第6話 再会
いらっしゃいませとマスターの見慣れた微笑に迎えられ、篠吹はバーカウンターに向かった。
「申し訳ありません」
今日は先にいらしたお客様が、と篠吹の定位置を見やって小柄なマスターが頭を下げた。
「ああ、かまわないよ。俺のことばかり気にしてたら商売にならない」
カウンターの中心辺りに席を決め、篠吹はいつものとウィスキーのロックを注文し手洗いに立った。
土曜だというのに、時間帯も早いせいか店内はそれほど込んではいなかった。
席を立ちながら、ふと横を見る。
綺麗な曲線を持つ手の主を思いながら……パリで撮った誰かの写真を思い出す。
白い手から、徐々に広がって行く彼の姿。一年以上前に別れたきりの、記憶の麗人。繰り返される突然の再会はいつも、悲しい終わりを連れていた。
彼は、元気にしているだろうかと、モノクロームから視線を引き離しながら考える。もう日本にも帰っているだろう。念願だったという店は出したのだろうか。あるいは、諦めて別の道を進んでいるかもしれない。
彼のことだからどこにいて、何をしていても周囲には多くの人間が集まるだろう。
懐かしさからか、微かに口元が緩むのを篠吹は感じた。元気ならばいいと、ただそう願うのは、燻り続ける過去を消し去れない自分に対する慰めでもあった。
小さな微笑が、苦い影を引きながらゆっくりと消える。篠吹がレストルームのドアに手をかけると、内側からも誰かがドアを開けようとしていた。
「すみません」
「失礼……」
あっと悲鳴を上げた相手に、篠吹は目を見開いた。
どうして、と微かに震えた唇。
蒼白な頬に影を落とす長い髪。
はっきりとしたアーモンド形を描く美しい目元。
「如くん……」
たった今思い描いていた人物に、まさかこんなに突然出くわすとは……。
目をいっぱいに開いて、唇を戦慄かせる彼は……ショックを受けているようにも、怯えているようにも見えた。しかし、瞳が潤み、頬には赤みが差すのを篠吹ははっきりと見た。
言葉を失い立ち尽くす如の肩を、篠吹は両手で包み込みそのまま狭い個室に押し入る。
「しのぶさん……」
かすれた声でそう呼んだ如を、篠吹はいつかのようにきつく抱きしめた。
「あ……」
変わらない仰け反った首の細さ。石鹸にも似た爽やかで温かな香り。懐かしいと、異国での日々を忘れえぬ魂が囁いた。
あの日から、セーヌの岸で別れた日からもう二度と合うまいと固く誓ったことさえ、衝撃のような再会の前に霧散する。
熱烈なキスの合間に、如は一筋涙を流した。
「や、あぁ……」
洗面台に手をつかせ、篠吹は背後から如を抱いた。
記憶と寸分違わない白い首筋を甘噛みし、シャツのボタンを乱暴に外す。細い腰を抱いていた腕をずらし下肢に触れると、如の昂ぶりが感じられた。
「やだ……」
鏡に映る自分たちの姿に羞恥を覚えたか、如は髪を振り乱して顔を背けた。
こんな、と悲鳴を上げかけた唇をキスで塞いで、篠吹は如の腰を抱き寄せた。
「んんっ!」
声にならない悲鳴を上げて、如が激しく頭を振った。無理な体勢から体を捻り、鏡を背にして篠吹に向き直る。
本気で嫌がっているのかと身を引いた篠吹の頭を抱き寄せて、如は深く乱れたキスをした。篠吹は如の片方の膝の裏に腕を入れ、脚を開かせながら再び深く穿った。
悲鳴を上げないように如は苦しい呼吸を押してキスを続けた。不規則に体がぶつかり合う音が響く。
片手で洗面台の端を掴み体重を支えていた如の腕が痙攣する。
もう、と訴えた如を掌で導いて篠吹も如の中で達した。
篠吹の腕から解放されると、如は崩れるようにタイルの床に座り込んだ。
「大丈夫か?」
顔を上げず頷く如が
「先に行ってください」
乱れた息のまま告げた。
篠吹はわかった、と応じると手を洗い、使ってくれとハンカチを手渡した。
ようやく顔を上げ、篠吹からハンカチを受け取り、早く戻るよう如は促した。
行為の間中、ずっと泣いていたのだろうか。
赤くなった目と、頬に残る涙の跡が痛々しい。
乱れた長い髪をそっと整えてやってから、篠吹は外の気配をうかがって出て行った。
如はやっとの思いで立ち上がり、内側からドアをロックすると再び床に座り込む。
篠吹を受け入れた場所が疼くように痛んだ。熱を持った体がひどくだるい。そして何より……気持ちが滅茶苦茶に乱れていた。
どうして、どうすればいいのかと如は頭を振る。
