下町
「父ちゃん!」
少年は父を認めると、弾丸のように走って丸まった背中にしがみついた。
「おう、なんだい、まだいたのか。そろそろ帰らないと母ちゃんに叱られるぞ」
父は息子に応えるために作業を中断し、そう言った。父の背後のくすんだクリーム色の自動車は、今、まさにタイヤの交換が終わったところだった。
「この車は『どちらさま』のなの?」
自慢したくて、母の井戸端会議で初めて聞いた言葉を使ってみる。父は微笑んで、常連の小金持ちの鉄鋼会社の社長の名前を答えた。正直なところ、あまり興味はなかったので、ふうんと言って駄菓子屋で買った飴玉を口に放り込む。
そうこうしているうちに修理は完了していた。父はこの辺りで一番仕事が早いと評判らしいが、その噂に間違いはないだろう。
「おお、もう終わったのかい」
依頼主の社長だ。坊ちゃんもいたか、と声をかけられたので元気よく挨拶する。
「もう大丈夫ですよ。お代は近日中にいただければ」
「いつもすまないね。頼りにしてるよ」
常連が乗り込んだ自動車は、まるで新品のように生き生きと帰路を走っていった。
「母ちゃん、今日の晩飯はなんだって?」
二人でガレージの地べたに座り込む。少し硬いが、あまり気にならない。
「シチューにするって!父ちゃんの好きなやつ!」
「そうかあ、それなら早く帰らなくっちゃあな」
少年は、この時間が好きだった。父と二人で話しながら浴びる夕陽は、いつもとは少し違った。仕事が終わると、いつも満足そうに微笑む父を、彼はいつも尊敬していた。
いきなり目の前を一台の自動車が恐ろしいスピードで走り去った。一陣の風が巻き起こり、前髪を揺らしていった。身を乗り出して走っていった方角をにらんだが、もう既に見えなくなっていた。
「父ちゃん、今の車、速かったねえ」
父は怪訝そうにこちらを見て、言った。
「今、車なんか走ってたか?すげえ音はしたけどよ」
いや、僕の気のせいかもしれないな、と思い直して、幾分か小さくなった飴玉を噛み砕いた。
タクシーは黄昏時の下町を猛スピードで駆けていた。こんなところに昔ながらの下町があったとは、知らなかった。特に、一瞬、目でとらえた自動車修理業者のガレージが車好きの心をくすぐった。暇ができたら訪ねてみよう、と決める。
肝心の追っ手は全く来る気配がなかった。いや、もしかしたら僕の目には見えてないだけで着実に、じわじわと近づいてきているのかもしれないが、少なくとも目に見える形で追ってきてはいなかった。張り合いがなくて、やや飽きてきた。
バックミラーで様子を伺うと、老人はずっと窓の外ばかり見ていた。切迫した状況だというのに、頰を緩め、懐かしむような様子でさえあった。
「あのお……」
「どうした?」
「そろそろ撒けましたかね、追っ手」
遠慮がちに尋ねる。気付かれないように、ゆっくりとスピードを緩める。
「何を言っているんだ。さっきより近づいているぞ。ほら、もうこんなに近くに……」
やはり僕には見えない。この老人は精神を病んでいるのではないか、という疑惑が頭を過る。
「あいつらから逃れられるならどこへ行ってもいい。金も好きなだけ出そう。だから、速度を上げてくれ」
半分ヤケになって、アクセルを踏みなおす。いつの間にか夜の住宅街の中にいた。
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