【12月刊試し読み】蒼獅子と百年の恋

角川ルビー文庫

第1話



       1



 ――熱い……。どうなってる……?

 一陣の熱風に煽られながら炬仁は意識を取り戻した。

 やけに息苦しい。状況を把握する必要があるのに、なぜか目が開かなかった。十七歳にして六尺近くもある体躯が、頼りなく浮遊していることにも違和感を覚える。

 炬仁が気を失ったのは、ほんの数秒間だった。

 しかしそれはかつてない失態だ。妖魔から瑞芳を守っている最中の気絶など、たとえ一瞬でも絶対にあってはならない。その強い思念によってすぐに意識を取り戻したというのに――炬仁は、どうしてか未知の場所に移っていた。

 なにも見えなくても直感的にわかる。ここは一度も踏み入ったことのない領域だった。

 でも、どのようにして来たのか、なぜ来る必要があったのかは、わからない。

 妖魔の臭気も、そばにいた瑞芳の気配もなくなっている。わずか数秒のうちになにが起きたのだろう。

 ここはどんな場所なのかという疑問もあるが、それは些末なことだった。炬仁にとって重要なことはほかにある。

 ――今すぐ瑞芳の元へ戻らなければ。

 世俗や人間関係に興味のない炬仁が唯一大切にしている、三歳年下の幼馴染。彼を一人にしていたくない。

 瑞芳は、誰もが恐れる妖魔に親しみを持っている。それには真っ当な理由があるから、変わり者と厭われても気にせずに、みずから妖魔に近づく。小さな身体に宿る芯の強さと優しさを知っているのは炬仁だけだ。だから炬仁はいつも瑞芳のそばにいて、彼を守ると決めていた。

 瑞芳の、十四歳にしては大人びた言葉遣いを思い出す。

「今夜の宴を抜け出すなんて……炬仁を祝うための宴でしょうに。主役の姿が見えなくなったら、みんな寂しい思いをするよ。それに、男衆は炬仁を捜しまわることになってしまう」

「そのへんは上手くやる。親父が酔いさえすればこっちのものだ。抜けたらすぐに行く。おまえは家にいろ。新月の夜だからって一人でふらっと妖魔見物なんか行くなよ。今夜も見に行きたいなら、おれが連れて行ってやる。だからちゃんと家で待ってろ」

 炬仁がそう言うと、瑞芳は照れくさそうに笑ってうなずいた。

 そうしてどうにか「今宵は夜明けまで語らう」という約束にこぎつけたのだ。離れているこの数分すら惜しい。瑞芳のところへ戻るための行動を起こす。

 意識を取り戻したときから付き纏う浮遊感が不快だった。見えざるものに操られている気分になる。炬仁は全身に在り丈の力を込めてそれに抗い、まぶたをこじ開けようとした。だが実際はまつげすら揺れず、指先ひとつ動かせなかった。

 まるで身体じゅうが麻痺しているかのようだ。己に胴や手足が付いているのかさえ曖昧になってくる。声を張り上げようとしたがまったく出ない。なにひとつままならないことに苛立ちを覚えた。

 しかしわずかな感覚や聴覚はある。かたく閉じられたまぶたの向こうに闇と紅蓮を感じた。

 遠くから地鳴りが聞こえる。ゴオォ……と轟音を立てて熱風が吹き抜けていく。

 熱さと息苦しさ、自由の利かない身体、闇と紅蓮、絶え間なく響く地鳴り――目視できないこの場所が、現し世ではないように思えてくる。

 酔いがまわり、幻夢でも見ているのだろうか。否、たしかに宴で強い酒を何杯も飲んだが、少しも美味くなくて、酔うのが難しいほどだった。今の異様な状況は夢ではない。ではなぜ瑞芳を置いてまで、このような地へ来ることになったのか――炬仁は経緯を思い起こす。



 今宵は朔の夜だった。

 満月と新月の夜は妖魔の動きが活発になるため外出を禁じる。国はそれを定めとしていた。

 炬仁や瑞芳が住む皇都は、皇帝直属の妖魔討伐隊による警邏が強化される。だがその守護範囲は非常に狭い。討伐隊の力が届かない郊外や山里の住人は自警するしかなかった。

 人々は家じゅうの鎧戸と木戸を閉め、子供らを地下室や床に掘った穴に隠して静かに夜明けを待つ。恐れを知らない歓楽街だけが、月の浮かぶ夜も浮かばぬ夜も、変わらず派手な意匠の灯籠を煌々と輝かせていた。

 決定的な駆逐方法を発見できない人間にとって、人や家畜を主食とする妖魔は害獣であり脅威であり、その存在は災厄以外のなにものでもない――たとえ妖魔の正体が〝元・人間〟であったとしても。

