In a revolving lantern

柳 小槌

乗車

「逃げてくれ!追われている!」

 ケミカルな味のエナジードリンクより目が覚める一言だった。まさか自分がこのセリフを言われるとは思っていなかった。タクシー運転手なら誰もが一度は夢見るセリフだ。刑事ドラマでは、こういう時にどのように返していたっけ?必死に記憶を漁って、一世一代の見せ場に備える。

「あ、あいよ!俺も昔は巷じゃあ……」

 やっと決めた一世一代の覚悟も、後部座席を振り返った瞬間に消えてしまった。だって、こんな……

「何をしてる?早く進まんか!もうすぐそこまで来てるんだぞ!」

 ……こんな、今にも死にそうなご老人に言われるとは思っていなかった。


「聞こえとるのか?」

「は、ハイッ!」

 条件反射でアクセルを踏む。しばらくして、自分の唯一と言っていい見せ場を逃してしまったことに気づいたが、そんなことを気にしている暇はない。後部座席からの苦しそうな喘ぎ声が収まるのを待ってから、老人に尋ねた。

「ところでおじいさん、一体何から逃げてるんですかい?」

「カニさんだ」

「はい?」

 全く予想していなかった答えにつんのめりかける。

「ちょいとばかしでかいカニさんがすぐそこまで迫ってる。できるだけ時間を稼いでくれ」

「はあ、カニさん、ですか......」

 どうやら僕が想像していたような、硬派でサスペンスな事件ではないらしい。

 もしかしたら『カニさん』とは敵組織を指す隠語かもしれない、と自らを慰めつつ、もう一度乗客に目をやった。着ている燕尾服はかなり高級なものらしいが、肝心のそれを着る人間は貧弱を絵に描いたようだった。中身が抜け切った抜け殻を、魂が意地だけで動かしているようだな、と思った。こんな哀れな老輩を誰が追いかけているのだろうか。

 前方に意識を戻すと、フロントガラスに広がっていたのは見知らぬ道だった。思わずブレーキを踏みかける。冷や汗が体の至るところから吹き出した。タクシー運転手にとって自分の現在地がわからないということは致命的だ。研修中も先輩ドライバーに付近の地図を頭に叩き込むように言われたではないか。ナビ代を出し渋ったケチな社長を恨んだ。

「もうちょっと、速く走ってくれないか」

 後部座席からの呼び声で我に返った。了解です、と返事をしてアクセルを踏む足を強める。制限速度を超すか越さないかの瀬戸際だったが、緊急事態だからと自分に言い聞かせた。

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