【12月刊試し読み】傲慢紳士と蜜愛バカンス
角川ルビー文庫
第1話
1
――携帯電話の着信音が鳴っている。
(誰だろう……こんな早朝に)
薄目を開けて、星野凜はベッドの横のナイトテーブルをまさぐった。
しかし電話が見当たらない。どうやら玄関に置いたままのデイパッグの中で鳴っているらしいと気づき、のろのろと体を起こす。
ゆうべは実験で遅くなり、アパートに帰宅するなり倒れるように眠ってしまった。お腹がぐうっと音を立てて鳴り、そういえば昨日の午後、実験の合間に急いで食べたサンドイッチ以降何も食べていないことを思い出す。
凜がベッドから降りる前に、着信音は鳴りやんだ。大きなあくびをしてから、目覚まし時計に視線を向ける。
午前八時――早朝というほどでもないが、誰かに電話をかけるには少々早い時間だ。
もしかしたら緊急の用件かもしれないと思い、ブランケットをはねのけてよろよろと玄関へ向かう。本やノート、モバイルがぎっしり詰まったデイパックをかきまわしていると、再び着信音が鳴り始めた。
(……蘭か)
電話は、四つ年下の妹の蘭からだった。宵っ張りの蘭がこんなに朝早くに電話してくるなんて、実に珍しいことだ。
『凜? 私よ。ごめんね、起こしちゃったかしら』
凜がまだ声を発しないうちに、蘭が勢いよくまくし立てる。おっとりした性格の凜と違って、蘭は昔からせっかちなのだ。
「いいよ……ちょうど起きようと思ってたところだから」
『あのね、驚かないで聞いて欲しいんだけど』
「……ええと……聞くのは構わないけど、驚くなっていうのは約束できないかも」
用心深く答えると、電話の向こうで蘭がくすくす笑うのが聞こえた。
『訂正。驚くのは構わないわ。ただ、頭ごなしに反対しないで欲しいの』
「…………」
蘭の言葉に、嫌な予感がこみ上げてくる。
蘭は現在、ペンシルベニア州の大学で経営学を学んでいる。やはり夢を諦めらなくて大学をやめたいとか、そういう話だろうか。
『ウェズリーのことなんだけど』
蘭の口から飛び出したのは、入学直後からつき合い始めたという彼氏の名前だった。
大学をやめる話ではないことに少々ほっとしつつ、今度は男女交際のトラブルのあれこれが頭をよぎる。
(まさか、妊娠したとか……)
そうではないことを願いつつ、さりげなく「ああ、ウェズリーがどうかしたのか?」と水を向ける。
『こないだ彼の両親に会った話、したよね』
「ああ、聞いた。歓迎してくれたんだろう?」
つき合い始めてから判明したのだが、ウェズリーはかなりいいところのお坊ちゃんだったらしい。父親はニューヨークの大手投資会社のCEOで、不動産業やホテルチェーンの経営なども手がけており、アメリカの経済界では有名な一族とのことだった。
『ええ、歓迎してくれた。ディナーもとても和やかな雰囲気でね。けど、ああいう上流社会の人たちって本音と建前を使い分けるんだってことを思い知らされたわ』
「どういうこと?」
『私たち、先週婚約したの。そしたら態度が豹変よ。あくまでもにこやかに、けど、断固として許さないって感じで』
婚約という言葉に、凜は目をぱちくりさせた。
「何言ってるんだ……蘭はまだ十九だろう」
『そうよ。婚約も結婚もできる年齢よ』
「ちょっと待って、父さんと母さんは知ってるの?」
『ええ、反対されるのはわかってたから、メールでね。案の定すぐに電話がかかってきて、すごい剣幕で猛反対されたわ』
その情景を想像して、凜はため息とともに天井を見上げた。
大人しい優等生だった自分と違い、蘭は昔から型破りなところがある。大学には行かずに女優になりたいと言い出したときも、それはそれは熾烈な親子喧嘩の毎日だった。
「なんで婚約する前に相談してくれなかったんだ……」
