第3話 神をも恐れぬ腹の虫

「おいお前、そこで、何をしてるんだ!」唐突に、野太い大声が洞窟内に響き渡った。

 私は慌てて声の聞こえた方へと顔を向けた。

 洞窟内の――私のいる位置から、ほんの数十メートル離れたあたりに、誰かが……いるようだ。

 二本脚で歩いているから、人間なのは、間違いない。それに、さっきの声からして、男性のようだった。


 ……人間の男が、こんな洞窟の奥深くまで、一体何の用事があって来たというんだろう。

 この洞窟の内部は、干潮の時間帯なら、こうして自由に歩き回れるけれど、満潮の時は、海中へと沈んでしまう。だから人間にとっては、迂闊に近づいたりしたら、大怪我をしたり、運が悪いと溺れてしまったりするような、本当に危険な場所だった。だから、よほどの理由でもない限り、人間が、わざわざこんな場所まで来ることはない。

 それなのに……私のすぐ近くには、一人の人間の男が立っている。

 今この状況で、この洞窟内にわざわざやって来るなんて、理由は一つしか考えられない。

 つまり……そうだ、この男が――!


 その男性は、ゆっくりと、私の方へと近づいてくる。

 かなり大柄な男性のようだ。主に、身体の横幅が広い――いわゆる肥満体型だった。

 彼は、明らかに強く怒りながら、声を張り上げた。

「なんてことを、してくれたんだ! そこにいる水色の人魚を逃がしたのは、お前なのか!?」男は、私の後ろにいる人魚を指さして叫んでいる。

「……そうです。人魚を罠から逃がしたのは、私です。それと……逆に聞きたいんですけれど、鉄の杭で獲物を突き刺して動けなくするという、この凶悪な罠を仕掛けたのは、貴方なんでしょうか?」

「ああ、その通りだよ! 俺が……俺が、一生懸命考えて準備して、苦労して運んで、ようやく設置した、渾身の出来映えの罠なんだ……! そして、やっとの思いで、人魚の生け捕りに成功したと思ったら……! お前のせいだぞ! お前のせいで、全部が台無しになったんだ!」男は、半分くらい泣きながら、憤慨している。

 そうか……この男なのか……。一人の可憐な人魚に全治2カ月の怪我を負わせ、私の仕事を増やしたのは、この男なのか……!


 正直なところ、私も結構腹が立ってきていた。ただし、ここは……一人の社会人として、堪えなければならないところだった……。

 まずは落ち着いて、この肥満男と、話し合いをしないといけない。

「初めまして。私は、市役所の市民生活課の職員の、ヤツメと言います。今回は、市民生活課の業務として、ここに来ました。今日、私の課の方に、人魚を生け捕りにして食べようとしている男性がいるとの連絡がありました。人魚を食べようとしている、その男性というのは、貴方ということでよろしいんですね?」

「こ、公務員だと……?」肥満男は、明らかにたじろいだ。

 公務員と聞いて、あからさまに動揺するなんて……。この肥満男は、自分が悪い事をしているということを、はっきりと自覚しているのかもしれない。

「良いですか? 人間が、人魚との間で、不必要に諍いを起こすことは、認められていません。これから詳しい事情を聞きますので、一旦、私と一緒に市役所の方まで――」

「う、うるさいな! 俺が人魚に対して何をしようと、関係ないだろ!? 人魚には人権なんてないし、他の人間に迷惑をかけているわけじゃない!」

「……公共の福祉というものがあります。人魚たちとの関係を悪化させることは、この地域の住民全体の生活を、より危険なものにしてしまいますので――」

「知らねえよ! とにかくお前に、俺の努力を無駄にして良い権利があるのかよ!?」

 くそう……ああ言えばこう言う男だなあ。

「いいですかデブ。何よりもまずは、私と一緒に市役所の方まで来てください」

「デ、デブ? 公務員が、善良な市民をデブ呼ばわりして良いのか!?」

「す、すみません失言をしました……。いや、そんなことは今はどうでもいいんですよ。それに、貴方は善良な市民ではないでしょう!? 普通の市民は、人魚の肉を食べようだなんて、弾けた考えはしませんよ!」

