第3話 破滅的な恋

 「お待たせ。ごめんね、遅れちゃって」

 待ち合わせの時間を五分ほど経過して現われた如に、男はいえ、と首を振った。

 「どこか、参考になりそうな店はありましたか?」

 「うーん……参考って言うか、今はいろんな相場とか調べたりしてるんだ。行ってるのは、カフェとギャラリー、半々くらいだよ」

 そうですか、と頷いて

 「実は、僕がよく行く店で、もしかしたら冴島さんにも気に入ってもらえるかも知れないと思ってるバーがあるんですが、よかったら行ってみませんか?」

 男は如を誘う。

 「有麻ありま君のおすすめなら行く価値あるよね。ぜひ連れてって欲しいな」

 「そうですか。ここからならタクシーですぐですから」

 どうぞと、女性をエスコートするように有麻は如の腰に手をかける。変わっていないな、と思わず笑って如はタクシーに乗り込んだ。



 「いいね」

 「気に入ってもらえましたか?」

 「うん。すごくいいよ。僕が考えてるのとはちょっと違うけど、でもすごく……」

 有麻に伴われ如がやってきたのは、シンプルでモダンな落ち着いたバーだった。木製の扉が印象的だったが、店内にも多く木材が使われており、素材に贅を尽くしたという感じが伝わってくる。店舗としてもある程度の広さがあり、天井の高さがさらに空間の贅沢さを演出していた。マスターは小柄でいかにも質実剛健といった雰囲気の持ち主だったが、有麻の姿を認めると会釈してカウンターに席を用意してくれた。

 店内の壁には多くの写真が飾られている。見渡す限り、全てモノクロームのものばかりだったが、有麻によれば時折作品が入れ替わり、カラーの時もあるのだという。

 天然の木材の形をそのまま活かしたカウンターの一隅に二人は落ち着き、乾杯を済ませた。

 「すごくいいよ」

 如は飽きることなく店内を見回し、グラスを手に再びそう言った。

 「写真は全部同じ人?」

 「ええ。マスターの亡くなったご友人だそうです」

 「そう……お亡くなりになってるんだ」

 残念だな、と呟いて如はまた首を巡らした。

 「気に入ったんですか?」

 一枚の写真を見つめたまま振り返らない背に有麻が問いかける。

 如がじっと見つめる先には、手と舞い落ちてきた花弁を写した一枚があった。“I know”と題された黒と白の世界。

 「この写真を気に入ってる人は多いみたいですよ」

 「そう、なの?」

 ようやく振り返った如に、有麻はええと頷いた。

 「何故でしょうね。掴めそうで掴めなくて……でも、本当は何を掴みたいのか、掴もうとしているのか、みんなわからないのかも知れませんね……」

 「うん……」

 如は背後の写真をちらっと見て、それから有麻に微笑んだ。

 あの写真はどうなったのだろうと、如は不意に思った。

 パリで過ごした、篠吹との時間。忘れようとしても忘れられない日々の、一コマ。写真を撮らせて欲しいと言った篠吹。現像されたものを見ることはなかったし、それに……これからも永遠にないだろう。

 あの写真は、あるいはこんな風に……魅力的なものに仕上がっていたのだろうか。

 篠吹が手だけを撮りたいと言った時、残念というわけではないがどことなく寂しいような気がしていた。それでも、顔でもない人間の体の一部が、これほどの存在感と表情を持っていることが、如には新鮮な驚きだった。

 “I know”と、まるで全てを見透かしているようなタイトルを、撮影者は一体どんな思いで付けたのだろう……。

 ふと、視線に気がついて横を見ると、有麻がじっと見つめていた。

 「どうしたの?」

 「いえ……冴島さん、恋人は?」

 「え?」

 「ただの興味本位です」

 眼鏡の下の目を細めるようにして微笑し、有麻は言った。学生時代、サークルの誰かが有麻を食えない奴だと言っていたことを如は思い出した。話しているとどうしても彼のペースに乗せられてしまうと言っていたが、今頃になってようやくその意味がわかった。

 「いるよ。一緒に暮らしてる」

 これからも有麻にはいろいろ世話になるだろうと、如は隠さずに話した。相手が同性であることも、元は会社の同僚であったことも。

 有麻は驚くことなく、感情の読み取れない笑顔でそうですか、と頷いた。

 「有麻君は?」

 「僕はいませんよ。何年間も、片思いは続けてますけどね」

 穏やかな口調の中で、如が感じ取ったのは違和感と言いようのない不安だった。心から笑うことのない有麻の社交的な微笑。そこに隠れる暗く、危うい感情を如は知っているような気がしていた。しかし、それこそ有麻に乗せられてはいけないとわざと明るい声で聞き返した。