『だって、凜も反対するでしょ? 家族にも親友にもことごとく止められて、私たちもう反対されることにうんざりなの。言っとくけど、説教は聞き飽きてるからお断りだからね』
次第に刺々しくなってきた口調に、凜はスマートフォンを持ち直した。
こういうときの蘭は、何を言っても聞く耳を持たない。あくまでも穏やかに、味方をするふりをしてじわじわと説得していくしかないだろう。
「わかった。説教はしない。それで、僕に電話してきたのはどういう用件?」
『私たち、駆け落ちしたの』
「…………」
駆け落ち、という言葉がにわかに理解できなくて、しばし黙り込んでしまう。
『聞いてる? あのね、私たち、駆け落ちしたの!』
弾むような声で、蘭が衝撃の告白をくり返す。
「……聞いてるよ……」
対照的に、凜が絞り出したのは茫然自失という形容がぴったりの気の抜けた声だ。
『落ち着いたら今後のことを連絡するから、それまでパパとママには黙っててくれないかな。なんか訊かれたら、ウェズリーと別れて落ち込んでて、友達と傷心旅行に出かけてるとでも言っておいて』
「そんな無茶な! いい? 落ち着いてよく考えるんだ。周囲に反対されるってことは、それなりに理由があるからだと思わないか? ふたりともまだ若いんだし、一時の感情で突っ走るような真似は……」
さすがに黙っていられなくなり、なんとか蘭を説得しようと凜は言葉を探した。
しかし浮かれて舞い上がっている蘭が聞き入れるはずもなく、凜の言葉を無視して続ける。
『落ち着いたら連絡する。これからウェズリーとふたりで今後のことを話し合うの。しばらくスマホの電源切っとくけど心配しないで。あと、絶対警察に通報とかしないでよ。そんなことしたら一生許さないからね』
「蘭!」
ぷつりと通話が切れて、凜は呆然と立ち尽くした。
まるで悪い夢でも見ているような気分だった。婚約だけでもどうかと思うのに、駆け落ちだなんて非現実的すぎる。
まったく、自分は二十三にもなって恋愛経験ゼロだというのに、この手のことに関しては妹に先を越されっぱなしだ……。
(……いやいや、僕のことはどうでもいい)
脱線しかけた思考を振り払い、今何をすべきか考える。唇に指を当てて、凜は部屋の中をぐるぐるとまわり始めた。
(蘭の言うことに従うわけじゃないけど、両親にはまだ黙っておいたほうがいいな)
ロサンゼルスに住む両親には、解決のめどがついてから連絡したほうがいい。父はともかく、母はパニックに陥ってかえって事態を悪化させてしまいそうだ。
(ウェズリーの両親には……まあ僕が言わなくてもウェズリーから聞いてるだろうけど……)
もしかしたら、ウェズリーも蘭と同じように両親には隠しているかもしれない。だとしたら、下手に自分がしゃしゃり出て事を荒立てるような真似は避けたほうがいいだろう。
ウェズリーが打ち明けるとしたら誰だろう。親友だろうか。それとも……。
「……そうだ! たしかお兄さんがいるんだ!」
立ち止まって、凜はぽんと手を打った。
何かの折りに、蘭が言っていた。ウェズリーには年の離れた兄がいて、グループの子会社のひとつを任されているらしい。文武両道の優秀な兄にコンプレックスを抱きつつも、絶大な信頼を寄せているとかなんとか……。
ウェズリーが誰かに打ち明けているとしたら、蘭同様兄である可能性が高い。蘭の言葉の端々からウェズリーが世間知らずで依存心の高い性格であることが窺えるが、今後のことも兄に相談しているのではないか。
くるりと踵を返し、窓際のデスクに向かう。
パソコンの電源を入れ、凜は検索窓に〝ヴァンダーウォール・ホールディングス〟と打ち込んだ。
凜が住むコネチカット州のヘブンポートからニューヨークまで、鉄道で約九十分。
終点から地下鉄に乗り換えてマンハッタンへ向かう。ミッドタウンで降りて地上に出た凜は、憂鬱な気分で眉根を寄せた。
