食欲と色欲のアクアマリン

波間

第1話 貴方の胃袋は何色なのか

「ヤツメさん、どうかお願いします、助けてください。いま俺、人魚のことで困っているんですよ……!」

 目の前にいる男は、私の勤めている市役所の窓口で、深く頭を下げながら、話しかけてきた。

「ちょっと……そんな頭を下げないでください。顔を上げてください。それに、まずは落ち着いてください。そして、気持ちを静かに落ち着けてから……もしも、貴方が私のところに持ってきた案件が、簡単なものだというのなら、詳しく事情を話してください。しかし逆に、こじれた案件だというのなら……黙って帰ってくれると個人的には凄く嬉しいなあと思います」

「俺がヤツメさんにお願いしたいことというのは……今まさに、もの凄くこじれそうになっている案件なんですよ。ヤツメさんには申し訳ないですけど、他に頼れる相手もいないんです。だからどうか、お願いします」

 私の目の前にいる彼は、一体、どれほど大変な案件を持ってきたというのだろう……。嫌な予感しかしない。

「私が嫌だといったら?」

「こういうときに、なんとかするのが、ヤツメさんの仕事ですよね? なんとかしてください」

「はい……」

 結局のところ、私がやるしかないようだった……。


 ――私の職場は、海沿いの地域にある、とある自治体の市役所だ。配属は、市民生活課というところ。そこの部署のしがない男性職員として、私は、日々あくせく働いている。

 市役所という場所は、本当に様々な業務を担当する。だから私が普段こなしている仕事の種類というのも、かなり多岐に渡っていた。

 その中で……最近、私がよく押しつけられている業務というのがある。それは――人魚と人間との間のいざこざを、頑張って治める、というものだった。


「ヤツメさん……」窓口にやってきている男性は、真剣な表情で話を続けた。「俺の友人にですね……。恐ろしいことに、人魚を生きたまま捕まえて、その肉を食べようとしている男がいるんですよ! そこでヤツメさんには、その男の暴挙を、本当にどうにかして、止めて欲しいんです……!」

 男性は頭を下げながら、私に対して、そうお願いしてきた。

 人魚を生け捕りにして、食べようとしている男がいるなんて……耳を疑うような話だった。さっきまで私が頭の中で想定していた範囲のことよりも、10倍くらい厄介な話だった。

 しかもそれを、私がなんとかしなければならないらしい。聞き間違いだったら良かったのになあ……。



 ――私がこうして、人間と人魚の間のトラブルを解消するという、とても厄介で、たまに頭が痛くなってきたりする仕事をやる羽目になってしまったのには、おそらく……2つの理由があるからだと思う。

 一つ目の理由というのは……私が、突然のトラブルに対処することが割と得意だとから、というものだった。

 突如として発生した良く分からないトラブルというものを、適切に対処することというのは、意外に難しい。例えて言うなら、地面のあちこちに地雷が埋め込まれている地雷原の中を、突破するようなものだった。

 そんな地雷原の中で、地雷を踏みつけて爆発させ、自分の身体と精神をボロボロにしながら強引に進むことなら、誰にでもできる。けれど……見えない場所に埋まっている地雷の位置を事前に見つけて、上手に避けながら進むということをできる人は、なかなかいない。


 そして二つ目の理由は……私が、人魚という種族に対して友好的な人間だから、というものだ。

 ――人魚というのは、とても魅力のある種族だ。男の人魚は割とどうでもいいけれど、女性の人魚はとても可愛い。水中で泳ぐ姿は美しいし、陸上にいるのが苦手というのもなんだか愛嬌がある。……それなのに、人間の中には、人魚が苦手という人は少なくない。不気味だと言う人もいれば、恐いという人までいる。中には、奴らの卵を醤油漬けにして食ってやるとか意味の分からないことを言い出すやつまでいる。

 ふざけないでほしい。今まで何を食って生きてきたらそういう発想になるんだろうか? そういうことを言う人たちがいるから、いつまで経っても人魚たちとキャッキャウフフなやりとりができる社会にならないんじゃないか。……仕事場で、私はそういう文句を吐いていた。

 そしたらいつの間にか、人魚とのトラブル対応という、一歩間違えば板挟みの中で苦しむ羽目になるという、良くない業務を担当することになってしまっていた……。


 ……こうして今日も、市民生活課の窓口には、人魚とのトラブルを抱えた憐れな市民が、助けを求めてやってきている。しかも、私を名指しで助けを求めてくる。やめて欲しい。私は、人魚と仲良くなりたいだけなんだ。トラブル対応がしたいわけじゃない。

「ヤツメさん……! 人魚を生け捕りにして、その肉を切り落として食べるなんて、とんでもないことですよ! なんとか、あいつを止めてください。このままあいつが人魚の肉を食べたら、どんな大変なことになるか……。きっと、人魚たちに復讐される!」

「そうですね……。ほぼ間違いなく、人魚たちから、何かしらの報復を受けることになるかと思います……」

 人魚たちは、人間ではないから、人権というものは存在しない。だから、たとえ人魚を殺したとしても、罪には問われない。人間の法律には、一切抵触しない。

 しかし……人魚というのは、人間と同じくらいの知能を持った種族だ。仲間の人魚が、人間に傷つけられたなんてことなれば、間違いなく、激しい怒りの炎を燃やしてくる。そして……何の裁きも受けずにのうのうと生きている加害者の人間に対して、人魚たちは、抑えきれないほどの怒りをつのらせることになるだろう。そして最終的には、法で裁けない人間を、人魚たちは自らの手で、報復をしようとする。