 「学生時代から?モテてたじゃない?」

 「そうでもないですよ」

 グラスを傾け氷を鳴らすと、有麻はふと如の瞳をじっと覗き込んだ。

 「誰に好かれようと、自分が欲しいと思う相手に愛されてないなら意味がないでしょう?」

 貴方ならわかるでしょう、と言うように聞こえて如はわずかに身を硬くした。

 まさか、有麻が知るはずがない……そう思ったにもかかわらず、何故か動揺を隠せなかった。

 有麻がふっと微笑んだ。

 「冴島さんは、そういう恋をしたことがありますか?」

 細められた眼差しの、穏やかな鋭さに如ははっとした。

 「そういう、って……?」

 有麻は何事もないかのように、にこりと微笑んで

 「破滅的な、と言えばいいでしょうか。相手を滅ぼしかねないほど、もっと言えば、そうなればいいと願うくらいの、運命みたいな恋です」

 「……どうかな」

 有麻から目をそらし、如は少しだけ俯いた。

 「そういう恋は……長続きしないような気がするよ……」

 「言い訳ですか?」

 「そんなこと」

 「したことがあるんですね」

 有麻の眼差しの中で如は押し黙った。どうしてそんなことがわかるのだろうと思う反面、それでこそ心強い相談役だとも思う。有麻は頭がいい上に、異常に勘が鋭い。刑事訴訟の弁護士など、天職に違いないと如は確信した。

 「誰かを不幸にしても、それでも止められない気持ちはあります」

 「有麻君の」

 言ってしまっても、いいのだろうか。如が躊躇って言葉を切ると

 「何です?」

 有麻が先を促す。

 「……そういう片思いをしてるってこと?」

 「ええ」

 有麻は落ち着いた様子で頷いた。それを恥じている様子も、かといって苦悩している様子もない。

 「愛しているんです」

 如の目をじっと見つめて、まるでその思い人とは自分だと思い込ませるような優しい囁きで有麻は告げた。

 「仕方ないでしょう。他の誰でもない、その人が好きなんだから」

 「仕方、ない……?」

 「理性も、良心も、何の役にも立たないくらい、誰かを愛してるんだとしたら……世の中のモラルなんてあってなきが如しですよ」

 もっとも、と有麻。

 「僕はそんなもの、はなから必要とはしていませんけどね」

 有麻の表情は、ぞっとするくらい冷酷で、情熱的で、黒い炎を宿して燃える一対の眼は深い河のようだった。

 「弁護士さんなのに……」

 溺れかけた者が必死に息を継ぐように、如は無理に笑った。

 ふっと有麻が笑い、

 「どうせ悪徳弁護士ですから」

 杯を空けた。

 「冴島さんも気をつけないと足元すくわれますよ」

 「やだな」

 冗談とも本気ともつかない有麻のアルカイックな微笑み。如は苦笑し、まんざら冗談ではないのかも知れないと本気で案じた。

 「覚えてますか?」

 「え?」

唐突に、有麻が切り出したのは

「僕が冴島さんにキスしたこと」

如自身もすっかり忘れていた過去の一件だった。

「合宿で、長野に行った時」

「ああ……。あったかもね。忘れてたよ……。あの時は、みんなずいぶん飲んでたし、浮かれてたから」

よく覚えてたね、と如は笑いながら眼を伏せた。

「冗談だと、思ってましたか?」

店内の喧騒の隙間から、如の耳に忍び込むような有麻の囁き。

「何言って……」

「好きだったんです。冴島さんが」

「……」

言葉をなくした如に、有麻はどことなく意地の悪い笑みを向け

「本当ですよ」

ただ、と目を細める。

「ただ?」

胸騒ぎ。こんな男だっただろうかと、如はよく知るはずの後輩の顔を見つめた。

「片思いの相手とは別です。冴島さんを……好きになれたらいいと、そう思ってたんです」

「僕を?」

「ええ。憧れてましたよ、ずっと……。頭がよくて、優しくて、誰からも好かれてて、なのに他人を寄せ付けないところがあって。みんな冴島さんに夢中だった」

「そんなこと」

「ありますよ。冴島さん自身、気付いてると僕は思ってましたよ」

「……どうして、そんなことを?」

怒りとも、苛立ちとも呼べない、ただ不安を掻き立てるような有麻の言葉。しかし有麻は、如の気持ちになど気付かないフリで

「ただ、告白したかっただけです。冴島さんが、幸せそうに見えたから」

「……あんまり困らせないでよ。完璧な幸せなんて、きっと誰も持ってない」

そうですね、と軽く頷いて有麻は黙ってグラスを傾けた。

好きだった、という単純な告白を有麻はしたのではなかった。有麻は、好きになれればよかった、とそう言ったのだ。その意味を問うべきか否か、如は逡巡した。が、有麻が話題を打ち切ったからには、それ以上触れてはいけないのだろうと口を噤んだ。

何を思うのか、頼もしくもある辣腕弁護士の横顔から如は目をそらした。

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