住宅街

 町は寝静まったが、夫はまだ帰らない。

 小さな自動車会社の社長の一人息子として、年齢に似合わない重役を任せられた夫とは、近頃めっきり会話が減ってしまった。いつ帰るかも定かでない彼を、ダイニングで一人、待つのも慣れてきた。暇つぶしになるかと思って買った分厚いシリーズ物の推理小説は、三冊目に突入しようとしている。

 インターホンの音がした。やっと帰ってきたらしい。本にしおりを挟み、疲れた夫を出迎えに玄関へ向かう。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 そっけないが、これでもましな方だ。もう少し会話を広げてみても大丈夫かもしれない。

「今日はシチューよ。あなた、好きでしょう」

 返事はない。今日はこれくらいが限界なのだろう。冷えた夕食を温めに、キッチンへ向かう。

 鳩時計が11時を告げる。いつも通りの帰宅時間だ。世間は空前の好景気で、どの家の旦那さんも7時には家族と食卓を囲んでいるらしいが、夫は違った。昔、言っていた目標の通り、親から受け継ぐ会社を大きくするのに必死なのだろう。

 下に降りて、夕食を前にしても、まだ紙の上にペンを走らせていた。書いていることは、正直、全く理解できない。車の設計が専門らしいが、それ以外の仕事もこなしているそうだ。

 突然、深夜だというのに、轟音が響き渡った。何事かと窓に駆け寄って外を見たが、何も見えない。私の空耳だろうか。

「今の車、うちの会社のだな」

 いつの間にか深夜の会議を終えた夫が、ぽつりと呟いた。

「あら、わかったの?」

 二重の意味で驚いた。話しかけてくれたことと、もう一つ。

「音だけしか聞こえなかったじゃない」

「いや、一瞬だけ車体が見えた。あのドアの構造を採用しているのは、日本ではうちだけだ。タクシーだったから外車と言うのは考えられないだろう」

 さらに驚いた。私が見えなかったものを、彼は細部までしっかり見抜いていたのだ。

 やはりこの人は自動車に人生をかけているのか、と思うと、おかしくなって、つい吹き出してしまった。


「おい」

「ハイ、なんでしょう」

 老人が突然口を開いたのは、比較的大きな邸宅が並ぶ区域を走っていた時だった。口調から、苛立ちが漏れているのがはっきりとわかった。

「今の……家、見えたか?」

「今の家と言われましても、走っている車からはなかなか見えないものでして……」

どうやら僕の勘は間違っていなかったようだ。この老人は、正気を失っている。自分で急かして速度を上げさせたくせに、今度は窓の外の家を気にしろだなんて。かなりイカれている。

「見えなかったのか、あの薄情な夫が。遅くまで帰宅を待ってくれた妻をほっぽり出して、食事中でさえ仕事の電話をしてやがる。妻の身にもなれないのか、あいつは」

 うわ言まで言うとは。これは精神病院にでも連れて行く必要があるかもしれない。以前読んだブログに、『精神病患者に否定の言葉を投げかけてはいけない』という教えがあったことが唐突に思い出された。こんなくだらない知識も案外役に立つのかもしれない。

 ふと気づくと、鳥の鳴く声がする。自分の見ている光景が信じられなかった。日が高く昇っているのだ。老人を乗せたのが夕方だったから、もう12時間以上走っていたというのか。にわかには信じられない。

 住宅街を抜けたタクシーの向かう先は、丘の上の病院だった。

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