その思いの果て -バタフライ・モノクローム3-

西條寺 サイ

第1話 帰国

 「お帰り」

 「ただいま」

 30年間生きてきて、その言葉がこれほど胸に沁みたのは初めてだった。

 空港まで迎えに来てくれた是俊に、如は穏やかな笑みを向けた。

 「髪、どうしたんだ?」

 いきなり抱き締めるわけにもいかず、是俊は如のスーツケースを引き寄せながらそう尋ねた。

 「おかしい?」

 「いや……惚れ直した」

 やだな、と顔を伏せるように笑った如の横顔を柔らかく波打った髪が隠した。光に透けそうな淡い茶色の髪は、肩より長くなっていた。

 遠目には、背の高い女性に見えた。モデルか、美人だなと思い、是俊はそれが自分の待ちわびていた恋人であることにようやく気がついた。

 ああいう顔、好きなんだよなと自分を見つけて手を振る如に思わず目尻が下がる。相変わらず綺麗だなと漠然と感じたが、愛しさは募りすぎてすでに麻痺状態だった。

 「どうだった……って、いきなり聞くのも変だな」

 スーツケースをトランクに積むと、是俊は運転席に乗り込みながら如の顔を見た。

 「そうだね……一言では言えないけど、すごく楽しかった。みんなに良くしてもらったし」

 よかったな、と微笑んで是俊は車を出した。



 「いい部屋だね」

 マンションにしては広い玄関に立ち、いつかと同じ言葉を如は繰り返した。

 如、と呼んだ是俊の手が如の頬にかかった。

 優しい、懐かしいキス。如は是俊の背に腕を回した。

 「お帰り」

 「うん」

 頷いて、如は是俊の首筋に顔を埋めた。

 「会いたかった」

 「うん」

 ぎゅっと力のこもった腕に、どうしようもないほど愛しさが募る。是俊はまた、お帰りと囁いた。

 如が初めて足を踏み入れたリビングには、見慣れない家具が並んでいた。以前是俊が住んでいた部屋にあったものとは、全てが違う。部屋の隅には如が日本に置いていった竹篭のルームランプがあった。室内は、そのランプに合わせてコーディネイトされているようだった。

 「すごい」

 振り向いた如に、是俊は照れ笑いを浮かべた。

 「お前、好きそうだろ?」

 「うん……すごく、いいよ。ありがとう」

 「俺も気にってる」

 ふふ、と如は笑い、是俊の手を借りて荷解きを始めた。

 これから送られてくる荷物もあるから、と如は自分の為に用意された部屋を覗き込んだが、整理ダンスも、机も、パソコンもあるが、ベッドだけがないことに気がついた。是俊にきけば、以前使っていたものは空いているもう一部屋に押し込んであるという。寝られないことはないが、物置のような状態だからベッドはシェアしようと言うのだった。

 「ほんとに?」

 是俊の部屋のクイーンサイズのベッドを見て如は驚いたようだった。しかし、しょうがないなというように苦笑し、それ以上何も言わなかった。

 是俊が作っておいたビーフシチューで遅い昼食を済ませ、二人は荷物整理を再開した。如が持ち帰ったのは、スーツケースが一つに大型の旅行鞄が二つだった。それは如がキッチンへ立った時のことだった。

 「バカラか?」

 「え?」

 カウンター越しに是俊の背を見つめ、如は動きを止めた。

 「一つしかないな……。買ったのか?」

 赤い箱を手に振り向いた是俊。

 「ちが……もらったんだ。お別れに」

 へえ、と呟いて是俊はまた如に背を向けた。

 さっと血の気が引くのを如は感じた。手を拭いて是俊の方へ戻る時、一瞬眩暈を覚えた。どうして、是俊が見つけたのだろうと皮肉な偶然を呪った。

 偶然?偶然なのだろうか。篠吹と、パリで再会したことも?運命ではなくて、全て偶然だったのか。

 「何だこれ?」

 「何?」

 はっとして如が是俊を見ると、

 「悪い……何か壊れた」

 是俊が指先を広げると、茶色く変色した小さな破片がぱらぱらと床にこぼれた。

 それは、篠吹が戯れに撒いたバラの花弁の一枚だった。

 篠吹のことを忘れようと誓いながら、そんなものまで後生大事に抱え込んでいた自分の弱さを、狡さを、是俊に見透かされたような気がして……如は力なく笑った。

 「何だったんだ、これ?」

 是俊は如の様子に訝しげに目を細めた。

 如は首を振って

 「誰かの悪戯だよ」

 そう呟いた。

 「片付け、明日でもいいかな……。何か疲れちゃって」

 「ああ。そうしろよ。しばらくはフリーターだろ?」

 「うん」

 是俊の言葉に微笑を返し、如はシャワーを浴びてから着替えをした。

 遮光のカーテンを引いた暗い寝室に入ったが、如の気持ちは重かった。数時間前、是俊と空港で再会した時の喜びや懐かしさは薄らいでしまった。篠吹と別れてから、あの美しい町で9ヶ月も過ごした。その間に感動したり、嬉しかったり、悲しかったり、いろいろな経験もした。そして先ほど一年ぶりに恋人とキスをした。

