第2話 怪我なんて海水つけておけば治りますよ
――海岸には、白色の砂浜が、広がっている。
ただ当然のことだけれど、海岸という場所は、全て砂浜というわけではない。場所によっては、砂利のような石がたくさん敷き詰められているところもあるし、ゴツゴツとした巨大な岩たちが無造作に転がっているところもある。
そんな海岸沿いを、転ばないように気をつけながら、私は歩いていった。
……すると、海岸沿いにある、非常に高い絶壁に、大きな穴がぽっかりと空いているのが見えた。どうやら、目的地へと到着したようだ。
この洞窟こそが、たまに人魚が遊びに来ているらしいと、密かに噂になっている洞窟だった。
今は、洞窟の入り口のところは、海水には浸かってはいない。どうやら……現在は、干潮の時間帯のようだった。
洞窟の奥の方をのぞき込んでみても、内部が水没している様子は全くなかった。
この感じなら、洞窟の奥の方まで、何も問題なく歩いて進んで行けそうだった。
そこでさっそく私は、足を滑らせないように注意しながら、洞窟の入り口から、内部の方へと入っていった。
――洞窟の中へと入ってすぐのところには、水色の大きな魚の死体が転がっていた。
もしかして、干潮になったときに、洞窟の中から出ることができずに、岩場に打ち上げられてしまったのだろうか……。
少し可哀想な気持ちになりながらも、私は、さらに洞窟の深部へ歩いていった――
例の肥満男が、人魚を生け捕りにするための罠を仕掛けるとしたら、ここ以外の場所は考えられない。
果たしてこの洞窟の奥では、何が、待ち受けているのだろうか……。
もしかしたら、人間や人魚を絶望に叩き落とすほどの凶悪な罠が、仕掛けられているのだろうか。それとも、狂気に取り憑かれてしまった肥満男が、鬼のような形相で潜んでいるのだろうか。
ただもしも、この洞窟の奥には何も無く、ただの肩すかしに過ぎないのだとすれば、そのときは……。私の仕事が、凄く減る。だから、何も無いといいなあ。
――洞窟の深部は、意外にも、キラキラと明るかった。
どうやら天井の方から、日の光が差し込んできているようだ。この洞窟の天井部分には、いくつもの大きな穴が空いているらしい。
そんな秘密基地のような洞窟内を、慎重に歩いていく。すると……どこかからか、女性のうめき声が聞こえてきた。
その声は確かに、必死に痛みに耐えている、か弱い女性のものだった。少し涙声になっているのが分かる。
私は、近くにいるはずのその女性に向かって、大きな声で呼びかけてみた。
「すみません、誰かいるんですか!? 大丈夫ですか!?」
「ひぃっ!」
明らかに怯えた声が聞こえた。
「怖がらないでください。心配いりませんから……。もしかして、怪我をしているんですか? もし、あまりの痛みのせいで動けないというのなら、手を貸しますので――」
「来ないでください!」ひどく震えた声で、女性は叫んだ。
その声は、私の目の前にある、ひときわ大きな岩の、裏側から聞こえてくる。どうやらその声の主は、この大岩の裏側にいるようだ。
「来ないでと言っても、無駄ですよ。貴女の居場所は、もう分かってしまいましたから。今から、そっちに向かいます」
「ここ、殺されてしまいます……!」もうほとんど泣きそうになりながら、女性は言った。
ひどい言われようだった……。殺すなんて物騒なこと、するわけがないのに。というよりも、助けますよ、と私は言っているのに……。
私は、目の前にある大岩を回り込んで、その裏側まで歩いていった。
すると――そこには、ガタガタと小刻みに震える、一人の女性がいた。
水色の綺麗な長い髪をした女性だ。その水色の髪は、流れるように真っ直ぐ下に垂れ、彼女の腰のあたりまで届いていた。
そしてやはり――半ば予想していた通りだったけれど――彼女の下半身は、魚と同じものだった。下半身を覆う鱗は、髪と同じ水色をしている。尾びれはフワフワとしていて、洋服のレースのようだった。間違いなく、彼女は人魚だ。
ただ何よりも目を引いたのは、彼女が人魚だったことでは無い。私が一番驚いたのは――彼女の魚状の下半身に、太い鉄の杭のようなものが、深々と突き刺さっていたことだった。
その鉄の杭は、彼女の水色の鱗を簡単に突き破り、肉の奥深くを通り抜け、反対側まで完全に貫通しているようだった。ドクドクと血が流れ出ていて、見ているだけで、すごく痛々しい……。
しかもその鉄の杭は、しっかりと、地面に固定されているようだった。こんなにも強健そうな鉄の杭を取り外すことは、そう簡単にはできそうにはない。つまり……この水色の人魚は、この鉄の杭のせいで、この場所から完全に動けなくなってしまっているようだった。