LA生まれのLA育ちでありながら、凜は都会が苦手だ。幸い通っているイエーガー大学はのんびりした田舎町にあり、環境や治安がとてもいい。ニューヨークが近いことを蘭はうらやましがっているが、よほどの用事がない限り近づかないことにしている。
(最後にニューヨークに来たのは、二年前の植物学会のときだったっけ……)
スーツ姿のビジネスマンたちに交じって、ヴァンダーウォール・ホールディングス本社ビルを目指す。
通りすがりのガラス張りのビルに己の姿が映り、凜は苦笑した。一張羅のスーツを着てきたというのに、ビジネスマンの群れに迷い込んだ高校生にしか見えない。
色白のなめらかな肌、すっきりと整った輪郭、切れ長の大きな瞳――中性的で繊細な顔立ちは、実年齢より若く見られてしまう。
身長は百七十三センチあって決して小柄ではないが、体つきは細くて頼りない。骨格が華奢な上に痩せているので、モデル体型の蘭でさえ「凜と並ぶと太って見える」と言って一緒に写真に収まることを嫌がるほどだ。
やがて前方に本社ビルが見えてきて、緊張感が高まっていく。
(受付で門前払いされなきゃいいけど……)
この容姿のせいで、どれだけ子供扱いされたことか。何度も悔しい思いをしてきたので、凜はローティーンの頃から礼儀正しく大人びた態度を取るよう心がけてきた。
きちんとした言葉遣い、TPOをわきまえた振る舞いは、見た目の幼さを補ってくれる。
しかし、大企業にアポなしで乗り込むのは初めてだ。しかも相手はCEOの御曹司、用件も用件だけに、今になって少々怖じ気づいてくる。
(……いや、ここで僕が頑張らないと!)
マンハッタンの一等地にそびえ立つビルを見上げ、深呼吸をする。
ここに来るまでの間、何度も頭の中でセリフを練習してきた。失礼がないように念入りにシャワーも浴びてきたし、伸びすぎていた前髪も切ってきた。
(大丈夫、別に無理難題をふっかけに来たわけじゃない。お兄さんだって、きっとウェズリーの無計画な駆け落ちを心配しているはずだ)
しゃんと背筋を伸ばし、少しでも堂々とした大人に見えるよう、大股でエントランスへ向かう。
広々としたロビーには、従業員や来客が忙しそうに行き交っていた。黒みがかった御影石の床はぴかぴかに磨かれており、現代アートの彫刻が吹き抜けの天井に向けてそびえ立っている。
いかにもニューヨークで成功した会社の、自信に満ちた空間だ。さりげなく趣味の良さを主張しつつ、来客に威圧感を与えることも忘れていない。
「こんにちは」
受付カウンターの女性に、ぎこちなく微笑みかける。
「いらっしゃいませ」
黒縁の眼鏡をかけた受付嬢も、いかにも事務的な作り笑顔で応えてくれた。
「あの……プレストン・ヴァンダーウォール氏にお会いしたいのですが」
堂々とした態度で言ったつもりだが、声が尻すぼみになってしまった。案の定、彼女の笑顔が怪訝そうな表情へ変わっていく。
「お約束はいただいておりますでしょうか」
口調は丁寧だが、ひどくよそよそしい。多分、アポなしで押しかけてくる連中にうんざりしているのだろう。
「いえ。けど、会っていただけるはずです。僕はリン・ホシノ。弟さんのことでお話ししたいことがあると伝えてください」
用意してきたセリフを一気にまくし立てる。こういう場合、押しの強さも必要だ。
受付の女性は、凜の言葉を信じていいかどうか迷っているようだった。何か言いかけた唇を半開きにしたまま、じっとこちらを凝視する。
「お願いします。緊急事態なんです」
彼女の目をまっすぐ見つめ、凜は懇願した。
僕を取り次いでくれなかったらあとでヴァンダーウォール氏に叱られますよ、というセリフも用意してきたのだが、そこまで強気に出られるほど度胸がなかった。