 それなのに……いつまでも塞がらない心の傷が、時折思い出したように痛むのだった。忘れようと決意し、忘れたいと切望し、忘れる努力だってしているけれど……未だにたった一人に囚われ続けている自分を、如は持て余している。

 「隣で、寝てもいいか?」

 遠慮がちにベッドに腰掛けた是俊を見上げ、勿論だと如は微笑んだ。

 ベッドは二人が体を伸ばしてもまだ余裕があるほど広いのだが、二人は寄り添って寝転んだ。

 長時間飛行機に乗っていたのだから如も疲れているだろうと、是俊は自分からは手を出さないようにしていた。抱きしめたら、きっと欲しくなると自分でもわかっている。だから今はこうして、恋人の体温と呼吸だけを感じられる距離を保とうと自身に言い聞かせていた。

 それを知ってか、如はごろりと是俊の方へ体を向けた。

 「どうした?」

 時間をわからなくさせる暗がりの中で、是俊も如を見つめた。

 如は不思議な笑みを浮かべた。

 「セックスしようか」

 是俊をうっとりさせる微笑で如は囁いた。思わず音を立てて息を飲んだ自分を恥ずかしく思いながらも

 「いいのか?」

 是俊はきいた。

 いいよと頷く如を抱き寄せ、是俊は熱烈なキスをした。

 「今日は……途中で止めろって言われてもできないぞ?」

 そう念押しする是俊の腕の中で如は笑った。

 「いいよ」

 「……お前、何で平気なんだよ?」

 「何が?」

 照れているのか何なのか、是俊の表情は、二人がまだ恋人になる前のもののようだった。ちょっとしたことに過剰に反応する、少年のような是俊の、はにかみにも焦燥にも似た落ち着きのない表情。

 如は静かに是俊を待った。

 「一年だぞ?」

 如の目を見ずに是俊は久しぶりに触れる愛しい体温に覆いかぶさる。

 「禁欲生活なんて柄じゃないのにな……バカみたいにお前のことだけ考えてた」

 「是俊くん……」

 ずっと、と耳元に囁きながら是俊は如の体に優しく触れる。

 「お前のこと考えてた……。お前の髪の臭いとか肌の臭いとか、やってる時の声とか表情とか……それでずっと我慢してた」

 熱く乾いた唇からもれる言葉に耳を傾けながら如は黙って目を閉じた。

 「如」

 低くかすれた是俊の声。

 ああ、帰ってきたんだなと如はようやく理解した。自分のいるべき場所に戻ってきたと。

 首筋に胸に、腹に腰に落とされる情熱的なキス。触れた全ての箇所に所有印を刻みながら、是俊の手が如の体を開かせる。

 「ん……」

 「如?」

 心地よさを訴える声とはわずかに異なった苦しげな呼吸。どんなにささやかな変化でも如に関してであれば見逃さない自信が、是俊にはずいぶん前からあった。

 顔を上げると、如は眉を顰めて唇を噛んでいた。

 「どうした?」

 長い髪を梳いてやりながら是俊は如の頬に口付ける。

 「ごめん……」

 是俊の頭を抱き寄せながら如が囁いた。

 「久しぶりだから……ちょっと痛い」

 耳朶を甘く噛みながら如は少しだけ笑ったようだった。

 「いく……」

 どうしようもなく、愛しい……。是俊はきつく如を抱きしめ、長い時間をかけて如の体を慣らした。

 「もう、へいき」

 湿った呼吸を首筋に感じ、是俊は如と体を繋げた。

 ああっと悲鳴を上げる如の唇を柔らかく食んで、是俊は長い髪の手触りを楽しんだ。

 昔から、と是俊は思った。自分は、髪の長い女が好きだった、と。

 「如」

 如の全身にくまなくキスしたいのは……怯えているからだ。誰かが触れた痕跡はないだろうかと、どこかで疑っている。ないと、確かめたかった。自分がこの一年、如を待ちわびていたように、如にもそうであって欲しかった。

 「もう……」

 背中に感じる如の手指の震え。是俊は如の前に触れ、優しく導いた。

 「是俊くん……」

 「どうした?」

 長い髪を乱して、眠そうな眼差しを注ぐ如を是俊が抱き寄せる。

 「ずっと……ずっと、一緒にいようね」

 「如」

 ゆっくりと閉ざされていく瞼の白さは、別れた日と同じ色だった。縋りつくように背中に回されていた如の腕をそっと撫でて、是俊はため息をついた。

 無邪気とは言いがたい。如は外見よりずっと神経質で気難しい人間だ。それを知っていれば、如の甘い言葉の真意を探したくなる。

 勿論、それ以上に如を愛している。

 「せっかく、帰ってきたのにな……」

 どうして不安なのだろう。一年も恋焦がれた恋人が、自分の腕に戻ってきたというのに。そうだ、傍にいられない不安より、傍にいられなくなる不安の方が遥かに勝る。近くにあればあるほど、喪失のイメージは鮮明になりやすい。

 ずっと、一緒にいようね……そう囁いた唇にキスをして、是俊は安らかな寝顔に愛を告白する。

 「お前だけだ……お前が、好きなんだ」

 如と呼んだ声が、自分でも驚くほど切なかった。

 白い肩が冷えないように、是俊は如をシーツで包み腕に抱いた。

 どんな夢を見ているのか、如の寝顔は静かで、傍にありながら是俊を孤独にさせた。

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