「くそ……! 俺が人魚の肉を食べたいと言うと、どうして、みんな揃って反対するんだ……! 誰も、俺の気持ちを分かってくれない……。誰も、俺に協力してくれない……! 一体、どうしてなんだ……」肥満男は、急激にしょんぼりし始めた。


「なあ、お前はさ……どうして俺が、人魚の肉を食べようとしているのか、知りたいか? なあ、お前は俺のこの気持ちを、この想いを、知りたいんだろ!?」肥満男は、まるで助けでも求めるように、突然私に同意を求めてきた。

「……それは……」

 いきなり何を言い出すんだろう……。この男の心情を理解して、共感してあげたいという気持ちは、私には無いんだけれど……。

 とはいえここは、仕事上、きちんと聞いておかなければならないところだ……。

「分かりました、お伺いします。貴方が、どうして危険を冒してまで、人魚を生け捕りにして食べようとしたのか……どうか、私に話してください」

 私がそう話すと、彼は、一つずつ順を追って、事情を説明しはじめた――


 ――彼には、幼い頃から、一つの疑問があったという。

 それは……。どうして、昔の人は、人魚の肉を食べると、不老不死になれると誤解したのか、ということだった。

 現代では、人魚の肉を食べても寿命は延びないということは、きちんと証明されている。だから、その部分に関しては、疑っているわけではない。

 ただ不思議なのは……何故、そう誤解したかということだった。

「火のない所に煙は立たない」という言葉があるように、ただの噂や誤解というものであっても、何も無いところから、自然に発生するわけではない。事実とは違う噂話ですら、普通は必ず、何かしらの、発生原因となるものが存在している。

 それなら……人魚の肉を食べると不老不死になれるという言い伝えは、どうして生まれたのか? 果たして、どういった事実が原因となって、そんな噂話が広まったのだろうか……?


「――そこで俺は、一つの仮説を立てたんだ」肥満男は、熱い口調で語り続ける。「人魚の肉で、寿命が伸びると誤解した理由、それは……! 人魚の肉が、めちゃくちゃ美味しかったということだ! 食べてみたら、もう寿命が伸びるんじゃないかと思えてしまうくらいに、凄い美味しかったに違いないんだっ!!」飛び上がりそうな勢いで男は叫んだ。

 な、なんて発想力だろう……! とてつもないほどの、食への情熱と探究心だ。思わず感心してしまう……わけがない。

「ふざけないでください! 人魚は、食べ物ではありません!」

「お前は、何も分かっていないんだ! お前は、人間の三大欲求というのを知っているのか!?」

 三大欲求……? それと、人魚を食べようとすることと、一体何の関係があるというんだろう。

「……三大欲求なら、知っていますよ。たしか……食欲、睡眠欲、性欲の3つですよね」

 食欲と睡眠欲というのは、人間の生命活動を維持するために、必要な欲求。そして性欲は、子孫を残して、種を存続させるために、必要な欲求。この3つの欲求は、どれも、種としての生命を繁栄させていくために、不可欠な欲求だ。だから、この3つの欲求は、他のどんな欲求にも勝り、そして強力なものだと言われている。

「そう、お前の言う通り――食欲とは、人間の遺伝子に刻まれた、根源的な欲求のうちの一つだ……! だから俺は、この人生をかけて、食の道というものを究めると決めた! この世界に、まだ俺が出会っていないグルメや味覚がある限り、それを追い求めると心に決めたんだ! だから俺は、人魚を食う!」

「そんなに腹が空いているのなら、スーパーにでも行って、市販の肉でも買って食べていれば良いでしょう!? 人魚を食べようとしないでください!」

「売ってる肉は全て食べた! もう俺の胃袋は、そんな普通の食い物では、もう満たされなくなってしまったんだ!」

 もう駄目だ、なんて強敵なんだろう……。この男は、もう完全に食欲に支配されてしまっている。もしかしたら頭の中まで、胃袋になってしまっているのかもしれない。

 この肥満男を止めるためには……もはや、普通の方法では駄目そうだ。だとすれば――"あの作戦"を、実行に移すしかない。

 私には、いざというときのために考えておいた、とっておきの秘策がある。もっとも秘策とは言っても、ついさっき思いついたばかりのものだけれど……上手くいけば、この男を止めることができるはずだ。



