第4話 セクハラの冤罪
「あの……ありがとうございます」水色の人魚は、うやうやしくお辞儀をした。「こんな風に、人間の方に助けていただけるなんて……」
「そんなに丁寧にお礼を言ってもらわなくても大丈夫ですよ。とにかく……貴女は、早く海へと帰って、その傷の手当をしてください。貴女の負った傷は、とても深いんです。人魚の治癒能力が非常に高いとはいえ……全治2ヶ月の怪我というのなら、治るまで結構大変でしょう? ちゃんと手当をしてから、ゆっくりと療養してください」
「そうはまいりません。私には、まだやり残していることが、ありますから」傷の痛みと貧血で辛そうにしながらも、彼女ははっきりとした口調でそう告げた。「私がどうしても、ここでしなければならないこと、それは――ヤツメさんに、助けていただいたお礼をすることです」
「え……お、お礼をいただけるんですか……!?」
その魅惑的な単語に、身体と心が反射的に反応してしまった。貧乏性な我が身が悲しい……。
たしかに私は、彼女の窮地を救ったわけだから、お礼を貰える権利くらい、あっても良いはずだった。
しかし……彼女を助けたのは、あくまで、市民生活課の仕事として、やっただけのことだ。冷静に考えれば、こんなことでいちいちお礼を貰うわけにはいかない。悲しいけれど……彼女の好意は、慎んで断ったほうが良いかもしれない。
「……お礼なんて、必要ありませんよ。どうか、お気になさらないでください」内心では、もったいないなあと思いつつも、私はそう答えた。
「そんな不誠実なことは、できません! 受けた恩は、必ず返さなければなりません。いただいた施しは、必ず返すものなのです。そうでなければ、私自身が、嫌なのです。ですから……どうか、遠慮なさらずに、おっしゃってください。助けていただいたお礼を、させてください!」水色の人魚は、大きな瞳で真っ直ぐこちらを見つめながら言った。
なんて、良い人魚なんだろうか……。私の心の中に溜まった穢れが、取れていくようだった。社会人として仕事をしていると、心が汚れていくからなあ……。
「貴女のお気持ちは、とても嬉しいんですよ。ですが……本当に、お礼はしていただかなくて、大丈夫なんですよ。なんといっても私は……公務員ですしね。下手にお礼なんて貰ってしまうと、場合によっては、賄賂だの献金だのということで文句を言われかねないんですよ……」
もっとも、私のような下っ端の職員なんて、権力なんて持っていないに等しいから、そもそも賄賂を渡される価値すらないんだけれど……。
「そんな……私だけ、一方的に助けていただくなんて……。あまりに申し訳がなくて、このままでは海へと帰れません……。どんなことでも良いので、お礼をさせていただきたいのです……」
「いえ、ですから私は本当に――」
「どうか遠慮なさらずに……!」
なんて、融通の利かない人魚なんだろう……。せっかくの親切心も、度を過ぎてしまえば、ただの押し売りになってしまう気がするんだけど……。
彼女は、恩義を大切にする律儀な心を持ちながらも、なかなか頭の堅い人魚なのかもしれない。
だとすれば、彼女から何かお礼をしてもらうまで、このまま延々と、押し問答が続くんだろうか……困った。そうはいっても、金銭的な価値のあるものを貰うのは、やはり良くない気がする。
となれば――
「分かりました……それでは、こうしましょう。貴女の、水掻きを触らせてください」
「はい……えっ。あの……何と、おっしゃりました?」
「貴女の、その指の間についている、水掻きを私に触らせてください。お礼をしていただけるというのなら、それで十分ですよ」
「あの……?」水色の人魚は、眼を泳がせながら、明らかに動揺した素振りを見せた。
どうして、そんなに妙な反応をするんだろうか……?
