目的地
「あら……?」
「どうしたの、お母さん」
「なんでもないのよ、車がそこで止まったような気がしたの」
専属の医者が、最期になるかもしれない、と家族を夫の部屋に集めてから一時間が経った。
夫は昨日から意識を失ったままだそうだ。覚悟はしていたつもりだったが、いざその瞬間を迎えると、涙を堪えるのが難しかった。
「今頃、お父さん、何を見てるのかな」
娘がぽつりと呟いた。成人してからも夫に反抗し続けていたが、この別荘に夫を移してもそれは相変わらずだった。どこまでも意地っ張りな娘だ。
「まさかこんな時も車のこと考えてるのかなあ。エンジンがこうだーっ、とか部下に電話で叫んでさ」
声が震えている。こんな時、と聞いて、ある単語が思い浮かんだ。
「もしかしたら、走馬灯でも見てるのかもしれないわね」
「走馬灯?」
「死ぬ直前に見る幻覚のようなもの、と言われています」
医師が口を開いた。そのままその場にいる全員に向かって語りだす。
「この幻覚は、今までの人生の記憶をコマ送りのように猛スピードで映し出すんだそうです。産まれてから今まで、の全てを、です。なんでも、これは過去を振り返ることで、自分に降りかかる危機を取り除く方法を本能的に探しているそうですよ」
さすが、私たち一家と20年以上付き合ってきただけある。彼の小話は場の空気を適度に和らげてくれた。
娘に微笑みかける。
「お父さん、人生を車に捧げたような人だから、本能も車に染まっていたりして」
老人は、泣いていた。自分が、彼らの中心にいることが信じられなかったのかもしれない。震える口をゆっくりと開いて、再び感謝の言葉を口にしている。
「あんたは充分愛されていますよ」
僕は続けた。
「確かに、あんたは家族の方を振り返らなかったかもしれません。でもね、それでも家族はあんたから色々なものを得ていますよ、きっと。そうじゃなきゃ……あんなに見守ってもらえませんよ」
小さな微笑みが、老人の顔にこぼれた。
「こんなに……見送ってもらっているんだ。安らかに死なない方が失礼にあたらあな」
老人はこちらに向き直った。
「じゃあな、兄ちゃん。どう言う訳か知らんが、こんなものに捲き込んじまって、申し訳なかった」
「礼には及びませんよ。自動車会社の社長さん」
こちらの期待通り、老人は目を剥いて驚いてくれた。
「なぜそれを……」
「別荘の表札でピンと来ましたよ。珍しい名字ですもんね。この職に就く前、あんたの会社に入りたかったんです。この通り落ちちまいましたがね。就職した先でも、あんたのとこの車を運転できると聞いて、すごく嬉しかったんですよ」
苦笑するしかない、といった様子だった。
「それは悪いことをしたなあ……」
「いいんですよ、運命なんだから。……もしかしたら、俺じゃなくて、この車が選ばれたのかもしれませんね。あんたを走馬灯に連れてく役に。」
「そうかも……しれないなあ」
ある男の人生を賭けた車に乗って、ある男の人生を巡る。人に自慢はできないが、心の奥底にしまっておくには丁度いい話だ。
「そろそろ行かにゃあならん。それじゃあ、またな」
老人は、ドアを開けた。
私の一言で娘の何かが切れたのか、突然、堰を切ったように、眼から、涙が溢れた。すすり泣きは嗚咽に変わり、静かな室内に響いた。ああ、やっと私たちの前で泣いてくれた。この一週間、彼女が涙を流すのは皆が寝静まった後だけだった。
「お母さんは……寂しくないの……?もう……会えなくなっちゃうのに」
「そうねえ……」
悲しくない、といえば嘘になる。だが、別の感情のほうが心の中で大きな面積を占めていた。
「私はね、お父さんを褒めてあげたいの。ここまでよく頑張ったわね、って。 今までの人生、みんな車に捧げて、ずうっと働き続けで、お疲れ様って。ありがとう、って」
「そっか……」
「だからあなたも言ってあげて。ゆっくり休んで、って」
「うん……」
娘はどうにか涙を堪えて、笑顔を作ろうとしていた。父親を見送るのに相応しい笑顔を。
「お父さん、お疲れ様。今まで……今まで……ありがとう」
夫の顔が、気のせいかもしれないが、少し微笑んだように見えた。
In a revolving lantern 柳 小槌 @tuchinoko_87
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