第2話 消えない影
また、寒い季節になったなと篠吹は師走の町の中、暗い空を見上げた。
不思議そうにこちらを見上げた涼に何でもないと微笑んで、白く霧散する吐息をもらす。じっとしていると凍えてしまいそうな寒さだった。今夜は初雪になるかも知れない。星も月もない冬の夜空。あの夜も、と思い出し、篠吹ははっとする。
終わることなく巡り続ける夜。夜だけが数珠繋ぎになって暗いきらめきを放つ輪になる。日ごとに増える珠はみな、同じ色になって初めに戻る。
「篠吹さん?」
「すまない」
突然腕を掴まれた涼が驚いて顔を上げた。以前よりもふっくらとした頬に篠吹は手をかけた。冷たい外気の温度で、涼の頬は凍っていた。
人気がないとはいえ、公道だったと篠吹はようやく思い出した。戸惑う涼に微笑んで、すまないと繰り返す。
「どうしたの?」
わずかに眉を顰め、涼がきいた。
「すまない。何だか……涼が、消えていきそうに思えた」
「消えないよ……」
誤魔化すように篠吹は笑ったが、涼は真面目な表情で篠吹を見返した。じっとした眼差しが痛くて、篠吹は早く帰ろうと促した。涼は黙って頷いたけれど、物を思うような様子だった。
「休み中に課題はないの?」
ブランデー入りの紅茶を運んできた篠吹が、メークボックスの片付けをしている涼に声をかけた。
「うん……休み明けにまた試験があるから練習だけは毎日するつもりだけど」
いつ見ても面白いなと、涼の手元を眺めながら篠吹はソファに腰を下ろす。用途がわからない小さな缶やプラスチックのケースが細々と納められた黒い箱からは、篠吹の知っている女性の香りがする。女性というものの、柔らかく作りこまれた香りだ。
「楽しい?」
「うん。されるより、する方がね」
ぱたんと、箱を閉じて涼は微笑んだ。
専門学校では何人か友達もできたらしい。元モデルだけあって、美容に興味のある生徒には知名度もあったのだろう。自分にはもう立ち入ることのできない学生の世界に、篠吹はささやかながら嫉妬と羨望の眼差しを向けていた。涼は以前より生き生きして見えたし、何より年相応な雰囲気を身につけてきた。騒々しく、活気溢れる学校の空気を篠吹は時折涼から感じ取る。それは、涼にとっていいことだとそう思っている。
「いただきます」
涼はティーカップを取り、甘い香りを目を閉じて吸い込んだ。
いい臭い、と呟いてゆっくりと口をつける。いつの間にか定番化した冬だけの飲み物を涼はいたく気に入っていた。
穏やかな日々だなと、つくづく思う。涼と出会ってもう一年以上が過ぎた。涼に対する思いは、初めてその姿を見かけた日から全く変わっていない。これほど、誰かを好きになれるものかというほど。
「どうしたの?」
不意に頭を撫でられて、涼は驚いたようだった。カップを手にしたまま、きょとんとした表情で篠吹を見返す。
愛しい、と思う。
「好きだよ」
「何?急に……」
突然の告白に涼は面食らって、それから少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「ずっと、傍にいたいって初めて思ったんだ。今まで、誰にもそんな風に思ったことがなかった」
「篠吹さん?」
微かな不安。涼の瞳に揺れる、消えそうなほどわずかな戸惑い。何かを恐れている、闇に紛れた何かを恐れる子供のような眼差し。
目に見えないものを見極めようとしているかのように、涼は目を細めた。
そうだ、あれからずっと……涼は怯えている。ちょうど一年前、篠吹が今年の部屋に涼を迎えに行った日から、時々、同じ表情を見せるようになった。
疑心暗鬼。それは、きっとそう呼ばれている。暗くて、何より哀しい感情だ。
篠吹の中から消えていかない、涼への後ろめたさ。それは、涼に対する愛情の証であるとともに、今はどこにいるのかすらわからない誰かの気配でもあった。
涼の体温を腕に抱いたまま、異国での夢を見ることが篠吹にはあった。
静かなセーヌの畔や、暗いバーの片隅、豪奢なレストランの一席や、薔薇を散らした寝台。それから……記憶の中で鮮やかさを増した痛いほど白いコートの背。
「変なの」
危険から飛び去るように、身を翻すような速さで涼は笑った。それ以上、触れてはいけないと本能が警告したのだろうか。
ブランデーが香る唇が、ふと口の端に触れた。
涼の頬に手をかけて、今度は篠吹が深いキスを重ねる。
封じてしまおう……。哀しい言葉も、暗い疑惑も、全て言葉とともに遠くへと追いやればいい。躊躇うことなどないはずだった。ぬくぬくとした柔らかで幸福な日々に、魂まですっかり沈めてしまえばいい。
「ねぇ……」
「ん?」
ゆっくりと顔を離しながら涼が言った。ワインが飲みたい、と。
「飲もうか」
そう言って立ち上がると、篠吹はキッチンへ向かう。棚から取り出したバカラは重厚で、相変わらずの輝きを放っている。
レリーフの、ショットグラスは……今でも彼の元にあるのだろうかと、篠吹は不意に思った。
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