第7話 濡髪
「ただいま……」
「遅かったな」
玄関でいささか憮然とした表情の是俊に如はごめんと呟いた。
「学生時代の友達が、突然来てくれて……今まで飲んでた」
「そうか。飯、もういいのか?」
是俊はほっとしたようにも見える微笑で如に背を向けた。
「うん。作ってくれたの?」
ああ、と是俊は応じた。やっぱりと是俊の背中を見つめたまま如は表情を曇らせた。
「朝、食べてくよ。……シャワー浴びてくるね」
リビングへつくとすぐ、如はそう言った。
「ああ。風呂も入れるぞ」
「ありがとう」
逃げ込むようにバスルームへ向かい、如は服を脱ぐ。鏡に裸体を映してみたが篠吹が残したものは何一つなかった。
自分のものではないと、篠吹はわかっているし、それは自分も同じことだと如は思った。
シャワーを浴びながら篠吹の気配を洗い流す。彼の手指も香りも視線も届かない恋人との空間に、篠吹は連れ込んではならない人間だった。
髪を洗っていると、戯れに触れた篠吹の指が自分のもののように思えてくる。離れていることを意識させない、あるいはあまりに強固に主張し続ける篠吹という見えない存在。
彼を忘れるあらゆる儀式さえ、不可視の気配だけの篠吹には抗えない。
凍える人のように如は自分の体を腕で抱きしめた。
「飲むか?」
「うん。ありがとう」
バスルームを出ると、是俊がミネラルウォーターのボトルをテーブルに置いた。
そわそわして見えないかと内心びくつきながら如はソファに腰を下ろしペットボトルを手にする。是俊は如の背後に回り、バスタオルをかけたままの如の髪に触れた。
「如?」
驚いたように振り向いた如に是俊の方が面食らう。
「ごめん……今日はいいよ。もう寝るから」
「風邪引くぞ」
是俊はいつも通り如の髪を乾いたタオルで拭き始めた。いつ頃からか、風呂上りの如の髪を乾かすのが是俊の日課になっていた。如が頼んだわけではない。恐らく、如と自然に触れ合える機会を是俊が望んだのが始まりだった。
いいのに、と呟いた如の言葉を是俊は無視した。手荒く見える、しかしそうされている如にとってはひどく優しいやり方で是俊は如の髪を乾かす。背後の是俊の思いつめた眼差しを、如が知ることはない。また、如の苦しげな瞳を是俊は知らなかった。
「もう、いいよ。ありがとう」
眠いのだと如は付け加え、ソファから立ち上がった。
是俊は今度は何も言わず、如の手から空ボトルを取り上げた。
「ありがとう」
いつもとは明らかに違うぎこちない空気に如は苦く笑った。是俊が何も気付いていないとしても、昨日とは決定的に変わった現実が如を怯えさせている。
おやすみ、と言った如に是俊は背を向けてキッチンへ向かった。
「……」
眠れそうにもなかったが、如はベッドに急いだ。疲れている自分の眠りを妨げるようなことを是俊は決してしないとわかっていたから。しかし如がベッドに入ろうとしたその時、ベッドルームのドアが開いた。
リビングの電気はつけたままで、是俊が黒い影にしか如には見えなかった。
如、と切ない声で呼んで是俊は後ろ手にドアを閉めた。
「少しだけ、いいか?」
「え?」
力強く抱き寄せられ、柔らかく抱きしめられた時、如の目が大きく見開かれた。
「是俊、くん……?」
「悪い……。少しで、いいんだ。お前に触りたい」
胸が痛くなるような声で是俊は囁き、如をベッドに押し倒した。如の緊張が伝わったのか、是俊は驚いたように顔を上げたが、間もなく如の唇にそっとキスをした。
「眠かったらいいぞ」
優しいキスの後で是俊は小さく笑ったようだった。
「お前が、嫌がることはしないから」
如の耳元で告げて、是俊は濡れ髪を梳いた。
如が感じた是俊の欲望の高まりとは裏腹に、その行為は全て穏やかで静かな愛情に溢れていた。髪や頬を撫で、同じ柔らかさで口付けを繰り返して……是俊がしたのは本当にそれだけだった。
「……月曜は、休みだから……」
「ああ……」
優しさに耐え切れなくて、如は是俊の頭を抱いて囁いた。是俊は腕の中でじっと動かなくなった。
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