正直なところ、私としては、そんなに水掻きを触ってみたいと思っているわけではない。特に執着があるわけでもないし、興味があるわけでもない。ただ単に、水掻きなんて人間にはついていないものだから、触ったらどんな感触がするのかなあ……と今ふと思いついただけだった。
しかしだからこそ、良いわけだ。
人魚の水掻きを触らせてもらう行為になんて、ほとんど価値は無いし、特に意味も無い。しかしそれでも、お礼をしてもらったということには、ちゃんとなる。
だから……この状況で、手を打つポイントとしては、このくらいが丁度いいはずだ。
「ひ、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか……」妙に動揺した様子で、水色の人魚は、質問をしてきた。「ヤツメさんにとって、私の水掻きに触れることは、それだけの価値がある行為なのですか? せっかく助けていただいたお礼だというのに、本当に、それでよろしいのですか……?」
実際のところ……水掻きを触らせてもらうだけなんて、彼女の窮地を救ったお礼としては、全く割には合っていない。ただ、それを正直に伝えたら、彼女は納得してくれないかもしれない……。
「ええ……構いませんよ。貴女の透明感のある水掻きの感触だけで、私は満足ですから」
「は、はい……! ま、まさか、人間の中にも、そのような方がいらっしゃるとは、思いもしませんでしたけれど……。わ、分かりました。ご、ご自由にど、どうぞ……!」
そう言いながら、彼女は、片手を私の方へと突き出してきた。それから、私が水掻きに触れやすいようにと、指の間を大きく広げてくれた。
しかし――どうしてなのか、その手は、小刻みに震えていた……。
「それでは……触りますけど、良いですか?」
「は、はい……!」
どうして……彼女は、こんなに困惑したような反応をしているんだろう。水掻きなんて、触ったところで、何も起きないはずなのに。
なんにせよ、さっさと触って、終わらせてしまおう。
私は、彼女の水掻きを指でつまんだ。
――水掻きの表面は、海水で濡れていて、とてもヌルヌルしていた。それに……かなり薄い。うっすらと向こう側が透けて見えるくらいの厚みしかない。それなのに、思った以上に弾力があって、丈夫そうだった。
触ってみた感想としては……割と独特な感触で、冷たくてスベスベしている、という感じだ。触っていて、結構気持ちが良かった。
「あ、熱い……」水色の人魚は、目をつむり、少しだけ顔を赤くしながら、身体を震わせた。
熱いというのは……もしかして、私の指の温度のことなんだろうか?
海の生き物というのは、基本的に、陸の生き物よりも、ずっと体温が低い。冷たい水と、同じくらいの体温しかないらしい。
そして人魚の体温というのは、魚と人間の、ちょうど中間くらいだと聞いたことがある。だから、人間に直接触れられると、少し熱いと感じるのかもしれない。
「そ、そんなに熱かったですか? すみません」私は急いで手を離した。
「いえ、お気になさらないでください。これは――私からヤツメさんへの、せめてものお礼の気持ちなのですから。先ほどは、危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました。このようなことくらいで、ヤツメさんにご満足いただけたのでしたら、私は嬉しいです」彼女は、少し頬を赤らめ、水色の瞳を潤ませながらも、どこか安心したように微笑んだ。
何だろう、この状況は……。
なにか――おかしなことに、なってはいないだろうか?
ただ単に、私は、彼女の水掻きを触らせてもらっただけだ。予想では、ちょっと触って、はい終わり、となるはずだった。
それなのに……実際の彼女の反応は、想像していたのとは全然違う。
どうして彼女は、少しはにかんだ様な表情をしているんだろうか? それに、なにやら……珍奇ものでも見るような、妙な視線を向けられているような感じすらする。なにもかも、私の気のせいだと良いんだけど……。
なんにせよ――これで、事態は深刻なものにならずに済んだわけだ。
あの肥満男が、水色の人魚の肉を食べようとしていると聞いたときは、本当にどうなることかと、冷や汗ものだった。
もしも本当に、彼が人魚の肉を食べることに成功していたら……少しだけど確実に、人間と人魚の関係は、悪化していたところだった。彼は確実に、人魚たちから報復の対象となっていただろうし、恨みと復讐の連鎖は、加速していたはずだった。
けれど――最終的に、肥満男は、人魚の肉のことは、綺麗に諦めてくれた。だからもう、心配しなくて良いだろう。
それに、今日出会った水色の人魚が、本当に良い性格の人魚だったことは、嬉しい誤算だった。
――彼女は、鉄の杭で下半身を穿たれて、大きな傷を負ってしまった。全治2ヶ月くらいの怪我らしいから、普通なら、感情に任せて怒ってもいいところだ。
それなのに彼女は、「人間に対して、個人的に報復することは、全く考えていませんよ」と言ってくれた。それどころか、私に感謝の気持ちまで伝えてくれた。
そしてその後――水色の人魚は、貧血でフラフラになりながらも、弱々しくも優しそうな笑顔を浮かべながら、海へと帰っていった。
ただし結局最後まで、珍しいものでも見るような目で、チラチラと私のことを見ていた……。一体あれは、なんだったんだろう……?
とにかく……これで、ようやく安心して帰ることができる。
洞窟の外へと歩いて出ると――雲一つも無い爽やかな青空が出迎えてくれた。心地よい風が吹いていて、波もとても穏やかだった。本当に良い天気だ。
こんなにも晴れやかな天気に出迎えられてしまうと、こんな平穏な日々が末永く続いてくれますように――と、願わずにはいられなかった。
食欲と色欲のアクアマリン 波間 @namima1600
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