第5話 兄との秘密
涼のスマホが震える。短い振動から、それがメッセージの受信を知らせるものだと涼にはわかった。講義を聞きながら、机の下で携帯を開く。
メールの送信者は
あの日まで……。愛奈が自分と兄の関係を知ってしまった日までは。
家を出たのは愛奈のことだけが原因だったわけではない。けれど、家族に知られてしまった以上、耐えられなくなった。愛奈の実兄、つまり自分にとっては異父母兄である有麻との関係を。
愛奈は、家を出てからも連絡を取りたがってくれた。誰にも言わないから、戻ってきて欲しいと、実の兄である有麻より、本当は自分の方が好きだとも言ってくれた。今もメールや電話でのやり取りは続けている。彼女のことは、とても愛しく思う。けれど、そう思ったからこそ傍にはいられなかった。
メールの内容は、近々に会いたい、というものだった。愛奈も来年高校を卒業する。家を出てからは、二年前に一度会ったきりだ。
元気にしているのだろうか、と不意に懐かしさがこみ上げてきた。
久しぶりに会いたい、と思ったのは、今幸せだからかも知れない。篠吹の傍で、何の不安もなく暮らしている。篠吹の心変わり以外に、自分を脅かすものはないと、どこかでそう悟っているから。
篠吹の存在が、これほど自分を変えるなんて……出会った頃は想像もしていなかった。篠吹の隣では、もう怖い夢も見ない。ただ、彼より早く目覚めた朝に、自分を信頼しきったような静かな篠吹の寝顔を目にすると、時折心が痛んだ。篠吹を騙しているような、欺いているようなそんな気がする。
秘密を守ることが自分の愛情だと、秘密を守ることが篠吹への誠実な誓いだといつかそう決めてしまった。迷うことは、確かにある。決意が揺らぎそうになることだってある。けれど……篠吹を愛する以上、犠牲にしなければいけない自分の心があるのだとそう気がついた。
全てはやがて変わっていくだろう。よくも、悪くも、とどまり続けるものなんてこの世界にはないから。だから大切な物をこの手で守れるだけは守って生きたいと思う。篠吹は、自分のそういう強さをきっと望んでいる……。
いつにしようかと、返信すると、
『土曜日の午後、帰ってこない?お母さんも会いたがってるよ。』
と、愛奈。
涼は、わかった、とメールをうち、携帯電話をたたんだ。
「涼?」
「え?」
大丈夫かと尋ねられ、涼は慌てて頷いた。
「焦げてないか?」
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
篠吹の部屋のキッチンで夕食の支度をしていた涼は、篠吹の言葉によってようやく我に返った。フライパンの中で舌平目が焦げかかっている。
篠吹は珍しいねと苦笑して、フライ返しを涼の手から取り上げた。
「代わろう。試験の後だから疲れてるんじゃないか?」
「うん……ごめんなさい」
「いいよ。お皿出してくれる?」
手渡された皿に魚を盛り付け、篠吹はバジルのバターソースを手早く仕上げた。
レモンを切って、篠吹は白ワインを取り出した。
「氷入れる?」
「うん」
見慣れた重厚なワイングラスにキューブアイスを一つ落として篠吹はテーブルのセッティングを終えた。
「どうした?何だか怖い顔してる」
「俺が?」
どこかおかしそうに、そして少しだけ心配そうに、篠吹が言った。
「眉間にしわが寄ってた」
「何でもない。ちょっと……久しぶりに、家、帰ろうかと思って」
「実家に?」
家のことを頑なに話したがらない涼から、そんな計画を聞かされるのは篠吹にとって驚きだったらしい。
「何かあったの?」
表情を改めてじっと見つめる眼差しに、涼は目を伏せてしまうのを抑えられなかった。
「何が、ってことじゃないんだけど……もう、いいかなと思って。今、幸せだし……だから、何でもできそうな気がして」
「そうか」
安堵したように呟いて篠吹は微かに笑ったようだった。
