廃校の雨の音楽

去年の暮に積もった雪の重みで、ついに屋根が真ん中から崩れ落ちて、鉄骨が周りに吹き出した、かつての体育館の亡骸を見つめながら、マリイは息をするのも忘れていたのでした。もう廃校になったのはいつだったか、いえ、この町も放棄されてからどれほどの月日が過ぎたのかもう誰も識らなかったのですが、錆びてくち始めた体育館がついに雪の重みで崩れた時、その軋む鉄骨の悲鳴にもにた背筋を擦るような轟音を唯一聞いたのがマリイでした。

「君も毎日飽きないものだね」

校庭の脇の白樺が、青々と茂った葉をカサカサと揺すって言いました。

「これを見ていると、なんだかとても大きな息をつきたくなるの。そして、自分が冷たく凍ったため息を吐いている気がするの」

マリイはそう言いました。

「君たちは温血動物だから、ため息が凍ることはないだろう」

白樺は笑っているようでした。

「こういうのを見ているときは別よ」

マリイもなにかおかしくなったのか、少し笑っていました。

積もった雪はすっかり溶け、あたりはすっかり春でした。鳥の鳴き声は殆ど聞こえず、聞こえるものといえば、かつて辺りに植えられた白樺たちの、歌うような葉のざわめきだけでした。町を吹き抜ける透明なせせらぎのような風も、ただ白樺たちの葉を揺するときだけ、そうして音に変わるのでした。

「私たちは死んだら土に帰るけど、体育館は土に帰らないじゃない?でもこうしてみていると、彼らもいずれ土に帰るのよね」

「彼らは土には帰らないさ、ただ瓦礫の山に変わっていくだけだよ」

白樺がカサカサと音を立てました。

「でも、鉄だって、元は土から掘り出された石じゃない?なら帰っていくことにはならないかしら」

「鉄は昔から、土の中にあったわけじゃないんだ。あれは海から来たんだよ」

白樺はささやきました。

「遠い遠い昔、僕ら植物のご先祖のような生き物が、酸素のなかったこの空に、酸素を与えて、青く染め上げたんだ。その時、海の鉄はいっせいに酸素と結びついて、赤い鉄さびに変わって、海の底に降り積もったのさ」

「じゃあ、それまで空は何色だったの?」

マリイは白樺に尋ねました。

「さあ、それは僕も聞いたことが無い。火星のように赤かったのかもしれない。金星のように黄金色だったのかもしれない」

白樺は笑っていました。

「ともかくも、後は長い大地の運動で、海だったところは山に持ち上げられ、そして鉄の層として、人間が掘り出すようになったのさ」

「体育館が海から来たなら、海へ帰っていけたらいいのに」

マリイはそんなことを思いました。でも、地上に振った雨もいずれ地下に集まり、そして川を下って海に流れているのですから、この丘で朽ち果てた体育館も、いずれは海へ降り、そして深い海の底に沈むのかもしれません。人がずっと遠くに引っ込んでしまったこんな世界でも、そうした万物の循環だけはしぶとく生きていたのでした。

「あなたは海ってみたことある?」

マリイは白樺に尋ねました。

「僕は無いな。遠い昔に農場で育てられて、この学校の何十周年だったかの記念で植えられて以来、ずっとここに立っていたから」

「わたしは何度かあるんだけど、生き物はみんな、あそこから生まれたんでしょう?鉄も海から生まれて、生き物も海から生まれたのなら、土に帰るのじゃなくて、帰るべきは海なのかしら」

「あるいはそうかもしれない」

白樺は言いました。

「でも、見たことのないところに帰れと言われても僕はなんだか愛着がわかないな」

白樺は少しく枝を揺すって、聞いたことしかない海というものを考えていたようでしたが、それが根に染みる塩水だということを思うだけで、なんだか根の先が僅かに縮むような思いがするのでした。

「たしかにそうよね、懐かしいから帰りたくもなるんであって、識らないなら懐かしいわけないもんね」

マリイは言いました。

白樺が少し騒がしく枝を揺らし始めましたので、マリイは雨が来ることを悟りました。彼女はまだしっかりと立っていた、白いコンクリートの校舎の影に隠れて、雨がふるのをやり過ごしました。彼女は雨が好きでした。特に、静かな校舎の窓から見る、真っ直ぐで雨音のはっきりした五月雨がとても好きでした。厚い雲の散乱で、世界はたちまち、影のある淡い紫色に変わって、そして、窓を開けると清潔な湿った風とともに、あたりほとり覆い尽くす無限の雨音が静かな教室に反響するのでした。白樺たちはと申しますと、大きな雨粒にあたって、一層激しく、葉を揺らしているのですが、それは久方ぶりの雨に喜び、踊っているのでした。

どこからかピアノの音も聞こえてきました。マリイの他に誰もいない校舎ですから、きっとこれは彼女の頭のなかにだけ鳴り響いているのでした。雨の音は聞き方次第で、音楽にも歌にも変わりました。そして全てが一度きりの、儚い音楽なのでした。

白樺が海はあったというのですから、まだ酸素のなかった空にも、きっとこうして雨は降ったのでしょう。何色の空だったかは知りませんが、曇ればきっと今のように、影の多い世界にさっと色を変えたに違いありません。鉄もヒトも白樺も全て海に帰ったなら、また万物は一からやり直すのだろうか。それとも、この歌のように全ては一度きりの音楽なのかしら。マリイは雨の降る窓辺を頬杖付いて眺めながら、ヒトの引いてしまった町を見つめていました。

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