 父親は、そのような危険を押して朔の夜に盛大な宴を催した。望んでもいない、炬仁の妖魔討伐隊入隊の祝宴だった――。

 炬仁が生まれ育った蔡家は、代々優秀な武官を輩出する一門として名を馳せている。祖父や父親は当然のこと、二人の兄も武官として宮廷に仕え、それなりの地位にあった。

 しかし炬仁だけは異なっていた。誰よりも強さを欲したが、それは窮屈な宮仕えやくだらない地位争いに巻き込まれるためではない。

 瑞芳を守り、幼いときに交わした誓いを果たす――そのために強い力を渇望していた。

『妖魔は、もともとは人なんだって。死んだあとも泰山に辿り着けずに、現し世をさまよってるって、本に書いてあった。泰山に行かないと転生も叶わないから、永遠にさまよいつづけることになるって……不気味な姿をしてるけど、悲しい存在なんだね。私は妖魔のことを調べて、彼らを無事に泰山へ送る方法を見つけたいと思ったのだけど……ばかな夢だと思う?』

『ばかな夢なものか。よしっ、おれが手伝う。それで瑞芳が方法を見つけたら、おれがその方法で妖魔ども泰山へ送ってやる』

『ほんとうに? 炬仁が力を貸してくれるの?』

『あたり前だ。妖魔を見に行くときは、おれが連れて行く。でかくて強い妖魔が出てきても、おれがやっつける。なにがあっても守ってやるから、瑞芳は好きなだけ調べたらいい』

『うんっ。……わぁ、すばらしいな、二人で頑張れば必ずできるよね。私が方法を見つけて、炬仁が泰山に送る。きっとだよ。約束だからね』

 瑞芳のために強くなる。その努力は惜しまない。炬仁は幼少のころから、瑞芳にいたずらをする子供たちを拳で追い払ってきた。しかし少年になると、同じ年頃のお坊っちゃまたちでは満足できなくなる。力を持て余す炬仁は屋敷を抜け出して歓楽街まで行き、そこに屯するごろつき相手に喧嘩をした。

 炬仁はこれでも名家の三男坊だから、その行動は奇怪なものとしてひどく目立ってしまう。激怒した父親に「恥を知れ!」と叱責され、家庭教師の坊主には「不浄の地へ足を踏み入れてはなりません」と、外出そのものを禁じられた。

 しかしそんなことは露ほども気にしない。炬仁はたびたび歓楽街や下町へ出かけ、男たちと喧嘩をし、そのあとは一緒に酒を飲むようになった。

 男たちと酒を飲めば必ず妓楼へ誘われるが、それだけは断りつづける。冷やかしを受けても平気だった。娼妓を抱くくらいならその手で武器を持ちたいと思うようになる。そうして刀剣の扱いを覚えると、炬仁は下町へ行くことを早々にやめ、喧嘩の相手を人間から下等妖魔に変えた。

 如魚水得とは、このときの炬仁のことを指すのだろう。人々が恐れをなす妖魔たちを眼前に、炬仁は血を滾らせた。妖魔の性質や弱点は不明のため、力だけが物を言う。妖魔より強ければ斬り斃せる、弱ければ食われる。それがすべてだった。

 炬仁の中に恐れはない。負けて食われる気もまったくしない。炬仁は竹林や沼地を巡り、そこに潜む妖魔たちを次々と斬っていった。

 潔癖で世間知らずの母親は、酒と煙草が混ざった歓楽街の臭いを疎み、日ごと身体を大きくしていく息子を不気味がる。炬仁が全身に妖魔の返り血を付着させて帰ると、ついに金切り声をあげて卒倒した。それきり、母親とは三年ほど言葉を交わしていない。

 武官登用試験を受けもせず、妖魔を討つためにあたりをうろつく。そして血と臭気を纏って帰ってくる炬仁に、「一門の名折れだ!」と憤慨していた父親も、最近になってようやく見限ったようだった。二人の兄は侮蔑のまなざしを向けてくる。しかしその瞳の奥には末弟への恐怖があることを、炬仁は知っていた。

