第4話 ジルベール

 「ジルベールから手紙が来てるぞ」

 午前様を待つ妻よろしく、是俊が如の遅い帰宅を待つ日々が続いている。

 疲れた顔でただいまと言った如にリビングのテーブルをあごで示し、是俊はキッチンへ入った。

 「本当?ありがとう」

  Myosotisと店名の入った見慣れた封筒からは、真っ白なカードが出てきた。

 何だって、と問う是俊に微笑んで

 「開店一ヶ月記念だって」

 と、如は微笑んだ。

 如の念願かなって、「chef-dœuvre」がオープンしてから一月が経過した。傑作という意味の名を持つその店はバレンタイン当日、ささやかながらオープニングのセレモニーを催して以来、話題性とともになかなかの盛況をはくしている。

 初日にはパリから、ジルベールや如のかつての同僚たちも駆けつけてくれた。裏通りとは言え、都内でもかなり立地のよい場所に格安で店舗を構えることができたのは後輩で弁護士でもある千堂有麻の働きも大きい。相変わらず仕事も持ちながらも、是俊は協力を惜しまず常に支えてくれた。人に恵まれたなと、自身の幸運にも、奇特な友人たちにも、あるいは運命の女神にも如は感謝しているのだった。

 「元気なのか?」

 キッチンで如の夜食を用意しながら是俊が声をかける。

 「うん。よろしく、って書いてあるよ」

 「そうか」

 店の方はまだ一ヶ月とは言え順調のようだった。来月には、雑誌のカフェ特集に小さくでも取り上げられるらしい。ただでさえ、作品の発表の場を求めるアーティストの卵たちはたくさんいる。シェフドゥーブルはまさにそういう若者の為に作られたような店だったし、パリの人気店を手がけたジルベールのセンス、それを踏襲する如の手腕も伊達ではなかった。さらに、オーナーである如の容姿もまた話題の一つになっているということを、是俊は千堂という如の後輩で弁護士の男から聞かされていた。

 「あんまり無理するなよ」

 夜食には消化によいものをと、是俊は日々心を砕いている。今夜も中華粥を料理の本を眺めながら作った。

 「ありがとう。でも大丈夫だよ。今すごく楽しいし、毎日すごく充実してるよ。……ごめんね。迷惑かけたり心配かけたりしちゃって。家のことも全部やってもらってるし、夜食まで作らせちゃって……」

 「いいんだよ。俺がやりたくてやってるんだ」

 ありがとう、と伏し目がちに微笑んで如は目の前に置かれたトレーからスプーンを取り上げた。

 「美味しそう。いただきます」

 「おう」

 「うん、すごく美味しい」

 嬉しそうに如が笑うのを見て、是俊もつられて頬を緩ませる。

 こんなことを言えば如は怒るだろうが、是俊が心配しているのはただ如の体のことだけだった。いくら長年の夢だからといって、体を壊してしまったら何にもならない。それどころか、ただ経営が悪化して店が万が一にもだめになったとしても、それは是俊にとって大して重要なこととは思われなかった。勿論、如の心痛を考えればいたたまれないが、負債だとかもっと厄介な問題ならいくらでも対処してやれる気がしていたのだ。店より、如が毎日健康で幸せであってくれることの方がどれだけ大切か……。知らないだろうなと、是俊は心の中で小さく笑う。

遅い食事を手早く済ませて食器を片付けようとする如を是俊が止めた。

 「座ってろよ」

 「そんな、いいって」

 いいから、と如を黙らせて是俊は再びキッチンへ向かった。

 「甘やかし過ぎだよ」

 冷蔵庫からカットしたメロンを持ってくる是俊に苦笑しながらも、如はどこか幸せそうに見えた。

 「ありがとう」

 如と向き合うように座って、是俊はテーブルの上に置かれていたエアメールを手に取った。ジルベールという男を、是俊は彼なりに認めていた。初めて会った日、つまりオープンの当日、如は臆することなく、是俊をジルベールに紹介した。恋人だと、そう言ったのだと思う。ジルベールは、わざと目を細めて是俊を見たが不意に笑い出すと是俊を突然抱きしめた。

 驚く是俊に何かを告げると、如が笑った。

 「何だよ?」

 「まずは合格だって」

 凄まじい力で是俊をぎゅうぎゅうと抱きしめた後、ジルベールは如に何かを尋ねた。如は一瞬だけ顔を顰めて応じたが、すぐに首を左右に振って力なく微笑んだ。ジルベールは、頷くと短く何かを告げ、それから是俊に向き直った。

 「君に会ってみたかったんだ。如の恋人に」

 滑らかな英語は是俊にも聞き取ることができた。是俊はサンキューと応じ、大柄なジルベールの屈託のない笑顔に戸惑った。

 「如は素敵だ。君さえいなければ如は私のものだったと信じてるよ」

 「ジルベール」

 諌める如にウィンクを返して、ジルベールはじっと是俊の目を覗き込んだ。

 「如が幸せだというなら私には出る幕はない。でも、もしも君が如を傷つけたり泣かせるようなことをしたら……私はいつでも日本に来て、如を攫っていくよ。忘れないでくれ」

 パワフルな恋敵に握手を求められ、是俊は黙って手を差し出した。

 「信じてるよ」

 握っていた手を引き寄せられ、是俊はジルベールに頬にキスをされたのだと遅れて理解した。如や涼にならまだしも、こんな大男にキスされるのは不本意だったが腹立たしい気持ちはなく、むしろ不思議と温かな感情が是俊の胸には溢れた。

 「誓うよ」

 そう言って頷いた是俊に、ジルベールは満足げに微笑んだ。

 「どうしたの?」

 食後のフルーツを口に運びながら如が是俊を見つめる。

 「いや……また、そのうち来るんだろ?」

 「と、思うよ」

 是俊がジルベールをそれなりに気に入っていることを如も感じ取っていた。どこか嬉しそうに頷いたのもきっとそのせいだったのだろう。

 是俊はカードを封筒に戻すと、そっとテーブルに置いた。

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