 この秘策を実行するためには、水色の人魚にも、協力をしてもらう必要がある。

 そこで――私は、背後の海水溜まりの中から、顔だけを出してこちらの様子を伺っている、水色の人魚へと話しかけた。

「すみません……一つ、どうしても貴女にやって欲しいことがあるんです。お願いしてもよろしいですか?」

「は、はい……どのようなことでしょう……?」彼女は、少しきょとんとした表情で答えた。

「それはですね――」私は彼女に、秘策の詳しい内容について、小声で簡単に説明をしていった……。「――ということなんですよ。いかがでしょう?」

「は、はい……分かりました。少し、申し訳ない気もしますけれど……貴方の、おっしゃる通りにします。私に、お任せください」

 そう言うと彼女は、海水溜まりの中から、バシャリと水を跳ね上げながら、岩場の上へと出てきた。そして全身を、ずるりと岩場の上へと投げ出した。

 水色の鱗に覆われた彼女の下半身は、罠から無理矢理抜け出したせいで、大きく肉がえぐれてしまっている。見ているだけでとても痛々しいけれど……どうやら、出血は完全に止まっているようだった。

 これだけの大怪我をしたというのに、こんな短時間で出血が止まるなんて、人間だったら、あり得ないことだ……。昔の人々が、人魚の肉を食べると寿命が伸びると信じてしまった理由も、なんとなく分かるような気がした。

 ――それから水色の人魚は、ずるずると身体を引きずるようにして、洞窟の入り口の方へと向かって、移動していった。

 その姿は、とても不自由そうなものだった。やはり人魚というのは、普段は水中で生活している種族だけあって、陸上を移動するのは、かなり苦手らしい。


「お前、何をやっているんだよ……!」肥満男の怒声が響く。「どうしてそこまでして、俺の獲物を逃がそうとするんだ!」

「逃がしては、いませんよ。貴方は、大きな勘違いをしています」

「人魚を逃がしているわけじゃない……? それじゃあ、何だっていうんだよ! お前が今していることに、人魚の逃走の手助けをすること以外の、どんな意味があるっていうんだよ!」

「それは――貴方の手助けをする、という意味があるんです。……私はですね、自分の考えを、改めることにしたんですよ。つまり、貴方の言葉に耳を傾け、貴方の望みを叶えることに、力添えをすることにました」

「俺の望みを、叶える……? お前は何を言っているんだ? 俺が望んでいるのは、人魚の肉を、食べることだけだ!」

「分かっていますよ。ですから……貴方に、人魚の肉を一切れだけ、差し上げることにしました」

「な、なんだって!」凄い勢いで身体を前のめりにしながら、肥満男は食いついてきた。


「よく……考えてもみてください。貴方の捕らえた水色の人魚は、太く鋭く硬い鉄の杭によって、下半身を穿たれてしまいました。そしてそこから抜け出すために、自らの肉を、引きちぎってしまいました。それでは……その、引きちぎられてしまった肉の塊は、今、どこにあるんでしょう?」

「どこって……。それは、きっとその辺に転がっているんじゃ……」肥満男は、思い切り眼を見開いて、叫んだ。「おい! その千切れた肉の欠片は、どこなんだ! 少なくとも俺から見える場所には無いが……どこにあるのか、お前は知っているのか!?」

「もちろん知っていますよ。その肉の破片は――今、人魚に頼んで、持ってきてもらっているところです」

「それって……! まさか――!」男は、ワナワナと震え始めた。


「あの――」すぐそばから、水色の人魚の声が聞こえてきた。「持ってきました。どうぞ、これです……」いつの間にか、すぐ近くに戻ってきていた彼女は、私に、手のひらサイズの肉の塊を手渡してきた。

 そして私は、その肉の欠片を、目の前で硬直している肥満男へと差し出した。

「どうぞ……これが、これこそが、貴方の追い求めた究極のグルメ――人魚の肉です」

「こ、これが……! この肉が、人魚の肉なのか……!」男は、目尻に涙を浮かべ、鼻水をすすりながら、強く感激している。

 これほどまでに感動されてしまうなんて、さすがに予想外だった。

 こんな反応をされてしまうと、なんだか……罪悪感を感じてしまうなあ……。


 いま私が彼に手渡したのは、人魚の肉ではない。ただの、死んだ魚の肉だった。

 ――この洞窟入り口のあたりには、大きな魚の死体が、切なげに横たわっていた。そのことを思い出した私は、「その魚の死体から、肉を一欠片だけ取ってもらえないでしょうか?」と、さっき水色の人魚にお願いをしていた。