 荒々しい性格は幼少のころからで、大人も子供も炬仁に近づこうとしなかった。

 でも瑞芳は違う。彼だけがいつも自然体で隣にいて、炬仁を頼りとしてくれた。

 だから炬仁はこれからもずっと瑞芳だけを守り、大切な誓いを果たす。そう決めていた。

 しかし、望みもしない転機が訪れる。

 それは二週間ほど前の夕刻のこと、瑞芳と並んで歩いているところに数匹の妖魔が出現した。

『ひぃっ……! 助けて……だっ、誰か!』 

 そう悲鳴をあげたのは瑞芳ではない。悲鳴は、石畳の街路を進んでいた、煌びやかな轎に乗る貴人とその従者たちのものだった。

 むしろ瑞芳はみずから妖魔に近づいて、いつも炬仁を心配させる。

『やぁ、初めて見る形の妖魔だね。手が四本もある……いつ変形したんだろう? もう少し近くで観察できないかなあ。今日こそ彼らの弱点を見つけられるかもしれないよ』

『気持ちはわかるが、やめとけ。場所が悪すぎる。ここは人が多い』

 轎の担ぎ手や列をなす従者だけではなく、護衛らしき者たちまで腰を抜かしている。面倒なことになる前に、炬仁は妖魔をすべて斬り斃した。

 炬仁は瑞芳を守っただけだ。轎と行列は単なるついでに過ぎない。しかし、そのついでで助けた轎に乗っていたのが、皇帝が可愛がっている姪だったことから話は急変する。

 飛ぶように宮廷へ帰った姫君は、皇帝に事の次第を大仰に話したに違いない。

『蔡家の炬仁なる者を朕の討伐隊へ』――驚くことに、翌日には皇帝みずから炬仁を指名してきたのである。

 こうして炬仁は十七歳という若さで皇帝直属の妖魔討伐隊に入隊することとなった。

 父親はあきれるほど鮮やかに手の平を返す。自分より大柄になった息子の肩を必死でつかみ、「誉れだ! 蔡家始まって以来の偉勲だっ」と狂喜した。母親は相変わらず口も利かなければ目も合わさない。兄たちは恐怖と嫉妬が混ざったような、炬仁には到底真似できない複雑な表情をしていた。

 ただのついでで姫君を助け、皇帝より命を受けてしまった二週間後――つまり本日、炬仁は宮廷で執り行われた妖魔討伐隊入隊の儀を終え、建国以来最年少の武将となった。

 そして今宵、父親は盛大な祝宴を催すに至る。

 新月の夜にもかかわらず多くの客人が訪れ、蔡家の広い屋敷は、酒と人熱れと強い香の匂いで噎せ返るようだった。

「これほど若い武将の誕生は、後にも先にもないだろう! 炬仁は国史に名を刻むのだ!」

 有頂天になった父親はそればかりを言って高笑いをし、周囲の者を閉口させていた。

 炬仁は若い武官たちに囲まれて酒をしこたま飲まされる。血気盛んな彼らは、酔った炬仁を連れて高級妓楼へ行くつもりだった。

 そんなくだらないことに付き合う気は毛頭ない。なにより炬仁には、瑞芳のところへ行って夜すがら語り合うという大事な約束がある。父親の顔が雄鶏の鶏冠みたいに赤くなり、呂律がまわらなくなったことを確認すると、炬仁は屋敷を抜け出した。

 夜の闇に上手く溶け込むために黒馬を選ぶ。速度を上げて駆けさせた。

 着物の懐には、入隊の儀で皇帝から賜った飾り紐を忍ばせている。二種の宝玉がついた紫紺色の髪結い紐は、妖魔討伐隊に属する者だけが身につけられる精鋭の証だった。

 しかし炬仁には必要ない。長い黒髪を縛るのは麻の紐で事足りる。最初から、飾り紐は瑞芳に渡すと決めていた。

 武官としての任務や訓練が始まれば、今までのようにはいかなくなる。毎日瑞芳に会いに行くことはできなくなり、妖魔の観察へ連れて行く回数も減ってしまう。満月と新月の夜にこそ、そばにいて守りたいのにそれが叶わない。だからこの美しい髪結い紐を、護符として瑞芳に持っていてほしかった。

 少しでも早く会うために、瑞芳の家への抜け道である竹林に入っていく。

 月明かりのない竹林はひときわ暗い。だが炬仁は平気だった。

 妖魔を斬りだしたころから夜目が異様に利くようになった。嗅覚も鋭くなり、自分が獣に近づいている気さえ起きてくる。

 妖魔どもを斃し、瑞芳を守って誓いを果たせるのなら、獣になるのも悪くない――炬仁は馬の腹を蹴り、真っ暗闇の中を疾走する。冷たい春の夜風が頬を掠めていく。大輪の牡丹に浮く夜露が、黒馬の四肢を濡らす。

 ふいに、ぼう、と橙色の灯かりが浮かんだ。

 小さな提灯を持つ者が誰なのか、炬仁にはすぐにわかった。

「瑞芳っ。なにやってんだよ、家で待っとけって言っただろ」

「あっ、炬仁! ……勝手してごめんなさい。待ってたんだけど、今、御屋敷へ向かったら、すぐに炬仁に会える気がして」

「入れ違いになってたらどうするんだ。おまえ一人のときに妖魔が出たら――」

「うん。でも、ちゃんと炬仁に会えたよ。よかった。嬉しいな。妖魔の気配はなかったよ」

 摘みながら歩いてきたのだろうか、瑞芳の手には紅い牡丹の束があった。

 一人で出歩くなと、もっと怒るべきなのに。あどけなさをほんの少し残す顔に柔らかな笑みを浮かべられると、それだけで叱れなくなってしまう。炬仁に会うために出てきたと言われたら、なおのこと。大型の妖魔を多く斬ってきた炬仁だが、小さな瑞芳には勝てる気がまったくしない。また負けた……と思いながら、軽い身体を抱き上げて馬に乗せた。