言葉にすると、つかめなかった感情が形を成していく。きっと、そうなんだと涼は自身の言葉に確信を持った。
本当は、まだ不安だった。
愛奈にも、母にも久しぶりに会いたいという気持ちはある。けれど、あの家に、あまりに鮮烈な記憶の残るあの家に帰ることがどうしても怖かった。
何年経っても……呪縛を逃れていない。是俊に出会って、篠吹に出会って、それもまだ怖いと思う。自分一人だけが抱え込んでいるから、なおのことそう思うのかもしれない。ともに、立ち向かう人のない恐怖。そんなものが今も、心の中で蹲っている。
大丈夫と、呪文のように心中に繰り返し涼は顔を上げて篠吹の微笑を求める。
「いつ行くの?」
篠吹はワインをグラスに継ぎ足しながらそう聞いた。
「今度の土曜」
「泊まりで?」
涼は首を横に振った。
「そうか。気を付けて行っておいで」
何の気なく、篠吹は言ったのだと思う。
「うん……」
どうしてだろう。涼の胸が騒いだ。
懐かしい家の前に立ち、涼は躊躇いがちにチャイムを押した。が、待っても返事がない。
再び呼び鈴を鳴らしたが、やはり応答はなかった。
いぶかしみながら門扉を押すと、鍵はかかっていなかった。もしかすると、近所まで買い物にでも行ったのかもしれないと玄関のドアに手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
「……ただいま」
誰の気配もしない玄関に、涼の声が空しく響く。
やはり母も妹もいないのだと思い至り、涼は仕方なく家にあがる事にした。久しぶりとは言え、ここは涼の家でもある。他人の家ではないのだから、何も憚ることはない。
そうだ。憚られるのではない。ただ……少しだけ気が重い。
ここには……焼き付けられたような記憶が多すぎる。
そろえて置かれた来客用のスリッパをはいて、涼は靴をそろえた。
玄関のすぐ右には、階段がある。昔、自分が住んでいた部屋は今どうなっているのだろうと、木製の手摺に手をかけた。
行ってみようかという好奇心と、できれば避けたいという思いが胸の中でせめぎあう。
しばらく階上を見上げ、涼はゆっくりと階段を上り始めた。今は、誰もいない。その事実が、涼の足をほんのわずか軽くしていた。一人なら……それならば、怖いことはない。言い聞かせるように繰り返しながら、涼はかつての自室の前に立った。
ドアを開けると、懐かしい見慣れた景色が広がっていた。
この家を出て行ったあの日からまるで時間が止まっているかのようだった。水色のカーテンも、窓際の勉強机も洗濯したてのように真っ白で清潔なシーツをかけられたベッドも、何もかも。
よろめくように、涼は室内を進んだ。
風が吹き込んだ。
窓が、開いている……?
「お帰り」
「っ!」
突然背後からかけられた声に、涼は振り向いた。
「何年ぶりだろうな……涼」
「有麻」
後ずさりした背が、机に触れた。
どうして、とは問わず、涼は全てを理解した。
自分をここに呼び出したのは、愛奈ではなく、目前の兄であると。
有麻は微笑んで、後ろ手にドアを閉めた。
「何を怖がってる?」
優しいような笑みで、有麻がゆっくりと涼を追い詰める。狩りを楽しむかのように、涼の動きを目で追い、徐々に距離を縮める。
「お前は僕を好きだと言った」
「あれは」
たまらず声を上げた涼の唇を、有麻の長い指が覆う。
「涼」
逆らうことを許さない有麻の声。自分を見るように促され、あごを持ち上げられる。
息をつく間もなく唇を奪われ、涼は有麻の腕の中で氷ついた。
抵抗はできない。捕われる前に逃れなければもうどうしようもない。
幼い頃に染み付いた恐怖と絶対的な力の残像は何年経っても去らず涼を戒め続けている。
有麻がふと顔を上げ、涼の首筋に指を這わせた。
「僕に会うのに、他の男に抱かれてから来たのか?」