「……少々お待ちください」
凜の必死な目つきに根負けしたのか、彼女がデスクの上の内線電話を手を伸ばす。
「リン・ホシノという方が、ヴァンダーウォール氏に面会を求めています。弟さんのことでお話があるとか……」
電話の相手はヴァンダーウォール氏本人ではなく、秘書かアシスタントのようだ。まったく、こういう大企業では本人と話すのにいったい何人の壁を乗り越えなくてはならないのだろう。
いったん通話を切り、再び電話で何やらやりとりし……数分経ってから、ようやく彼女がこちらに向き直った。
「五分だけお会いになるそうです。こちらでお待ちください」
「ありがとうございます」
ほっとして、凜は表情をほころばせた。
普通だったら五分だけ時間を作ってやったぞと言わんばかりの態度にかちんと来るところだが、今回は相手が相手だ。アポなしで押しかけて大企業の御曹司との面会に漕ぎ着けることができただけで上等だろう。
しかし、それから受付の前で三十分以上待たされ……ようやく受付の女性に呼ばれた頃には、早くも凜は疲労感でぐったりとしていた。
高層階のフロアに降り立った凜は、目をぱちくりさせた。
(うわ……なんか別世界)
エレベーターホールの中央にはモダンなデザインの花瓶が置かれ、見たこともない珍しい花が前衛的に活けられている。
どうやら一般社員の働くフロアではなく、役員などの専用のフロアのようだ。ガラス張りの壁の向こうの応接室や会議室は無人で、ロビーと違ってしんと静寂に包まれている。
「こちらです」
ロビーまで迎えに来たスーツ姿の男性が、慇懃な態度で凜を誘導する。
秘書か部下か、あるいは警備の担当者かもしれない。スーツの下は鍛え上げられた屈強そうな体であることが窺える。
(ヴァンダーウォール氏にとって、僕は不審者同然だろうしな……)
エレベーターに乗る前には、金属探知機によるボディチェックも受けた。昨今の事情を鑑みると、身元のはっきりしない客に対する扱いとしては妥当なところなのだろう。
毎日このような緊張感溢れるオフィスで働くなんて、想像しただけでストレスで胃が痛くなりそうだ――。
「どうぞ」
男が廊下の突き当たりのドアを開け、凜を招き入れる。
すぐにヴァンダーウォール氏のオフィスがあるわけではなく、そこは前室だった。年配の秘書らしき女性が立ち上がり、ロビーの受付嬢よりは幾分親しみのこもった笑みを向けてくれる。
「こんにちは、ミスター・ホシノ。こちらへどうぞ」
「こんにちは……あの、無理を言ってすみません」
彼女が軽く頷き、前室の続きの短い廊下を歩く。
ガラス張りのドアが見えてきて、凜は緊張が高まるのを感じた。
「ミスター・ホシノがいらっしゃいました」
ドアを軽くノックし、秘書がオフィスの主に告げる。
「――ああ」
低くて無愛想な響きの声が、いかにも面倒くさそうに返事をする。
自分が歓迎されていないことがはっきりと伝わってきて、凜は早くも気持ちがくじけそうになってしまった。
「初めまして、リン・ホシノです。お忙しいところ、お時間を作ってくださってどうもありがとうございます」
一歩中に入り、少しでも場の空気をやわらげようと、精一杯愛想よく挨拶をする。
――摩天楼を見下ろす眺めのいいオフィスの中央には、大きなデスクが置かれていた。
素晴らしい景色を背に、デスクの前に座った大柄な男性が、苦虫を噛み潰したような表情で書類を睨みつけている。
「掛けたまえ」
命令口調の言葉を口にする間だけ、その男性――プレストン・ヴァンダーウォールは、ちらりと凜に目を向けた。
灰色に近い、淡い青灰色の瞳と視線がぶつかる。
ほんの一瞬の出来事だが、凜をすくみ上がらせるには充分だった。
「……失礼します」
言いながら、デスクの前の革張りの椅子に浅く掛ける。