 こうして瑞芳を前に乗せるたび、その細いうなじに視線を落とす。

 瑞芳からは、いつも不思議な香りがした。

 まだ十四歳だというのに薬草や香草を巧みに扱い、ときには毒草も扱う。春蘭や菊花を摘んでは美味い塩漬けを作り、茉莉花で茶を作る。瑞芳の部屋には古い巻物や書籍が堆く積まれ、小さな瓶や壺が散乱し、乾燥した植物たちが吊るされていた。

 足の踏み場もない部屋は、大柄の炬仁にとっては窮屈なはずなのに、なぜかとても居心地がいい。酒にはめっぽう強い炬仁だが、瑞芳の部屋で手製の塩漬けと花茶を口にすると、いつも酔ってしまいそうになる。

 草花と茶と紙が混ざったような、それでいて甘い不思議な匂いが、炬仁はたまらなく好きだった。その甘くて不思議な香りが匂い立つうなじを見つめながら言う。

「部屋に帰る前に、妖魔の観察へ行くか?」

「えっ、いいの? でも、炬仁は宴で疲れてるでしょう」

「宴はもう関係ない。今夜は新月だからな。見たことない奴に会えるかもしれないだろ」

 炬仁が沼地へ向かって馬を走らせると、瑞芳は振り返って「ありがとう」と微笑んだ。

 そうして目的地へ着くまでのあいだ、いつも通り瑞芳のおしゃべりを聞く。

「ねえ、炬仁、聞いてよ。私はね、宮廷には霊獣がいて、妖魔や禍から皇帝陛下をお守りしていると思うんだ。前にも話したでしょう? 虹?鸞っていう名前の霊獣。炬仁は討伐隊の御役目が始まって、毎日宮廷へ行くようになるから、虹?鸞を見られるかもしれない。そのときはどんなだったか詳しく教えてね。鉤爪や嘴の形状も気になるけど、私が知りたいのは、本当に人語を操るかどうかで――」

「霊獣なんかいねえよ」

「えっ、どうして? いるよ、一瞬だけど、見たことあるもの」

「絶対にいない。いるなら今日の入隊の儀で見られたはずだろ? 陛下は鳥なんか連れてなかったぜ」

「いるよ、絶対。宮廷のずっと奥にある庭の、梧桐の枝にとまってるんだよ、きっと」

 そのあとも「いない」「いるよ」「いねえって……」「絶対いる!」と言い合い、炬仁は堪えきれず声を出して笑ってしまった。瑞芳は唇を尖らせる。

「伝説だろ? 仙界も仙人も桃源郷も、ただの御伽話だ。霊獣も同じ」

「ちがうよ、私はたしかに見たもの。虹色の立派な鳥が宮廷を守るみたいに、大きく円を描いて飛んでた。あー、どうしてあのときに限って炬仁と一緒じゃなかったんだろ……」

 人は決して立ち入ることができない仙界、東方の海に浮かぶという桃源郷、西の最果てにあるとされる仙女の住み処・崑崙山――さまざまな文献や記録が残っているが、それらがすべて作り話であることは誰もが知っている。皇帝が躍起になって捜しているという霊獣も、幻に過ぎない。

 斬っても燃やしても次々と湧いて出てくる妖魔だけが現実だった。

 しかし瑞芳は、絶世の美女といわれる仙女や、強くて神々しい霊獣に痛烈な憧れを抱いている。この話になったら止まらない。炬仁は馬を駆りながら、瑞芳が熱心に語る御伽話に耳を傾け、相槌を打った。

 沼地に到着すると先に馬からおり、瑞芳の両脇に手を添えて草叢に立たせる。

 今までとても楽しそうに話していた瑞芳は、なぜか急におとなしくなり、提灯と牡丹の花を持つ両手をだらんと下げてしまった。その表情が硬くなっている。

「やっぱり妖魔の観察はやめとくよ……帰ろう、炬仁」

「なんでだ? せっかく来たのに」

「こんなんじゃいつもと変わらないもの。大事な、お祝いの夜なのに。……それに、――」

 消え入りそうな声で伝えられた言葉に息を呑む。

 それは、いつもと違ってもかまわないということだろうか――まだ十四の瑞芳に他意など存在しないとわかっているのに、炬仁は勝手な思い込みをしてしまった。

 瑞芳が、「それに、いやな、臭いが……」とつぶやく。炬仁も濃い臭気は感知しているがそんなことはどうでもよかった。邪魔する妖魔は一瞬で斬り捨てる。小さな身体を覆うようにして立った。

「炬仁?」

 瑞芳が不安そうに見上げてくる。その両手は提灯と牡丹の花で塞がっている。

 だから炬仁は、紫紺色の髪結い紐を瑞芳の懐にそっと忍ばせた。

「これは……?」

「護符だ。武官の務めが始まったら、おれはおまえから少し離れる。今までみたいに、毎日会いに行くことはできない。だからおれがいないあいだは、これを護符として持っとけ」

「う、ん……」

「心配するな。離れるのは、本当にほんの少しだけだ。なにがあっても瑞芳だけを守るのは変わらない。おまえとの誓いも、必ず果たす」

「……わかった。ありがとう。とても綺麗だな。大切にするね」

 瑞芳はまだ不安げにしながらも嬉しそうに微笑む。

 そして一瞬ためらったあと、持っていた牡丹の花を手渡してくる。花びらが纏う夜露のせいだろうか、触れてきた指先がわずかに濡れていた。

「討伐隊入隊、おめでとう……。これ、炬仁のために……炬仁に似合う花だなって、いつも思ってた。大きくて強くて美しい、から」

 そのおぼつかなくもどこか色香のある佇まいは、少年と青年のはざまを漂う者だけのものだ。

 言葉で伝えるだけにすると決めていたのに、駄目になった。

 抑えきれない衝動に駆られた炬仁は細いうなじに手をまわす。瑞芳の肩がぴくりと揺れる。

「炬、仁……?」

「瑞芳。おれだけにしとけ。これから先もずっと」

 炬仁を突き動かしたものは、あるいは焦燥だったかもしれない。離れるのはわずかな時間であるはずなのに、それがひどく長くなる予感がしてならなかった。

 炬仁は長躯を屈め、二人のあいだにある身長差を埋めて、瑞芳の小さな唇に唇を重ねた。

「………」

 長く深く触れ合わせるまでの勇気はまだなかった。唇を離して見おろした瑞芳は、なにが起きたのか理解できずに、ぱちぱちとまばたきをしている。

「瑞芳。返事は」

「返事、って……どう、――」

 見つめてくる瑞芳の表情には戸惑いだけがあった。しかし次の瞬間には顔を蒼くして、瞳をこれ以上ないほど開く。その視線は炬仁の背後に広がる暗闇に向けられていた。

「炬仁! うしろっ……、妖魔が! 大きいっ」

 瑞芳は妖魔を恐れない。いつもみずから近づいて、炬仁を心配させる。

 それなのに、見開かれた瞳には明らかな恐怖の色があった。炬仁は振り向きながら刀剣を抜き、背で瑞芳を守る。そのとき初めて瑞芳の悲鳴を聞いた。

「あれ、は――窮奇!? だめだ炬仁っ、凶悪すぎる! 逃げようっ、逃げなきゃ……!」



 ――熱い。

 ゴオォ……と熱風が吹き荒ぶ。闇と紅蓮しかないこの場所で、地鳴りは響きつづけていた。

 意識を取り戻したときから付き纏う不快な浮遊感が、追憶の邪魔をする。

 ただ、手足が付いてないように感じる理由だけはわかった気がした。

 ――そうだ、おれは……。

 炬仁は、窮奇という名の巨大な妖魔に刀剣ごと右腕を食われた。

 右腕はもうない。だから泣き叫ぶ瑞芳を左腕だけで持ち上げ、馬に乗せた。

 そして、怯えて動けない馬の尻を思いきり殴りつけた。全速力で駆けさせるために。

 黒馬は疾走する。涙でぐしゃぐしゃになった瑞芳の顔が遠のいていく。

 激痛と出血で朦朧としながらも炬仁は笑った。

 瑞芳を逃がすことさえできればそれでよかった。

 ただ、あの涙を拭えないのは悔しい。泣く瑞芳を抱きしめる腕が、自分にはもうないことも。

 追憶の中の風景がやたら赤くなる。燃え盛る提灯、舞い散る牡丹の紅い花びら、噴き出す鮮血。巨大な妖魔の赤い眼球と、大きく開かれた口――。

 ――おれ、は……あの、ばかでかい妖魔に……、食われ、……。

 否、ただ食われて終わりにするわけがない。炬仁は炎の塊となった提灯をつかみ、妖魔の喉奥へ突っ込んだ。怯んだ隙に懐から短刀を取り出す。それが限界だった。炬仁は妖魔に呑み込まれる。呑み込まれながら、その赤い喉を切り裂いて――。

「おお、恐ろしや。なんという荒々しい魂でありましょう」

「まことじゃ。よく妖魔に成り下がらず、この泰山へ辿り着けたものよ」

 そのとき上から降ってきた男たちの声によって、炬仁の追憶は完全に止められた。

 見えなくてもわかる。唐突にあらわれた彼らは、明らかに炬仁だけを見おろしながら会話していた。その内容は悪ふざけが過ぎていて、到底信じられるものではない。

 ――魂……? 泰山、だと?

 泰山とは、死者の魂が集う霊山のことを指す。そこには霊山の主である泰山府君がいて、魂たちを極楽浄土へ送るか地獄へ連行するか裁いているという。

 しかしこれこそ御伽話だ。人間が作った死後の世界に過ぎない。炬仁は男たちの会話を信じるわけにはいかなかった。彼らの言葉はすべて炬仁の死を表している。

 闇と紅蓮しか感じられないこの場所は、現し世ではないかもしれない――一瞬でもそう思った己が愚かしかった。

 炬仁は死んでなどいない。瑞芳を残して死ねるわけがない。

 今すぐ瑞芳の元へ帰るために、ふたたび全身に力を込める。失くした右腕さえも動かすつもりだった。炬仁を見おろす男たちが焦りの声を出す。

「こやつ、また勝手な振る舞いを始めましたぞっ。魂のみでありながら、なんという力だ」

「もうよい、かように暴れる魂に審理など要らぬ。早う地獄へ連れて行け」

 ――ふざけたことを言うな! 

 怒鳴ったはずなのに、声がまったく出なかった。やはり手足のどこも動かせず、目も未だ開くことができない。

 そして、男たちの会話を聞いた炬仁は、ひどく不吉で嫌なことにようやく気がついた。

 身体の自由が利かないのではない。肉体そのものが、消滅している――。

 かつてない衝撃に襲われる。炬仁は、初めて妖魔に負けた。窮奇という名の巨大な妖魔に負け、餌食となった。

 だから肉体はない。肉体は窮奇の腹の中にある。意識を失くした数秒で踏み入ったことのない領域に移ったのは、魂だけが泰山に辿り着いたからだ。不快な浮遊感の正体は魂となった炬仁そのものだった。

 そう理解しても、絶対に、なにひとつ認めたくない。

 地獄などという意味のわからない場所に連行されるくらいなら、妖魔に成って現し世をさまようほうが幾らかましだった。そうすれば瑞芳のそばへ行くこともできる。

 ――おれは、今すぐ瑞芳の元へ帰るんだ、っ……。

 手段は選ばない。醜い妖魔でも人語を解さない獣でも、なんでもよかった。

 今すぐ瑞芳のところへ行けるのなら――そう強く思う炬仁の中で、黒い塊が膨らみだす。

 焦りを募らせる男たちの声には怯えが生じているようだった。

「な、なんと……あやつ、みずから妖魔に成り下がろうとしておりまするぞ」

「そのようなことは許さぬ、獄卒ども、早うあれを捕らえよ! 地獄へ送れ!」

「――お待ち、泰山府君」

 ふいに響いた女性の声は、炬仁にもはっきり聞き取れた。

 それは天上から銀砂がさらさらとこぼれ落ちてくるような、美しい声だった。

 彼女の存在は、炬仁の中の黒い塊を掻き消してしまうほどの神聖さを帯びている。炬仁はもうなにが起きても誰があらわれようとも驚く気すらないが、泰山府君と呼ばれた男は驚愕の声をあげた。

「ややっ、これは西王母さま!」

 西王母――それは西の果てにあるという神山・崑崙山に住む最高位の仙女のことである。

 天界を支配する玉皇大帝の妻であり、大帝の命によって地上を守護していた。崑崙山に建つ彼女の宮殿は玉皇大帝の地上における住居でもあり、その宮殿と仙女を見た人間は、美麗極まる光景に耐えられず眼が潰れてしまうという――そう炬仁に話して聞かせてくれたのは、ほかならぬ瑞芳だった。

「その魂、私がもらい受けるとしよう」

 瑞芳が憧れてやまない最高位の仙女・西王母は、穏やかな口調でそう言った。

 もうなにが起きても驚かないと思っていた炬仁だが、驚愕を隠せない。御伽話だと笑っていた神仙の世界に、完全に迷い込んでしまった。

 狼狽する泰山府君は、それでも炬仁の魂を地獄に引き止めようとする。

「し、しかしながら西王母さま、これは妖魔に成る恐れがあり……かように危険な魂をお渡しするわけには参りませぬ。地獄へ送りさえすれば妖魔に成り下がることもなく、数千年ののちには人間として転生も叶いましょう」

「ホホ。これは妖魔に成り下がるような代物ではあらぬよ。――そち、参れ」

 言葉の最後は炬仁にかけられたものだった。それに応じた魂が勝手にゆらゆらと揺れる。

 己の意思とは関係なく、炬仁の魂は白くて綺麗な器におさまってしまった。

 白磁の器みたいなそれが西王母の掌だと感知したとき、ふいに視界が開ける。闇と紅蓮が遠ざかり、降り注ぐ光に眩しさを覚えた。

 ――目が見える。

 否、見えるようになったのではなく、西王母の掌に宿る、強い神仙の力によって見せられていると言ったほうが正しい。最初にはっきりと視認できたのは彼女の指先だった。

 仙女の爪は三寸ほどあり、真冬に咲く椿の花で染めたように紅い。その長く美しい爪のあいだから見えた光景に、炬仁は不覚にもまた驚愕してしまった。

 つい先ほどまで新月の夜だったのに、どうしてか今は真昼のように明るい。陽の光を受けて白銀に輝く獣毛がある。

 ――まさか、……霊獣、か!? 白麒麟とかいう……。

 それも瑞芳から聞いたものだった。霊獣など幻に過ぎないと思っていたのに。

 西王母は白麒麟に乗り、白銀の霊獣は素晴らしい速さで天空を駆けていた。眼下には、今までいたと思われる泰山がある。雄大な霊峰がみるみる小さくなっていく。

 仙女は炬仁をどこへ連れて行くつもりなのだろうか。今すぐ瑞芳の元へ戻らなくてはならないのに、掌から出ることさえできない。放してくれと訴えるため、炬仁は上方に視線を向ける。そうして初めて見た西王母の美しさに目を奪われた。

 絹糸みたいな長いまつげと、無数の綺羅星を集めたような瞳。白い肌に映える真紅の唇と、眦に刷かれた鮮やかな朱。複雑に編み上げられた黒髪には蓮の花が挿され、黄金や翡翠の髪飾りが煌めく。

『西王母さまは、絶世の美女なんだよ。あまりにも美麗すぎて、その御姿を見た人間は失明してしまうんだ』――瑞芳の言葉を思い出す。その通りだと思った。もし肉体を持っていたら、今ごろ炬仁の瞳は潰れている。

「窮奇をあのように追い詰める人間がいようとは。久方ぶりに驚いた」

 西王母をさらに美しく飾る瓔珞が、しゃん、と清らかな音を奏でる。それを聞いた炬仁はようやく我に返った。

 ――窮奇……おれを食ったあのばかでかい妖魔は、死んだか?

 目は見えるようになったが声までは戻してもらえなかった。炬仁は己の中で西王母に話しかけ、それに仙女が答えてくる。

「否、死んでおらぬ。そなたが絶命してもなお振りつづけた短刀は彼奴の五臓六腑にゆきわたった。回復には十数年を要するだろう。しかし生きている以上、必ずまた悪さをする。彼奴の復活のために多くの人間が餌食にもなろう。私もあれには手を焼いておってな」

 ――おれがやる。必ず奴を討つ。だからおれを元の場所へ戻してくれ。

「ホホ。話が早い。……が、そなたを生家へ帰すことはできぬ。そなたは先ほど泰山府君より地獄行きの審判を受けた。彼の審判は絶対じゃ。私とて覆すことはできぬ。そなたが人間として転生するのは数千年を経てからとなる」

 ――数千年!? ふざけるなっ!

 悪寒がするほど果てしなく永い時だった。それは瑞芳に二度と会えないことを意味する。

 炬仁を喪った瑞芳はどうなる。今夜のできごとは、十四歳の小さな心にどれほど深い傷を作るのだろう。傷を抱えて、瑞芳は一人で大人になるのだろうか。そして炬仁とは別の誰かと出会い、ともに生き、死んでいくのだろうか。炬仁を忘れ、大切な誓いを棄てて――。

 ――そんなこと、絶対に許さない。

 魂が熱くなる。先ほどの黒い塊はあらわれない。ただ熱かった。魂だけとなった己に炎が生じ、燃え盛るようだった。

 それは瑞芳への強烈な未練にほかならない。瑞芳は今も泣いている。その涙を拭うのも震える小さな身体を抱きしめるのも、炬仁でなくてはならなかった。数千年後の転生など意味はない。瑞芳のいない世界を、炬仁は必要としなかった。

 炬仁の熱は西王母へ伝わっただろう。鮮やかな紅の引かれた美しい唇が、笑みの形になる。

「ならば、そなたは霊獣と成れ」

 ――霊獣、だと……?

「そうじゃ。そなたの強靭な魂ならば、あるいは蒼獅子になれるかもしれぬ。その強い想いさえ失くさなければ……」

 言葉の意味を理解できないうちに、西王母を乗せた白麒麟が降下を始めた。

 厚い雲海が仙女を迎えるように開き、道を作る。そこから先は、現し世とも黄泉とも異なる世界だった。

 夥しい数の巨大な岩の柱が、屈強な神将のように立ち並ぶ。麓は底の見えない谷となっていた。岩の柱には緑が生い茂り、あるところは苔むして、可憐な白い花をつけている。

 何万年と立ちつづける岩の柱の群れを慰めるように、砂金を含む薄桃色の霞がきらきらとたゆたう。岩壁から伸びた桃や柘榴の木は瑞々しい果実をつけ、鳥たちを誘っていた。

 そこは人間の足では到底踏み入ることのできない、厳しくも美しい仙界だった。

 白麒麟は鋭く切り立った岩々を軽やかに駆けていく。やがて姿をあらわした白い峰が、伝説の神山・崑崙山であることは、おのずと知れた。

 純白の山々に守られるようにして建つ、西王母の宮殿が見えてくる。

 美しく輝く白亜の壁と、陽光を集める瑠璃瓦の屋根。等間隔に並ぶ大きな朱の柱には、霊獣の彫刻が施されていた。

 西王母と白麒麟が身につけている瓔珞が、しゃん、しゃん、と音を立てる。宮殿の庭にゆっくりと着地し、西王母をおろした白麒麟は、ふたたび天空へ駆け上がっていった。

 極彩色の鳥が舞う庭を、西王母は足音もなく進む。

 そうして一本の樹の前で歩みを止めた。

「これは玉皇大帝より賜った聖大樹じゃ。甘く美しい仙桃を実らせる」

 ――この樹が関係あるのか? さっき言ったことを詳しく教えてくれ。おれが霊獣に成るって、どういうことだ? 仙桃を食えば成れるのか?

「否。仙桃を食うて霊獣に成るのではない。霊獣は、仙桃より出ずる。人間の魂がこの果実の中に入り、長い時間をかけて人間であることを棄て、獣の血肉を生成するのじゃ。その時間は人間界において十年、仙界では百年となる。ここと下界では時の流れが少々異なるのでな。百年を経て甘く美しい仙桃と成れば、そこより霊獣が誕生する」

 霊獣が仙桃から生まれるなんて、瑞芳はそんな話を一度も聞かせてくれなかった――炬仁は聖大樹を見上げる。

 青々とした葉も、枝の先端についたばかりの小さな果実も、玻璃で作られたように透き通っている。陽光が降り注げば七色に煌めいて、現し世には存在し得ない神秘的な美しさを呈していた。

 聖大樹の下にも果実が転がっている。しかしそれらは一様に皺だらけで醜く、墨汁を塗られたかのように真っ黒だった。

「ただ、まことの仙桃と成るものは極めて稀じゃ。おおかたはあのように腐り果て、地に落ちる。原因はひとえに魂の弱さ――想いの弱さにある。霊獣の血肉を生成する行為には凄絶な恐怖と苦痛を伴う。皆、それに耐えられず落実するのじゃ。果実が腐れば魂そのものが消滅し、転生することは二度とない。あれらはすべて、わずか半日で落実したもの……」

 聖大樹の下に転がる黒い果実は、夥しい数だった。日々、西王母に見出された強靭な魂たちが果実に入れられ、しかし苦痛に耐えられず腐り落ち、消えてゆく。

 ――そうか。成りかたはわかった。おれを果実の中へ入れてくれ。

「そなた、恐ろしゅうないのか」

 ――なにを恐れろと?

 百年、もがき苦しむことか。その果てに魂が消滅することか。

 炬仁に恐れはない。あるのは憎しみと怒りだけだ。それは瑞芳を悲しませた妖魔への憎悪であり、己の力を過信した炬仁自身への憤怒にほかならない。

 恐れがあるとするなら、転生までの数千年だった。それこそ待ちつづける苦痛に耐えられず、炬仁の魂は消滅してしまうだろう。

 だが、西王母に機会を与えてもらえた。人間界で十年、仙界では百年。ならば炬仁は百年かけて獣に成ることを選ぶ。霊獣と成り、必ず瑞芳の元へ帰ってみせる。

「たとえ百年の苦痛を耐え抜き、霊獣に転生できたとしても、人間であったころの記憶は失われている。そなたをそこまで現し世に執着させる存在も……忘却はいっさい免れぬ」

 ――かまわない。早く果実に入れてくれ。

 忘れてなどやるものか。

 すぐに瑞芳の元へ帰るはずだった。離れるのは、本当に、ほんの少しだけだと言った。

 瑞芳に嘘をついてしまうのがたまらなく悔しい。だから炬仁はこれ以上嘘をつかない。

 なにがあっても瑞芳だけを守る。幼いときに交わした誓いを果たす。

『おれだけにしとけ』と瑞芳に言った。

 その返事を、まだ聞いてない――。

 すでに肉体は失われている。声帯もない。それでも炬仁は声をあげた。

「瑞芳、っ……」

 西王母は長いまつげを揺らし綺羅星のような瞳を見開いて、驚愕の表情をする。

 そして、畏怖すら感じるその美貌に笑みを浮かべた。

「ホホ。これは剛毅な。――好、太好了」

 大変よろしい、と仙女は言う。炬仁は、赤くて艶のある長い爪に包まれた。玻璃でできた透明の果実が迫る。

「必ずや蒼獅子と成り、窮奇を討て。さすれば記憶を戻してやろう」

 そうして西王母は、炬仁の魂を果実の中に埋め込んだ。

 その途端、耐えがたい激痛に苛まれる。透明の仙桃の中は暗闇の一色で果てがない。

 果てのない空間を、炬仁は激痛にのたうち、転げまわる。肉や骨が溶け、脳や臓器が腐敗する幻覚に襲われる。叫びたいが声が出せない。無になる直前に腐敗した肉体は再生され、また激痛を伴って溶け落ちた。

 それが延々と繰り返される。幻の肉体が再生されるたび、二本足で歩く人間から地を這う獣へと少しずつ変化していくようだった。

 西王母の声が、銀砂のようにさらさらと降ってくる。

「苦しかろう。霊獣と成り神格を得ることは、人間を棄て獣の道に堕ちることと同義……一度獣の道に堕ちた身は、二度と人間には戻らぬ。それでも記憶を取り戻したいのならば、窮奇を討て。彼奴の巨体から魂を抜き、泰山へ還せ」

 それきり、仙女の美しい声も鳥の鳴き声も、なにひとつ聞こえなくなった。

 聖大樹に実ったばかりの小さな仙桃の中で、炬仁の惨痛と重苦は始まった。

 その歳月は百年に及ぶ。

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【12月刊試し読み】蒼獅子と百年の恋 角川ルビー文庫 @rubybunko

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