冷たい手に心臓を鷲掴みにされたような衝撃を涼は覚えた。
お前は変わらない、と侮蔑を含んだ呪いの言葉を囁いて、有麻は涼をベッドに突き飛ばした。
「やだ」
怯えた眼差しで首を左右にふる涼に、有麻は静かな視線を注いだ。
「お前は悪い子だ」
片手で眼鏡を外し、有麻はヘッドボードに手を伸ばす。
抱かれる時にしか見ることのなかった有麻の裸眼。死刑台を前にした囚人にも似ている。
涼には、なすべきことが、あるいはなせることが何一つ残されていない。
「背が伸びたね……」
慈しむように涼の体の線を掌で撫でながら、有麻が呟く。
「肌も……昔のままだ……」
素肌に触れ、有麻は優しいキスを何度となく涼に注いだ。
「今まで、何人の男に抱かれた?」
「んっ!」
ジーンズのファスナーを下ろし、有麻の手が涼自身に触れた。怯えているのか、萎縮した涼自身を慣れた手つきで愛撫する。
「僕が、どれだけお前を大事にしていたか……わかるか?」
暗い怒りを滲ませる低い有麻の声。
鋭い犬歯を引っ掛けるように、有麻が涼の耳を噛んだ。
「涼」
顔を背けた涼のあごを掴み、有麻は弟の名を呼ぶ。
「男に犯されるのがそんなに好きか?」
眼差しだけで有麻は人を射殺せる……涼は間近に仰いだ冷たい視線に、かつて感じていた生命を脅かされる恐怖を取り戻した。
「僕が愛した体だ。お前にはマスタベーションもさせなかった……」
なのに……
「どうしてだ?」
声も出せないのか、涼は無言で首を左右に振った。震えのように繰り返される意味のない拒絶の仕草に有麻はただ微笑んだ。
「体は素直だな」
有麻の隙を見て、涼は家を抜けた。もっとも、有麻にそうさせられたということもわかっていた。その気になれば、有麻は自分を逃がさずにいられる。
有麻が逃がしたのだ。
まるで、生かすも殺すも有麻の意のままだった昔のように……涼は有麻の前であまりに無力だった。
無言の眼差しを今も背後に感じるのは、兄の呪縛があまりにも強大だからだろうか。どれだけ逃げようと有麻は自分を見つめている。彼の手の届かない場所にいると信じていることさえ空想だったかもしれない。事実、有麻は知っていた。
篠吹に会うのが怖かった。有麻につけられた痕跡を見つけられることが。
そしてそこから秘密の糸口に気付かれてしまうことが。
大丈夫、素肌を見られさえしなければ絶対にわかないはずだと、涼は自らを落ち着かせようとした。深い関係である相手にしかわからない狡猾なメッセージを有麻は涼の肌に刻んだ。読み取れるのは同じ立場だからだと遠くで笑う有麻の冷酷な囁き。そしてそれを篠吹から隠し通す為には、不自然に彼を拒んで新たな疑念を抱かせるしかない。
篠吹は、篠吹なら、こんな自分でも受け入れてくれるのではないかとどこかで微かな望みを繋ぐ自分がいる。しかし、全てをさらけだして篠吹を失う可能性が万に一つもあるならば、明るい未来の存在など、そんな夢想などいともたやすく忘れてみせる。
しばらくは、篠吹と会わない方がいいかも知れないと重い体を引きずる家路に思う。
怖いのは、と涼は思い至った。
有麻に奪われることではなく、篠吹を失うこと。
今も、覚えている。
暗い雨の夜、篠吹に抱かれながら如が告げた言葉。
ずっと好きだった。
貴方だけが欲しかった。
貴方が初めて。
如は確かにそう言った。
そこまで一途に自分一人を思い続ける相手に心が揺れないはずがない。
自分には持ちえない、如の気持ちは崇高な気さえする。例えそれで誰かを裏切っているのだとしても、同じ裏切りならばいっそ……たった一人に全てを捧げる方がよほどいい。
篠吹はほんの一瞬でも如を、愛しいとは思わなかったのだろうか。
一時でも、如を愛しはしなかっただろうか。
如と、自分を比べはしなかっただろうか……。
ずっと、たった一人を真摯に愛し続けること……自分には、もうできそうもない。
