しが如の胸を締め付ける。


 秘密がまた増えた、と気怠げな声で如が呟いた。

 「……雨だ……」

 ベッドから腕を伸ばし、如は窓の外に目を向けた。

 篠吹は如の背を半ば覆う長い髪にそっと触れる。

 もう、過ちと呼ぶことさえ許されない。いつまで続くのかもわからない。

 いっそ何もかも捨ててしまおうかと、そうできない悲しみに濡れた如の眼差しが誘った。

 ようやく叶えられた夢さえ、今なら投げ出せそうな気がする。

 カーテンから手を離すと、如は再びベッドに身を沈めた。

 口付けの後さえ如の肌に残さない行為は、それでも互いの胸に青い傷を刻む。

 諦めたいと、手放したいと願いながら、どこかで燻り続ける燃え尽きたい衝動。

 愛していると囁き合わないことが、せめて……嘘を重ねる相手への愛情であり、誠実な思いだろうか。

 離れれば、気持ちは恋人に向く。しかし、また顔を見れば制御のできない愛しさがハレーションを起こす。

 如はゆっくりと手を伸ばし、篠吹の胸を脇腹を撫でた。顔を寄せ、引き締まった体に唇を寄せる。わずかに汗ばんだ、篠吹の肌。香水と混じりあった男性の香り。

 首筋に腕を絡ませて、如が篠吹に口付けをせがむ。

 言葉にならない愛を、口移しで伝えて……。

 自分の長い髪を無言でかき上げた篠吹の腹に、如はのった。

 何がいけなかったのだろう。そんな無意味な問いが如の脳裏をかすめる。

 「十年前に戻れたら、僕を選んでくれますか?」

 キスの合間に如は囁く。

 篠吹には重なった胸からダイレクトに響いてくる鼓動が、すすり泣いているように思えた。激しくはない。ただ、静かで、理性的で、それ故に苦しむ人間の哀しい心音だった。

 「それに答えるには、年を、とりすぎた……」

 微かに首を横に振って、篠吹はそう応じた。如の背と首筋に手をかけて何度も短いキスを繰り返す。

 好意は、行き詰るものなのだと二人はいつしか悟った。

 行き詰って、行為に走った。体を繋げることで、伝えられない気持ちをぶちまけ、行き詰った優しさから逃げ出した。

 もっと、と如が呟いた。

 「お互いに、もっと、セックスが好きならよかった……」

 泣き出しそうにも見える柔らかな笑みで続け、如は篠吹の肩に口付けた。

 体だけの関係と、開き直れたらどれだけ楽になれるだろう。会う度に、狂ったように抱き合っているのは、他に術がないからだ。

 楽しいと、一瞬でも思えたのは……パリで過ごした一週間だけだった。

 今は、ただ苦しい……。

 恋人になら惜しげもなく捧げられる言葉を、誓いを、愛情を、一つ残らず取り去ってそれでも会いたいと思う。

 何がなくてもいいから、会いたいと思う。

 「君といると……何もかも、どうでもよくなる。先のことを、考えなくなるよ」

 皮肉でもないだろう。篠吹は言って、小さく吐息をもらした。

 「ずっと一緒になんて……僕だって思わない……。今だけが、あればいい」

 顔を上げた如の頬を撫で

 「破滅的だな」

 そう、篠吹が言う。

 「愛情でも、ましてや情でもない……僕たちは何で結ばれているんでしょうね……」

 「何で、か……」

 柔らかな髪を指に絡めて篠吹は如の眼差しから目を背けた。

 何だろうなとかすれた声が、如を甘く戒める。

 首筋に顔をうめ、如は篠吹に気付かれないように吐息をもらした。篠吹の声が、好きだった。よく通る綺麗なバリトンで、何かを囁く時はいっそう深みをます、その声。初めて会った日、その声を聞いた瞬間のぞっとするような甘美なショックを、未だに如は忘れていなかった。

 篠吹はきっと、自分がこうありたいと思い描く理想を具現化したような存在なのだろうと思う。一人の男としても、人間としても、篠吹は如の理想だった。

 どうしたと篠吹が如の耳元できいた。

 「最近……」

 視線を通わせて如は力なく笑う。

 「よく女性に間違われるようになりました」

 篠吹は一瞬言葉に詰まって、それからふっと笑った。

 「モデル体型だしね」

 背中から腰を滑る篠吹の手を感じながら如は目を細め

 「篠吹さんにはわからないでしょ?僕は別に女性になりたいわけじゃないし、肉体的にも精神的にも男性だっていう自覚もある……けど、そういう風に扱われるのは……不思議な感じですよ」