プレストンは、凜を無視するように手元の書類を読み耽っている。その隙に、凜は妹の恋人の兄を上目遣いで観察した。
ウェズリーとは、まったくと言っていいほど似ていない。どちらも人目を引く容貌ではあるが、ウェズリーは人懐こくて明るい美形、兄のほうはいかにも気難しそうな、険しくて猛々しい男前だ。
ウェズリーは緩やかなウェーブのかかったダークブロンドに温かみのある茶色い瞳、プレストンは黒々とした豊かな髪をきっちりと撫でつけており、高級そうなスーツ同様どこにも隙がない。青灰色の瞳は寒々しい冬の空を思わせ、ひどく冷たい印象で……。
「このまま五分間、黙って過ごすつもりか?」
書類から顔を上げようともせずに、プレストンがぶっきらぼうに言い放つ。
慌てて居住まいを正し、凜は膝の上で拳を握り締めた。
「弟さんから聞いてらっしゃるかもしれませんが、今朝妹の蘭から電話があって、ふたりが駆け落ちをしたことを知りました」
「ああ、聞いている」
書類に何やらペンで書き込みながら、プレストンが相槌を打つ。
拍子抜けするほどあっさりした返事に、凜は目をぱちくりさせた。
「……あの、ふたりは駆け落ちしたんですよ?」
「わかってる。それで、俺にどうしろと?」
さすがの凜も、その言い方にはかちんと来た。弟が駆け落ちしたというのに心配するそぶりも見せないとは、いくらなんでも冷たすぎるのではないか。
すくっと椅子から立ち上がり、プレストンを睨みつける。
「考え直すように説得しようとは思わないんですか?」
ようやく書類から視線を上げて、プレストンは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「恋愛なんてのは、周囲に反対されればされるほど燃え上がるもんだ。放っておけばそのうち冷める」
「そんな無責任な! あなたの弟さんはそれでいいかもしれないですけど、万が一妹が妊娠でもしたらどうするんですか……!」
凜の剣幕に、プレストンの表情がさっと変わるのがわかった。
険しい目つきがさらに猛禽類のように鋭くなり、凜をぎろりと睨み返す。
「……っ」
ふいにプレストンが立ち上がり、凜はびくりと首をすくませた。
どうやら妊娠云々の話が彼をひどく怒らせてしまったらしい。デスクの脇をまわってつかつかと歩み寄ってくるプレストンを、立ち尽くして茫然と見上げる。
ワークチェアにかけているときから大柄であることは窺えたが、長身で厚みのある体は想像以上に迫力があった。
先ほど凜を案内してくれた男性も長身で逞しくて威圧感があったが、プレストンはそれだけではなく、凜を圧倒する何かを漂わせていた。
男性性を凝縮したような、荒々しく攻撃的な熱。凜には恐怖でしかないが、もしかしたら世の中の女性たちは男性の発散するこういう猛々しい熱気をセックスアピールと捉えているかもしれない、と思わせるような……。
凜の正面に立ちはだかったプレストンが、ふいに唇を歪めるようにして皮肉っぽい笑みを浮かべる。
てっきり怒鳴られるか、あるいは掴みかかられるかと身構えていた凜は、思いがけない表情に面食らって目を瞬かせた。
「その点は心配ご無用だ、ミスター・ホシノ」
プレストンが、わざともったいぶった口調で切り出す。
「こういう家に生まれると、財産目当ての女が嫌というほど寄ってくる。だから俺たち兄弟は昔から親父に叩き込まれているんだ。遊ぶのは構わないが、避妊だけはきっちりしろってな」
プレストンの口から飛び出した〝避妊〟という生々しい単語に、思わず頬が赤らんでしまう。
「……つまり、妹も財産目当てだと言いたいのですか」
「可能性は高い」
「違います! 妹はあなたの弟さんと出会ったとき、弟さんのことを何も知らなかったんです!」