信じられない。こんなことが起こるなんて……。もう、踏み込んではいけない、篠吹の元から一瞬でも早く立ち去らなければ……。そう思いながら、願いながら、しかしそれが叶わない自分の弱さも嫌というほどわかっている。
弱さ?違う……それは、狡さだ。逃したくない。逃れたくない。運命からも、篠吹からも。そして……手放したくないとさえ、思っている。
……どうして……
思わず口を突いて出た言葉に如は天を仰いで嘆息した。
如が席に戻ると、篠吹が心配そうな眼差しで迎えた。
大丈夫と微笑んで、如は篠吹の隣に座った。
「すまない」
低い声で告げた篠吹に如は無言で首を横に振る。
グラスを持った如の掌には、きつく握り締めたのか爪の跡がくっきりと残っていた。
「ごめん。あんなことを」
「平気です」
伏目がちに微笑んで、如はゆっくりとグラスを持ち上げた。
「Est-ce que c'est un miracle?」
「どうした?」
何かを呟いた如の顔を、篠吹が不安げに覗き込む。
「これは……奇跡ですか?」
「……そうかも知れない」
二人はじっと顔を見合わせ、遅ればせながらささやかな乾杯をした。
「あの写真を、いつも見てたんです」
如が篠吹に背を向けるように壁際を見た。
如は写真を通じて、レンズ越しの篠吹に見つめられているように感じていた。あるいは、そうであればいいと願っていた。
どこかで、どれだけ離れていようと……ほんの僅かでも篠吹と繋がれていると信じていたかった。それが幻想であっても、幻の眼差しを感じたかった。
それから言葉は途絶え、熱病のような興奮とさめざめした後悔が二人の間をさまよった。
あれからのことを、と篠吹が切り出したのはどれくらい経ってからだったか。
「話してくれないか?」
胸の奥から沸き上がるような行き場のない感情を何と呼べばいいのか。先ほど半ば強引に体を開かれた時の熱が如の思考を鈍らせていた。
如はうつむいてグラスを手に取った。
「出よう」
いつの間にか空になっていたグラスを持て余す如に篠吹が言う。
物思う如の眼差しは潤んで、別れ際にさえ見せることのなかった涙を篠吹に連想させた。
篠吹は常宿の一つに部屋をとって如を招いた。
二人はバーカウンターのワインとウィスキーを空けたが足りず、ルームサービスを頼んだ。
テーブルを挟んで二人は向き合い、如は飽くことなくとうとうと話した。
フランスでの暮らし、出会った人間たち、ジルベールと彼の店、東京に戻って土地を探し開業するまでの苦労や頼もしい協力者のこと。時に微笑し時に寂しそうに如は誰にともなくといった風情で語り続けた。篠吹に対する苛立ちがそうさせたのかも知れない。この瞬間の状況を頭から追い出そうとしている自分にさえ、如は焦りに似た胸苦しさを感じた。
篠吹は相槌さえ打たず如の語るに任せた。時折小さく頷いたり静かに目を閉じる以外篠吹は、ただ如を見守っていた。
「今は是俊君と一緒に暮らしてます」
一頻り話した後、如が自らの手中でもてあそぶグラスに目を落として呟いた。
「毎晩、夜食を用意して僕の帰りを待ってる」
哀しみにも諦めにもまた憤りにも似た、感情のない如の微笑。
篠吹は無関心を装ってグラスにコハク色のアルコールを注ぎ足した。
如はグラスを手に立ち上がり篠吹の目前に立った。
怪訝そうな表情を浮かべた篠吹の股の間に膝をつき
「貴方は悪い人だ」
如が低い声で囁く。
貴方は、押し殺した如の声はかすれて篠吹の鼓膜を刺激する。
「いつも僕だけを踊らせる」
言いながら如はグラスを篠吹の口元で傾けた。篠吹はまるでそう命じられたかのように唇を開き、如が注ぐ甘く濃密な液体を受けとめた。
薄い唇から溢れたアルコールが、あごを伝い篠吹のシャツにしみを作る。如は篠吹のタイをとき、シャツのボタンを外した。
体温が上昇したのか、如の体から立ち上る清涼な香りが増した。何をするつもりかと黙って如を見つめていた篠吹の肩に鋭く小さな痛みが走る。
その痛みがつき立てられた如の爪によるものだと気付き、篠吹はじゃれつく飼い猫をそうするように優しく、しなやかな体を抱き締めた。
手探りするような不安さで唇を求めあい、やがて篠吹が如を抱き上げた。
「貴方は全部台無しにする」
裸の胸を重ねながら如が呟いた。篠吹の横顔をぼんやりと眺めていた目からは涙が溢れる。
長い髪をすきながら白い首筋に篠吹は唇を寄せた。