母の再婚によってできた血の繋がりのない兄は、それでも……出会った頃は自分にとって全てと言えるような存在だった。別れた実父の面影を、幼い頃は義父にではなく有麻に見ていたのは間違いない。義父は確かによくしてはくれたけれど、何より忙しい人だった。母も、有麻を頼りにしていたし、自分もそうだった。年齢も十近く違うから、なおさらその感は強かった。
有麻が好きだった。恋愛感情とも兄弟愛とも理解されることのない幼い日の羨望と、純粋な思慕。抱きしめられ、いい子だと誉められ、有麻に慈しまれることが母親の愛以上に欲しいものだった。
いつの日にか破綻を向かえることなど想像もできなかった。
「涼は僕が好き?」
そう尋ねられるたび、何故か誇らしさまで感じていた。
好き。大好き。お兄ちゃんが一番好き。
決まってそう答える時、有麻は一体どんな表情で微笑んだだろう。
「秘密だよ……」
まだ中学に上がる前だった。密やかな有麻の囁きが、全ての意味を変えた。
背や髪を撫でていた手の、頬や額に触れるだけの唇の、優しいだけの体温の、その遥かな温もり。同じものはもう二度と与えられることはないと、一体どうやって理解したのか自分でもわからない。
色を変えた家族写真の、深い深い影。
中学三年の冬、大学の春休みで帰宅していた有麻に抱かれているところを愛奈に目撃された。驚いて有麻の体を押し返した自分に対し、有麻はひどく落ち着いていた。ベッドの上でドアの方を、愛奈を振り向き、有麻は軽くあごを上げた。
行け、という無言の命令が涼の耳に届いた。
狼狽する自分に、有麻は大丈夫だと言った。
「愛奈は誰にも言わない」
それまでは、有麻自身が怖かった。絶対的な力と、抗いがたい快楽が。しかし、秘密が露見した途端、その醜悪で罪深い行為が、それを犯す自分自身が恐ろしくなった。
大切なものを自ら踏み躙ってしまったこと、汚したこと……しかもそれだけではすまなかった。有麻も、是俊も、篠吹さえ知らないはずの秘密。せめて黙っていることくらいは許して欲しいと、涼は誰にともなく祈り続けている。
それから無力な自分を憎み、何もかもどうでもよくなり始めた頃、是俊と出会った。あの頃、自分が是俊に対して抱いていたのは間違いなくかつての有麻に対する追慕だった。昔、慕っていた頃の兄の面影を是俊に求めていた。是俊は、優しかった。何も聞かずただ受け入れてくれた。感謝してもいたし、もしかしたら全てやり直せるかもしれないと、そう思った。しかし、また同じようなやり方で自分たちは崩れてしまった。是俊を、兄のように慕っていたからこそ本来はあってはならないことだったのに。せめてもの救いは、体の関係を経たことで是俊とはより親密になれたということだろうか。家族のようだと感じていたのは、自分ひとりではないはずだった。
やがて、篠吹と知り合った。知り合って、恋に落ちるまでは本当にわずかだった。家族とか、兄弟とかそういう感情なく、篠吹にはただ惹かれた。彼は恋をする相手としては十分すぎるほど魅力的な男だったから。
篠吹との生活は、有麻との凄惨な過去を遠ざけてくれた。例え今日までそれが幻想だと気付いていなかったとしても、確かに幸せだった。過去を置き去りにして、未来だけを思う生活は快かった。全て、忘れて……。
全て、その言葉に涼は何かしら引っ掛かりを覚えた。
そうだ、やめようと思うのにやめられない癖がある。有麻が、有麻といた時間がつけた癖。幼い頃から一緒に眠るたび、涼は有麻と手を繋いでいた。それが、今も無意識に現われる。
幸福だった頃の記憶。幼い頃の安息の残り香が、今も体内には漂っているのだろうか。そうしている限り永遠に、有麻からは逃れられないような気がする。
これも、裏切りなのだろうかと涼は不意に思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます