樹海の水底
朽ちかけた古い社の裏側には、もう若い杉の木がのびのびと背を伸ばし始めていて、ところどころ穴の空いた赤い屋根の社屋を、その針の山のような枝で、覆い隠さんばかりに茂っていました。社屋を取り囲むのはどれもずっと古い年老いた立派な杉の木ばかりで、樹皮はすっかり乾いて化石のようでした。蛇のように走る根本は苔生し、もう元の土塊すら見えない有様です。古い古い時代の人々が引いた本堂に続く石畳の道は、かろうじて形は残っていましたが、丈夫な杉の根がその下を何本も勝手気ままに通っていましたから、ところどころすっかり持ち上がってしまい、そこにもびっしりと苔が生えてしまっていました。オルトは、そのだいぶ歪んだ参道の正面に立って、もう周りの杉の木よりも、ずっと色あせて茶色に変わってしまった、傾いだ古い神社の社屋を眺めながら、社屋の屋根が曲がった方向に、知らず知らずのうちに首を曲げていたのでした。朱に塗られた鳥居は、すっかりと色あせてしまい、華やかな粘菌に、ところどころ覆われていました。隙間の多い杉の葉からの木漏れ日は、明るいけれども意外なほど少なく、夏の強い日差しといえども、厚く沈んだ深山の森のエステルに遮られて、たちまち勢いをそがれてしまうのでした。この深い森を漂う、緑色の上質な瓦斯の中では、吸って吐き出した息すらも、苔のかけらになって、周囲に沈殿するように思えました。
「このお社も、良くも倒れずに立っているものよね」
彼の足元に這って来た一匹のクモが、二本の前足を高く揚げながら彼に話しかけました。
「わたしもずっとお堂の中に住んでいたのだけれど、随分前に逃げ出したわ。それでも、あれから少しまた傾いたみたいだけれど、そう簡単には崩れないものね」
「昔の建物というのはよく粘るものらしいよ。材木のつなぎ目にゆとりがあるらしい」
オルトは大人びた声で、そう言いました。
「こんなふうに傾いてまで立ってるのを予想してたのかしら。そうだとしたら、気の長いことね」
クモは前足を高く上げて笑いました。
「君たちの作る巣だって、割と丈夫に作ってあるだろう。蝶やバッタが暴れても壊れないくらいに」
オルトは、苔の上に白い膝の出た足を投げ出すと、足元のクモを見ながらそう言いました。
「あれは頻繁に手入れしているのよ。放っておけばあちらがほつれ、こちらがほつれしてしまうから。人間は餌を取ってるところしか見てないから、そうとも思わないんでしょうけど」
クモは、そう言うとため息を付きました。
「このお社だって、本当は誰かがこまめに直してくれるのを期待していたんでしょうけど、もうこれじゃあ、手の施しようがないわね」
クモはまるで大工のような気持ちでそう言いました。
「昨日、久しぶりに中に入ったら、社の屋根はところどころ穴が開いてて、そこから新しい杉の子が一本顔を出していたよ。まだ世界が明るいのに驚いているみたいな、ほんの幼い若木だった」
オルトはその杉の木が生えているあたりを指差しながら言いました。
「あの子があのまま大きくなれば、いずれこのお社も完全に崩れてしまうんだろうね。杉板の壁は、もう周りの倒れた杉の木と、見分けがつかなくなるんだろうなあ」
「あの赤いピカピカ光る屋根は、それでも残るのかしら」
クモが緑玉のように光る目をきらきらとさせながら言いました。
「あれは何か色の塗られた銅板のようだけれど、いずれ塗料が完全に禿げてしまったら、たちまち青い緑青に変わって溶けてしまうだろうねえ。こちら側はまだ、少し新しいから色が残っているけれど、古いところはすっかりもうそうなっているよ」
オルトの言う古いところというのは、社の裏側の屋根のことを言うのでした。最後の改築の時、表に面した側の屋根だけでも取り替えたので、こういうことになってしまったのです。
「じゃあ、何もかもみんな、この森のなかに消えていくのね」
クモが言いました。
「石畳も灯籠も最後には苔に覆われてしまうんだ」
オルトが言いました。
「海の底には生物の亡骸が白い雪のように積もっていると聞くけれど、ここの苔はまるでそのようだねえ。苔は緑の亡骸なのかしら」
クモは話に飽きたのか、手元で小さな網をこさえて遊んでいましたが、そこにふわりと風が吹いて、危うく飛んでいきそうになりました。杉林に風が吹きますと、高い高い乾いた樹冠から、幾つもの古い鱗のような枯れた杉の葉が、パラパラと振ってくるのでした。茶色いそれは苔につもり、いずれまた苔に覆われ、緑の丘の階層を、一段と高くしていくのでした。
「またこうして、緑の亡骸に、亡骸が積み重なっていくんだ」
オルトは独り言のように言いました。
「僕、地球は大きな玉子のような構造で、そう例えるなら、地面は卵の殻よりも尚薄いって、何かの本で読んだよ」
「あら、そうなの」
クモは一人であやとりをする手を止めました。
「モグラだってミミズだって住んでいるのに、それでもそんなに薄いのかしら」
「例え話だからね。でも、それでも僕らが見て触れることのできる世界は、ほんの薄い皮の一枚ってことさ。それより深い世界は、どうしたってしようがない。岩盤が隆起して、その地面の底が、表にめくれ上がってでも来ない限りはね」
「これだけ亡骸が積もっても、まだ、そんな薄皮みたいな世の中だなんて、いきものは、たとえ何千年経っても薄皮の上で生まれて、薄皮の上で死んでいくだけなのかしら」
「そもそも、薄皮の上で生まれた命じゃないか」
オルトが言いました。
「舞台の上の物語の登場人物は、舞台の外には出られないんだ」
傾いた社は、くっつくように生えた杉の木が、風でゆらゆらと揺すられる度、一緒に揺れて、ぎぎい、ぎぎいと音を立てました。鳥すらもいない森の中、声らしい声といえば、クモとオルトと、そしてこの社の立てる悲しげな音だけでした。杉たちは林の上で何やら囁いていますが、それはこの古い瓦斯の底に生きる彼らの耳には、届きませんでした。古い社の鳴き声は、風の通る明るい木立によく響きました。おそらく同じ木材どうし、よく反響するからでしょう。オルトは耳を澄ましました。何度目かの風が流れた時、どこか遠くから、彼らの知らない、別の社の声が聞こえてきました。クモとオルトは、思わず顔を見合わせました。音は、風が少し強く吹き出すと、よりはっきりと聞こえてくるようになりました。どこから鳴っているのか、彼らが見渡しても、その方向にはただ深い木々の列があるだけでした。ですが、音はその深いガスの向こうから、今も確かに聞こえ続けていました。オルトは海に暮らすクジラたちが、お互いに見えないような位置から、歌を歌って存在を確認し合うという話を思い出していました。たとえ人の耳には聞こえなくとも、深い海の底はクジラたちの歌で満ちているという話でした。オルトはくじらを見たことがなく、ましてや、歌など聞いたこともありませんでしたが、きっとこの古い社の軋む声のような、切ない声なのだろうと思いました。そして、あるいはこの一見静寂な樹海の水底の瓦斯の中にも、彼らの耳には聞こえないだけで、孤独の中で歌われる悲壮な歌は満ちているのかもしれないと思い、二人は暫し、口をつむぐのでした。
廃墟の虚構 @Aoshima-yo
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