これは――予想していたよりも、遥かにエグい罠だ……。
今までは正直なところ、自分の中で、少し楽観的に構えていたところがあったのかもしれない……。しかし、その認識は、あらためないといけないようだ。
例の肥満男は、本気だ。これだけのことをすれば、後々になって、確実に人魚からの報復を受けることになる。それなのに……。
もしかしたら肥満男も、自分の人生をかけて人魚の肉を食べようとしているのかもしれない。燃えるような熱い情熱を持って、人魚を生け捕りにして、食べてやろうとしているのかもしれない。本当に、よせばいいのに……。
とにかく、このままではいけない。今は、なによりもまず、この水色の人魚を助けることが大事だ。
「大丈夫ですか? 今助け――」
「来ないでください!」相変わらず震えながらも、真っ直ぐにこちらを睨みつけながら水色の人魚は叫んだ。「この罠を仕掛けたのは、貴方ですか? 何故、このようなことをするのですか? 私を、どうするつもりなのですか!」
当然の流れだけれど、私のことは、完全に敵だと思われているようだった。どうして私が、人魚に罵倒されなければならないんだろうか……悲しい。
「いや、私はその罠を仕掛けた人間ではないんですよ。むしろ助けに来た人間なんです。分かって頂けましたか? 近づいても良いですか?」
「駄目ですよ!」
どうしても拒否されてしまう。そんなに嫌わなくてもいいのに。もうどうしたらいいんだろう。
それからしばらく――沈黙が流れた。
水色の人魚は、鉄の杭によって突き刺された傷口から、血を流し続けている。その血は、彼女の綺麗な水色の鱗を、少しずつ赤く染め上げていく。
彼女の顔は、もう真っ青だった。もしかしたら、かなり深刻な貧血になってしまっているのかもしれない……。
――ただし、人魚の肌の色というのは、元々、人間の肌の色よりも蒼白い。だから、彼女の顔色は、やっぱりそれほど青ざめているわけではないんだろうか?
「あの……」唐突に、水色の人魚は話しかけてきた。「私は、覚悟を決めました。貴方に……託そうと思います」
「託すというのは……? 一体、何をですか?」
「私の、命運です」弱々しくも、はっきりとした口調で、水色の人魚は言った。「どのみち、このままでは、私はこの場所から動けません。ですから、今の私にできることは、たったの一つしかないようです。それは……貴方に、私の命運の、全てを委ねることです」
そう言うと、水色の人魚は、右手を私の方へと突き出してきた。そして、血で濡れたその手を、ゆっくりと開いた。その指の間には、透明感のある水掻きがついていた。
「もしも貴方が、本当に私のことを助けてくれるというのなら……私の手を、強く握ってください。そして……貴方の精一杯の力を振り絞って、思い切り引っ張ってください」
引っ張って欲しいというのは……どういうことなんだろうか。
いま彼女の魚状の半身は、冷たい鉄の杭で打ち付けられてしまっている。そんな状態で、思い切り引っ張ったりなんてしたら、傷口が広がってしまうだけだ。彼女の身体に空いている痛々しい傷穴は、ますます広がり、肉はさらに引きちぎられ、血液はさらに噴き出ることになってしまう……。
「そんなこと、できませんよ! そんな乱暴なことをして、傷を広げるなんて、ただの自殺行為です! それよりも、貴女の身体に突き刺さっている鉄の杭を、なんとかして引き抜くほうが先決です!」
「それはもう、すでに私が、考えられる限りの方法で試しました。どうやら……この鉄の杭を取り外すためには、専用の工具が必要なようです。力ずくでは、この罠は解除できないのです」
「解除できないって……。それでは、もうどうしようも――」
そう言いかけて、ハッとした。……だから彼女は、自分の身体を引っ張って欲しい、とお願いしてきたわけだ。
この罠は、これを仕掛けた本人――つまり、例の肥満男にしか、解除することはできない。
だから、この罠から自力で抜け出す方法は、たったの一つしかない。それは――自らの肉を引きちぎり、たくさんの血を噴き出させながらも、強引に脱出することだけだった。
「そんな……貴女は本当に、それで良いのですか? 取り返しのつかないほどの大怪我になりますよ!」
自分の身体の肉を引きちぎるなんて……。
もしも、これが人間の脚だったら、後遺症が残る、程度の話では無い。今後一生、片脚を使えなくなるほどの大怪我だ。病院に担ぎ込まれたあと、お医者さんからは、もう脚を切断するしかありませんね……という、あまりに残酷な宣告を受けることになるだろう。
ただし……それはあくまで、人間の話だ。人魚の場合は、どうなんだろう?