 「そうか……。そうだな。すまない」

 「そういう意味で言ったんじゃなくて……自分の理想と現実は必ずしも一致しないって、そう思ったんです」

 不思議そうに目を細める篠吹の頬を撫で、如は少しだけ苦しそうに微笑した。

 「例えば、僕は……貴方みたいな男になりたかった」

 「どうして?」

 「どうして、って理想だからです」

 わからないな、と唸った篠吹は如の手を掴み引き寄せた。

 「こんな男のどこが理想だ?我ながら……情けなくなる。君のことも、何も……何一つ守り切れないような男だ」

 篠吹の苦悩を物語る額のしわ。

 苦々しい顔で如の手を離した篠吹は、ふっと天井に視線を移した。

 「本当に……だめだな」

 すまない、とかすれた声が続く。

 「それでも……僕は篠吹さんだったから惹かれた。僕がもし篠吹さんに似てたら、ほんの少しでも似てたら……僕はここまで」

 如は突然言葉を切った。

 篠吹が視線だけを如に向けた。先を促すわけではない、ただ気になったから目を向けたというそんな様子だった。

 沈黙が訪れると、雨音が大きくなった。低くうなり続ける空調の音も微かに聞こえている。どちらかが動くたびに衣擦れがする。

 陰惨な至福だと如は思い、皮肉な笑みが自然と口元に浮かぶ。

 「あの夜も……」

 仰向けに寝転んだまま篠吹が口を開いた。

 「雨だったな」

 「……そうでしたね」

 如は篠吹に背を向けゆっくりと体を起こした。

 「僕は、雨の日が好きなんです」

 「どうして?」

 篠吹は興味をひかれたように如の背に問いかけた。

 「雨は……余計な音を消してくれるでしょ?聞きたくない、自分が立てる音に耳を塞がずに済む」

 皮肉でもないだろうが、如の声には翳りのある微笑が含まれていた。

 「それだけじゃない。雨は、何でも覆い隠してくれるでしょ?降りしきっている時も、例えば霧雨でも……自分が見つめようとしてる物の形を曖昧にしてくれる。見極めるのが怖いものでも雨の中でなら……何となく見つめていられる気がする」

 それから、と肩越しに如は篠吹を見、

 「最後には全部、洗い流してくれる。雨の中で見た夢は、雨が上がると消えていく気がするんです。どんな悪夢でも甘い夢でも。目覚めて僕は晴れ上がった空に虹を見つけて……僕にはそれが、祝福にも呪いにも思える……」

 篠吹の手が、そっと如の腕に触れた。

 「俺にとっては、君の存在だ」

 「僕ですか?」

 上体を起こした篠吹は、見開かれた如の瞳に寂しげに微笑みかけた。

 「一度見つけてしまうと、忘れられなくなる。常に気にかかる」

 「少なくとも、僕は貴方にとって祝福じゃない。何がいけなかったんでしょうね……。僕はただ、貴方が好きだっただけなのに。どうして僕じゃない誰かは、簡単に貴方の愛情を手に入れられるんだろう」

 如の指先が篠吹の輪郭をなぞる。

 「篠吹さんこそ、虹みたいだ。悪夢の後も甘い夢の後も……ただ、貴方がいればいいと思う。貴方が僕を苦しめるだけの存在であるとしても、貴方にはそこにいて欲しいんだ」

 篠吹はその胸に如を優しく抱いた。

 「何度出会っても、僕の願いは叶わない……。何度巡り会っても、貴方はそこにあるだけだ」

 そんなことはないと、そう言えればいいと篠吹は思う。それが例え嘘でも、裏切りでも……しかし、言えばなお如を惨めにしかねない。

 「僕は」

 如は篠吹を見上げた。

 「それでも……たぶん、幸せなんだ」

 哀しくて、それでも愛しいのだと囁きかけてくる如の眼差し。如は不意に目を細め、篠吹にそっと口付けた。

 黙ってベッドをおりた如の背を篠吹は目で追う。床に脱ぎ散らした服を手に、如はバスルームに消える。

 何をしたいのだろうと、体を起こしながら篠吹は皮肉に思う。会う度に、ただ狂ったように体を重ねて、そしてどこへ行くというのだろう。パリで過ごした時は、一週間という時間的な制約があった。如は、一生のうちの七日間だと言っていた。それで全て終わりだと、まるで世界の終わりのように七日を過ごした。

 あの時は、儀式だったと今にして思う。運命の女神が許し給うた、儀礼的な戯れ……終焉に向かう遊戯だった。

 今は、何と呼べばいいのか。篠吹にも、そして如にもわからなくなった二人の意味。繰り返される出会いと別れの、断続的な関係の合間を埋めることの意味。

 バスルームから聞こえ始めた水の音に、篠吹は耳を澄ます。街を濡らす雨の音に紛れるシャワーの音には、如の涙もいくらか混じっているのかも知れない。

 如がそうしたようにカーテンに手を伸ばし、篠吹も外に目をやった。雨は、灰色の空からいつ果てるともなく降り続いている。止んだところで、残るのは暗い色の空だけだろう。虹は出ないと、篠吹は断定的に思う。

 「どうしました?」

 「いや」

 篠吹の前に現われた時、如はすっかり身づくろいを終えていた。

 虹は出なそうだと、如に言いかけて篠吹は思いとどまった。自分が言わなければならないことではない、そう気付いた。如はふと窓辺により、止みそうもないですねと、無感動な声で呟いた。

 「明日も……明後日も……」

 不思議そうに自分を見上げた篠吹に微笑みかけ、如は微笑んだ。

 「冗談です……」

 篠吹に腕を引かれて、触れ合うだけのキスをする。

 「一緒にいるところを、会社の人に見られたんです」

 是俊君も知ってます、と如はベッドに腰かけながら続けた。

 「秘密なんて……そうそう隠しおおせられるものじゃないんだ……」

 それは、と篠吹が口を開くと

 「僕たちの関係まではさすがに知りませんよ。ただ……秘密っていう言葉も、案外脆いなと思ったんです」

 如は篠吹に微笑みかけ、ベッドから立ち上がった。絶望的なのでもない。如の微笑みは、硬質で透明な、ガラスのような繊細さと危うさを含んでいた。

 「それじゃあ」

 「ああ。気をつけて」

 篠吹の言葉にドアの側で一度振り向き、如は出て行った。

 止まない雨音に篠吹は目を閉じた。

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