停車

 老人の様子がおかしくなったのは、丘を下り切って、静かな別荘地に差し掛かった時だった。

「あ……!あ……!」

 先ほどまでの、貫禄すら滲み出るような威厳は跡形もなく消え去っていた。代わりに、彼の顔に表れていたのは、紛れもない、醜い焦燥だった。

「く、車を止めてくれ!今すぐにだ!金はいくらでも出す!」

「どうしたんですか、お客さん!逃げるんじゃあなかったんですかい!?」

「もうダメだ!おしまいなんだ、車を止めてくれ!」

 開いているのか閉じているのか、判断しかねるほどだった細い目は大きく見開かれ、絶叫する口許からは唾液が垂れていた。

「わかりました!今止めますから!」

 そう答えながらも、僕自身もパニックに陥りかけていた。さっきからブレーキは踏み続けているのだが、肝心の車が止まらないのだ。ブレーキが効かなくなり、アクセル全開のままコンビニへ突っ込んでしまう車の話はよく聞くが、この先は海だ。商品の棚をぶっ倒すていどではすまない。

 止まれ、止まってくれ、と、心の中で念じることしかできなかったが、幸運にも願いは通じてくれた。何の力が働いたのかはわからないが、車体はゆっくりと減速し、ちょうど一軒の別荘の前で完全に停止した。

 思わず胸を撫で下ろした。危機一髪だ。老人の絶叫も止んでいた。車が無事止まって安心したのだろうか。

「だいじょうぶです……か……?」

 逆だった。老人は、皺だらけの顔にくっきりと絶望を刻みつけ、弱々しく、震えていた。


「大丈夫なんですかい!?ねえ!?」

 肩を掴んで揺り動かす。老人には少し乱暴かもしれないが、こうでもしなければそのまま気を失いかねなかった。

 老人は茫然自失としたままだったが、大きく開かられた口からかすれ声が漏れ出た。

「もう……おしまいだ。私は、結局、何もできなかった。走馬灯もおしまいだ」

「走馬灯?」

 日常的な会話ではあまり聞かない単語が耳にひっかかった。

「どういう意味です?」

「私の走馬灯も終わりだ……。カニさんに追いつかれてしまった。もう、何もできない……」

 僕の頭は意味を読み取ろうとフル回転していた。ただのうわ言のようだったが、何か意味があるような気がしてならないのだ。

「どうか落ち着いてください!何もわからないじゃあないですか!」

 つい、客に向かって声を荒げてしまった。慌てて口を押さえたが、混乱状態の老人にはむしろいい気付けになったらしく、徐々に瞳に落ち着きが戻っていた。

「あんたも……幻の一部じゃあないのか」

「何を言うんです?僕はただのしがないタクシー運転手ですよ!お願いですから、落ち着いて話してください。走馬灯ってのは何です?」

 老人はゆっくりと口を開き、信じられないことを口にした。

「何って……俺ァ今、走馬灯を見ているんだ。死ぬ直前に、な」

 頭の中に到底理解できない情報が放り込まれたのに、パズルのピースははまるような感覚があった。

「じゃあ……運転してる道が変わっていったのも……時間がおかしくなっていたのも……」

「ありゃあ……俺の過去の記憶だ。産まれてから、今まで、全部、の」

 まだまだ聞きたいことはたくさんあった。

「じゃあ、カニさん、というのは?」

「ガンの事だ。ガンは英語でcancer、カニだ。他人に自分の病状を知られたくない時に使う隠喩のようなものだ。…もう、末期なんでな」

 なんてことだ。

 僕は今まで末期ガンで三途の川に片足を突っ込んだ死にかけの老人の走馬灯を巡る旅をしていたのか。アホらしいが、妙に説得力がある。

「それじゃあ、もう一つ、質問させてください」

 老人が顔を上げる。冷静さを取り戻してはいたが、瞳には、まだ生にしがみつくような、後ろめたさがにじんでいた。

「運転している間、外を見て、女がどうだ、とか男がどうだ、とかおっしゃってました。あなたは……何を見ていたんですか?」

 問いに答えるため、ゆっくりと開く口は、震えていた。

「過去の、自分だ。ああ、俺が家族を仕事のために見捨てて、苦しめた、その最低の男だよ」

 悪い予感が当たってしまった。やはり、あの言葉は昔犯した過ちに向けたものだった。

「そのことに気づいた時には、ガンのせいで体が動かない。死ぬ直前に、走馬灯の中で償おうとしてもダメだ。ただ眺めているだけだった。あいつらにとって、最低な夫、最低な父親のままで……このままで……死にたく、ないんだ……」

 そのまま、老人は、ドアに寄りかかって泣き崩れた。老爺の最期の願いにしては、あまりに些細なものだった。

 耐えられずに、視線を外へずらす。

 その時、眼が別荘の窓の奥を捉えた。それが、すべての答えだった。

「ねえ、お客さん……案外、そうじゃないのかもしれませんぜ」

 後部座席に再び振り返り、呼びかける。

「だって、あれ。見てくださいよ」

 指を指した先には、家族が老人を囲み、優しく見つめる、このうえもなく美しい光景があった。

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