 ……そうして持ってきてもらった、普通の魚の肉を、肥満男へと手渡したわけだ。

 そして彼は、今、その魚肉の塊を、人魚の肉だと思い込んで、感激している。

 なんだか少し、悪いことをしてしまったかなあ……。


「お、おい! この肉、食べていいんだな!? 俺はついに、人魚の肉を、食べることができるんだな!?」

「あ、はい……」

「よ、よし……。じゃあ、いくぞ……! 食べるぞ……!」肥満男は、手を震わせながら、持っている肉を口へと運んでいく。

 そして――とうとう、血を滴らせたままの生肉へと、思い切りかぶりついた。

「ぅまずいっ! とてもまずい、何だこれは! あと凄く臭い!」彼は身体をのけぞらせた。

 やっぱり美味しくなかったか……。

 洞窟の入り口のあたりでお亡くなりになっていた大型の魚は、食用の魚ではない。それはつまり――肉の味がまずいから、誰も食べたがらない魚、ということを意味していた。

「そんなに、まずいんですか……?」

「まずい! まるで、食用じゃない魚の肉を、さらにしばらく常温で放置して、鮮度を落とした状態にしたものを食っているようだっ!」

 な、なんて的確な食レポートなんだろう……!

 私は少し、この肥満男を見くびりすぎていたのかもしれない。この男、とんでもない食魔神だ。彼に聞けば、自力で開拓したオススメの美味しい料理のお店とか、隠れた名店とかを、沢山教えてくれるのかもしれない。ソムリエか何かにでもなればいいのに。


 とにかく今は、この男に、その肉が普通の魚の肉だということを、知られるわけにはいかない。

「どうでしょう。これで、満足していただけましたか? それが……人魚の肉の味なんです。つまり人魚というのは、まずいんですよ。だからもう、これで……人魚を食べようとするのは、止めにしていただけないでしょうか?」

「うぅ、それは……」男は、少し考え込むようにしながら、呻いている。そして……とうとう意思を固めたように、口を開いた。「分かった……。人魚の肉からは、金輪際、手を引くことにしよう」

 その返答は、私が予想していたよりも、遥かに潔いものだった。

「ほ、本当ですか!?」

「ああ。どうやら……人魚の肉は、俺の求めている味覚では、なかったようだからな……。だが、どうか――忘れないで欲しい。これからも俺は、食の道を、究め続けるということを……。この世界に、まだ口にしていないグルメがある限り、俺はそれを追い求める。俺自身の中にある、この想いは、今までだってこれからだって、決して変わりはしないんだ……!」

 なにやら、勝手に一人で盛り上がり始めている……。そのノリは、私にはよく分からないので、なんだか置いてきぼりをくらっているような感じがした……ちょっと寂しい。

 ただ一つ、分かったことがある。それは……どうやら肥満男は、人魚を食べることを、すっぱりと諦めてくれたらしい、ということだった。

 本当に良かった。もしかしたら彼は、私が思っていた以上に、良い人だったのかもしれない。


「それじゃあ俺は……ここで、失礼するよ」肥満男は、おもむろに、洞窟の入り口へと向けて歩き出した。

「どこへ、行くんですか?」

「少し……腹が痛くなってきたんでな。家に帰らせてもらうよ」それだけ言い残すと、彼は、足早に洞窟の外へと去って行ってしまった――


 きっとこの先、肥満男が、人魚の肉を食べようとすることは、もう無いはずだ。

 だからこれで、これ以上、あの男の手で人魚が傷つけられることはない……。そして彼も、今後、人魚からの苛烈な報復の対象には、ならずに済むはずだ。

 これ以上誰も傷つかずに済むのなら、それが一番だった。

 ただしあの肥満男には、あとで、厳重注意くらいは受けてもらいたいところだ。

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