人魚というのは、とても自然治癒能力の高い種族だ。たとえば、腕が切断されてしまったとしても、自然に生えてくるらしい。まるでトカゲの尻尾か何かのようだった。
だから案外……彼女にとって、このくらいの怪我は、実はそれほど深刻なものではないのかもしれない。
「ご心配には及びませんよ」水色の人魚は、余裕すら感じられる笑顔を浮かべている。「この程度の怪我、私にとって、ほんのかすり傷程度ですから」
「ほ、本当に……それだけの怪我で、かすり傷程度なんですか!? し、信じられません……。それじゃあ、たとえ貴女の身体の肉がえぐれて、引きちぎれてしまったとしても……数日くらいで、綺麗に治るということなんですか?」
「さすがに、数日では治りませんけれど。だいたい、そうですね……。この程度の怪我なら、全治二ヶ月、といったところでしょうか」少しだけ涙声になりながら彼女は言った。
「それ全然かすり傷じゃないですよね!」
全治二ヶ月……。人間でいったら、骨にヒビが入ったくらいの怪我だろうか。たしかに、取り返しのつかないほどの怪我というわけではないけれど……割と大怪我ではないだろうか。
「強がりを言いました、申し訳ありません……」水色の人魚は、泣きそうになっている。
どうして、こんなところで強がったんだろうか。変な見栄を張らなくてもいいのに……。
――それから私は、水色の人魚の腕をしっかりと掴んで、彼女の身体を力の限り引っ張った。私が全身の体重をかけて、思い切り引っ張っていくと、彼女の身体に空いた傷穴は、少しずつ大きくなっていった。
ミチミチという嫌な音を立てて、彼女の下半身の肉は引き裂かれていく。そこから噴き出した沢山の血は、彼女の水色の鱗の表面を流れ落ち、地面を赤く染めていく。
そしてとうとう――水色の人魚は、地面から突き出していた鉄の杭から、完全に脱出することができた。
ただし彼女の下半身は、肉がちぎられ、大きくえぐれてしまっている。直視するのが辛くなってくるくらいに、痛々しい。
今回は、これ以外に方法が無かったから仕方がなかったとはいえ、なかなか精神的にこたえる光景だった……。
水色の人魚は、忌々しい鉄の杭から解放されると、ずりずりと這うようにして、苦しそうにしながら、洞窟内を移動していく。そんなにも傷ついた身体で、何処へ向かおうとしているのだろう……。
――この洞窟の中には、所々に、地面が大きく窪んでいるところがある。そういった窪みの中には、海水がなみなみと溜まっている。
その海水溜まりの中の一つへと、水色の人魚は、勢いよく飛び込んでいった。
下半身の肉をえぐりとられるという大怪我をしている状態なのに、そんな風にためらいも無く海水の中に潜ったりして、本当に大丈夫なんだろうか……。傷口はしみて凄く痛いだろうし、下手をしたら傷が悪化しそうな気がするので、私だったら絶対にやらない。
ただ彼女は人魚なわけだから、なまじ陸上にいるよりも、海水に浸かっていた方が、傷が良くなるスピードは早いのかもしれない。
水色の人魚は、その海水溜まりの中から、頭だけを水面の上へと出して、私の方へと振り向いた。
「ありがとうございます」そう言う彼女は、なんだか申し訳なさそうだった。「どうやら私は、疑うべきでは無い人間を、疑ってしまっていたようです。貴方のおかげで、私は罠から抜け出すことができました。助けて頂き、本当にありがとうございました。そして……貴方のことを、罠を仕掛けた張本人だと疑ってしまったことに対して、深くお詫びいたします。本当に、申し訳ありませんでした……」
水色の人魚は、深々とお辞儀をした。
「そんなに、かしこまらなくても大丈夫ですよ。たいしたことはしていませんし……。それよりも……貴女の方は、大丈夫なんですか? そんなにも深く大きく肉がえぐれてしまって、血も沢山流れ出てしまっているのに……」
「ご心配には及びませんよ。こうして海水の中へと戻ることができましたので、傷口の出血は、既にほとんど止まりましたから」
「もう血が止まったんですか! 凄いんですね……。人魚が、怪我の治りが早い種族だということは知っていましたけど、こんなにも早いとは驚きました……。もしもこれが人間だったら、本当に一大事ですよ。もしも無事に出血が止まったとしても、深刻な貧血になって、倒れしまっていたと思いますよ……」
「いえ……私も、貧血で倒れそうにはなっていますよ。今……かなり意識が朦朧としていますし……。視界も……かなり霞んでいますから……」水色の人魚は、どこか焦点の合わない虚ろな眼をしている。
「ちょっと、それなら早く安静にしてください! そんな妙な強がりをしていたら、本来ならすぐに治る怪我も、なかなか治らなくなってしまうかもしれませんよ!」
「助けて頂いたお礼を言う方が……大事ですから……」彼女は弱々しく微笑んだ。
この人魚は、そうとう律儀な性格なのかもしれない……。
とにかく――これで、鉄の杭で人魚を串刺しにして生け捕りにするという、凶悪な罠から、この人魚を助けることはできた。
彼女は、その水色の下半身に、大きな怪我を負ってはしまったけれど……人魚の治癒能力なら、そこまで深刻なことにはならずに済みそうだった。
だからこれで、一件落着……と言いたいところだけど、そうはいかない。
まだ、罠を仕掛けた張本人が、確保できていない。例の肥満男を捕まえて、根掘り葉掘り事情を聞き、さりげなく文句を言いつつ、もうこんなことは絶対に繰り返さないでください、と強く釘を刺すまでは、私の仕事は終わらない。
果たして肥満男は、今どこにいて、一体何をしているのだろう。そして何を思い、何かを食べているのだろうか――
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