パリでの日々がなければこうはならなかっただろうと漫然と思い、それからあの夜が発端かと疑う。
しかし始まりはもっとずっと昔。二人が出会ったあの日だった。
こんな気持になれることは、幸福なのかも知れないと如の声を聞きながら篠吹は思った。
涼は誰より愛しい。愛しくて……些細な傷一つつかないよう大切に扱っている。
しかし如を知るまでは、その存在にさえ気付かない感情があった。それは涼をただ思っていた時にさえ巡り会えなかった衝動的な情熱だった。
追憶と罪悪間に打ちのめされながら二人は果てしなく行為に枕溺した。
一瞬でも体を離しては生きられない、まるでそう言うように。
如は惜しげもなく声を上げた。泣き声のように響く、澄んだ悲しげな声で。
「辛いか?」
首筋を濡らすものが如の涙と知って、篠吹は慰めるように優しく長い髪を撫でた。
如は問いには答えず、両腕を絡めてしがみ付いていた篠吹の首筋にキスをする。頬ずりをするように顔を動かして如は一際高い声を上げた。
快楽は、行為の内から抜け落ちていた。
ただ体を繋ぐということだけが、いつしか二人の共通の目的に成り代わっていたらしい。興奮を支えるものは、欲望でも愛情でもなく互いへの同情とあるかなきかの罪悪感、それから運命という美しい響きを持った言葉。物理的な喜びは既に介在の余地もない。ただ、結ばれているのだという観念だけが二人を強く引き合わせていた。
篠吹の肩に頭を乗せたまま、如はベッドサイドの時計を見た。見るともなく……、あるいは本能的に探し求めてかもしれない。発光する白い数字は1:40と並んでいる。
今夜も、待っているだろうと、恋人の顔が浮かんだ。
優しげな、労しげな眼差しが脳裏に浮かぶ。それは貫くような鋭さで如の思考を射た。店を持ってから、是俊とはほとんど抱き合っていない。疲れているだろうと家の仕事もほとんど是俊がしてくれている。それでなくても……是俊は約束通り一年間も自分を待ち続けてくれた。
一生をともにしてもいいと、そう思ったのは本当だった。ずっと一緒にいられればいいと、そう思った。
しかし……。
間近に見つめあう時、思考は停止する。自分が自分でなくとも、篠吹が篠吹でなくても、それでもかまわないと思う。否、思うことさえなくなる。篠吹という存在も、自分という存在も、名もない熱い塊のような気がしてくる。感情も理性もなく、ただ互いを焼き尽くす熱だけを宿す無形の存在。
如の手が篠吹のあごを支えるように顔を持ち上げる。熱く濁って……悲壮感さえ漂う、あまりにも無垢な眼差しで二人は唇を寄せ合う。
「貴方といると……」
如は震える唇で言葉をつづり、そっと篠吹の髪を撫でた。
「何も、考えられなくなる」
ああ、と低い声で篠吹は頷いた。
二人は無言で抱き合っていた。時が二人の周りだけを避けて流れていくような静けさに包まれて。
やがて倦怠と憂鬱を持て余した沈黙の底から、如が小さな声で呟いた。
「帰らなきゃ……」
篠吹の手が、躊躇うような弱さで如の背を撫でた。
背後に篠吹の視線を感じ、如は足を止めずに振り向いた。
光を放つ窓の一つには、篠吹の姿があるのだろう。その場所はあまりに高くて……如からは見えない。篠吹から見れば、如の姿はわずかな人影としか見えないだろう。けれど、わかる。それでも、感じる。
壊れてしまいそうだと、暗い空に星を見つけながら如は思った。
足取りは重く、自分もいっそ店に泊まろうかとさえ考えた。このまま、何食わぬ顔をして是俊に会えるだろうか。会える自分を許せるだろうか。
大通りに出てタクシーを拾うと、如は携帯電話を取り出した。
着信が二件入っている。どちらも是俊からで、二度目にはメッセージが残されていた。
『今日遅くなるのか?迎えに行ってもいいぞ』
ぶっきら棒な声で残された伝言はそれだけだった。
自分の仕打ちに、彼の一途な思いに胸が痛んだ。こんな風に裏切るくらいなら、きっと……全てを話して別れるべきなのかもしれない。
シートに深くもたれ、如は目を閉じた。
車の微かな振動が普段なら眠気を連れてくる時間だった。しかし今夜は目が冴えている。冴えているというより刻一刻と家に近付いていくという事実が如の鼓動を速くする。
どんな顔で……と如はゆっくり目を開けた。
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