まなじりをつり上げて、凜は抑えていた怒りを爆発させた。プレストンを怒らせるのは得策ではないとわかっているが、妹を財産目当ての女と決めつけられては黙っていられない。
「皆そう言う」
素っ気なく言い捨て、プレストンは踵を返した。もうこの話題は終わったとばかりに、デスクに戻って書類をめくり始める。
「……まだ五分経ってませんが、あなたは弟さんを連れ戻して説得する気がないようなので、これ以上ここにいても無駄ですね」
「そのようだな」
書類から顔を上げることなく、プレストンがおざなりな相槌を打つ。
「協力していだたけないのは残念です。僕がふたりを探して説得しますので、弟さんが訪れそうな場所に心当たりがあれば教えていただけませんか」
あくまでも丁寧に、しかし憤慨をこめて、凜は申し出た。
プレストンがちらりと視線を上げて凜を見やり、デスクの電話に手を伸ばす。ワークチェアをくるりと回転させて背を向け、短い言葉のやりとりのあと、誰かに「ウェズリーの位置情報を知らせてくれ」と指示するのが聞こえた。
プレストンが受話器をフックに戻し、室内が静寂に包まれる。
「座りたまえ。目の前に突っ立たれてると気が散る」
何か言い返したい気分に駆られたが、ぐっと抑えて椅子に掛け直す。
一分も経たないうちにオフィスのドアがノックされ、先ほど凜を案内してくれた男性が入ってきた。
「ありがとう」
受け取った紙面に視線を走らせて、プレストンがこちらに向き直る。
「車のGPSによると、弟は今ケベック州の別荘にいるようだ」
「ケベックって、カナダの!?」
驚いて、凜はぴょこんと立ち上がった。
行き先はペンシルベニア州内か、せいぜいニューヨーク近辺だろうと思っていた。
さすが米国有数の富豪一族、やることが庶民感覚とかけ離れている。行き先がカナダの別荘というのも驚きだが、車にGPSがついているのも驚きだ。ウェズリーは、自分の車にGPSが取りつけられていることを知っているのだろうか。
「場所を教えてください。すぐに向かいます」
「行ったって中には入れないぞ」
「中に入れなくても、ドアの外から妹を説得します」
両手の拳を握り締めながら言うと、プレストンが可笑しそうにくくっと喉の奥で笑いを噛み殺した。
「残念ながら、厳重にロックされた門扉から玄関まで一キロほどある。きみのか細い声が届くとは思えないが」
門扉から別荘まで一キロと聞いて、凜は天井を仰ぎ見た。
まったく、学生なら学生らしく、駆け落ちするならせいぜい隣町の安モーテルくらいで手を打って欲しいものだ。
「……では、開けてもらえるまで門扉の前で待ちます」
凜の言葉に、プレストンが軽く眉をそびやかす。
「今から飛行機に乗れたとしても、着くのは夜だ。門扉の前で野宿しても構わないが、あの辺りは野生の熊やコヨーテが出没するのでお勧めできない。明日の朝まで待つというなら、誰かに案内させてもいいが」
思いがけない申し出に、凜は目をぱちくりさせた。
先ほどまでのとりつく島もない態度を思えば、これはかなり譲歩してくれたということではないだろうか。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、そうさせてください」
プレストンの気が変わらないうちにと、急いで返事をする。
「では明朝十時、会社の前に来てくれ」
「十時ですね。了解しました。どうぞよろしくお願いいたします」
アパートに帰って、さっそく荷造りをしなくては。
日本風にぺこりと頭を下げて、凜はそそくさとオフィスをあとにした。
【12月刊試し読み】傲慢紳士と蜜愛バカンス 角川ルビー文庫 @rubybunko
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