病院前

「次は、西病院前、西病院前。お降りの方は、ベルを押してください」

 間抜けな人工音声が、唯一の乗客である私だけのために鳴り響く。この世の中で、二番目に嫌いなものはバスだ。うるさくて、図体ばかりでかくて、その上遅い。なのに、どうして私はその醜悪な乗り物に乗っているのか?答えは単純、我が家の唯一のドライバーは、病気だと言って入院しているからだ。そしてその病院は私の目的地でもあった。

 自分のしていることが嫌で嫌で仕方がなかった。あんな父親の見舞いに行かなければならないだなんて!しかも、友達との約束をキャンセルしてまで、だ。

 この世の中で、一番嫌いなものは父親だ。第一に、何を考えているのかわからない。顔を合わせて食事をする時でさえ、無表情で、心ここにあらず、といった感じだった。その上、機嫌が悪いと家族に露骨に冷たくなるのだ。母は、仕事が忙しいから、といつも言うが、無性に腹が立って仕方がない。自分がこんな男から生まれてきたことを、信じたくなかった。

 着信音に気づいて、慌ててケータイを開く。男友達からのくだらないメールだった。社長令嬢と言う肩書きのせいで、口だけのつまらない男が数え切れないほど寄ってくるのも悩みの一つだ。同性から逆恨みされることも少なくはない。こっちだって好きでなったわけじゃないのに。

 停留所に着いてしまった。降りるのをやめてしまおうか、という考えが頭をよぎったが、母の顔を思い出すとそうもできなかった。彼女だけを苦しませるわけにはいかない。

 玄関まで辿り着く頃には、目に涙が浮かんでいた。ドアを開けるのすら気が重い。扉に背をもたれると、ずるずる、と自然に尻が落ちていった。

 正にその時だった。一陣の風が、鼻先をかすめていった。車が走り去るような音がしたが、肝心の車が見えない。近くの道路を見回してもやはり何もいない。噂の怪奇現象だろうか。

 このことさえも、父親のせいに思えてきた。かっとなって、扉を蹴りつけても、空虚な音が響き渡るだけだった。


「見たか……今の」

 半ば大げさにため息をつく。また始まった。狂人の相手をした分の手当は会社から支給されるのだろうか。今度は何を見たのだろう。

「病院の前で、しゃがんでいた女がいたろう」

 慣れとは恐ろしいもので、全く気にせず運転に専念できるようになっていた。老人は、静かに続ける。

「あんなに泣きはらしおって。しかも、あの泣き方は悲しくて泣いたんじゃあない。憤りからくる涙だ」

 どうやら山を下る一本道に入ったようだ。対向車もない道をひたすら下るのも気が滅入るので、暇つぶしにうわ言に耳を傾ける。

「父親だ。悪いのは全て父親なんだ。あの娘は何も悪くないんだ。父親が、仕事なんぞのためにその他の全てを犠牲にして……」

 しばらくすると、一定のパターンがあることに気づいた。まず、窓の外に誰かを見つけること。誰を見つけるかはあまり決まっていないようだ。次に、どうやらその人物が男性のせいで酷い目にあっていることを淡々と呟く。ここで非難されるのは男のみで、その人物は単純な被害者として説明されている。狂人の言うことの割には、筋が通っている。ただし、それが実際に見えていたら、の話だが。彼がいるのは高速で走る車の中である。人の顔を見分けることも難しいのに、一目見ただけで家庭の事情までわかるものか。やはり幻覚でも見ているのだろう。

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