 それなのに、どうして……その男は、それほどの危険を承知の上で、人魚の肉を食べようだなんて考えたんだろう……。


 一昔前までは、人魚の肉を食べると、寿命が延びるだとか、不老不死になれるという迷信が信じられてきていた。

 なぜなら人魚というのは、とても寿命が長いからだ。だいたい、300年くらいは生きることができるらしい。

 だから昔の人というのは、人魚の身体には、寿命を延ばせるくらいに栄養価の高い成分がきっと含まれているにちがいない、と考えたようだ。

 ……けれどそれは、理屈で言えば、スッポンを食べると長生きできるとか、そういうのと同じレベルの話だった。古い時代のように、地域によって独自の迷信や民間療法があった時代だったら、信じられていた話だったかもしれない。けれど現代のように、科学技術の進んだ時代では、人魚の肉を食べたところで寿命は延びない、とはっきり言われている。

 それなのに、どうして……。


「あの……」たまらずに私は、窓口に来ている男性に質問をした。「その、人魚の肉を食べようとしている人というのは、どうして、そんなとんでもない暴挙に出始めたのですか? 人魚を捕まえて肉を食べたところで、寿命なんて延びません。そのうえ、真っ先に自分自身が、報復の対象になってしまうというのに……」

「さあ……? すみませんヤツメさん、あいつが何を考えているかなんて、俺にも分からないんですよ」目の前にいる男性の市民は、困り果てたように言った。「ただまあ、もしかしたら……。我慢できないくらいに、腹でも減っていたんじゃないですか? あいつ、デブだから」

「はは……」思わず乾いた笑いが出てしまった。

 どうやら彼にも、状況は把握できていないようだ。どうしよう。


「それで、ヤツメさん……。引き受けては、もらえるんでしょうか? あのしょうもない肥満男を、止めて頂けるんでしょうか……?」

「そうですね……分かりました」本当は何も分かってはいないけれど、とりあえず私は答えた。「この案件は、私が承ります。ですので、後のことは、ひとまずは私にお任せください。そちらへは、何かありましたら、ご連絡しますので」

「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」心の底から嬉しそうに、彼は笑顔で叫んだ。

 こうやって、市民一人一人の笑顔を守ることが、市民生活課の職員である私の仕事だ。

 ……けれど、結局のところそれは、しょうもない重荷を背負わされているだけとも言えた。とりあえず少なくとも、丸投げしてくるのだけは止めて欲しいなあ……。


 とにかく、現状で私がしなければならないことは、人魚を食べようとしている肥満男を、なんとしても確保することだ。

 その男さえ確保してしまえば、最悪の状況は避けられる。キュートな人魚は食材にされなくて済むし、その肥満男も人魚からの報復を受けずに済む。

 だから私は……その肥満男を捕まえるために、様々な人たちに協力を要請した。まずは、さっき窓口にやって来ていた、相談者本人。そして、同じ市民生活課の職員たち。それから、警察だ。

 これだけの人々に、私は事情を説明して回り、できる限りの協力をお願いした。だから……問題の肥満男が今どこで何をしているか、ということを特定するのに、そうは時間はかからないはずだ。

 もし、うまく彼を捕まえることができたら、狭い部屋にでも連れて行って拘束して、「一体何をしているんですか」という文句の一つくらい言ってやりたい。そのくらいの鬱憤晴らしは許されたい。


 この時点で、私がしなければならないことは、だいたい終了したと言っていいはずだった。

 ただ……あと一つだけ、どうしてもやらなければならないことがある。それは……肥満男が罠を仕掛けた場所へと、いち早く向かうことだった。


 さっき窓口へとやってきた男性は、「あいつが一体どこに、人魚を捕らえるための罠を仕掛けたかは、俺には全く分からないんですよ……」と言っていた。

 けれど……どこに罠を仕掛けたかなんてことは、少し考えてみれば、分かりそうなものだった。そもそも、人魚を生け捕りにすることができる場所自体が、ほとんどないのだから。

 それでは……肥満男は、一体どこに罠を仕掛けたのか? まず、水中はあり得ない。水の中は、人魚の世界だ。水中に罠を仕掛けたところで、人魚を生け捕りにすることなんてできはしない。どうせ、罠にかかった手負いの人魚に返り討ちにされるか、駆けつけた仲間の人魚に取り囲まれてボコボコにされて終わりだ。

 そして逆に、陸上に罠を仕掛けるというのもあり得ない。陸上は逆に人間の世界だから、人魚はなかなかやって来ない。陸上で人魚を捕らえようとしたところで、誰も来てくれなくて待ちぼうけになり、空しい気持ちで胸一杯になるだけだ。


 ただし……一カ所だけ、人魚を罠にかけて生け捕りにできそうな場所を、私は知っている。それは、海岸沿いにある、奥の深い洞窟だった。

 これは、聞いた話だけれど――私の知っているその洞窟の中からは、時折人魚の歌声が聞こえたり、またあるときには人魚たちのお喋りが聞こえたりもするらしい。どうやらその洞窟の中では、たまに人魚たちがのんびりしているようだ。

 それに……あの洞窟の中というのは、潮の満ち引きによって、大きく水位が変化する。つまり時間帯によって、洞窟内の岩場が海水の中へと沈んだり、海水面の外へとむき出しになったりするということだった。

 だから、あの洞窟の中に、あらかじめ罠を仕掛けておけば、満潮になったときに、洞窟の中へと入ってきた人魚を罠で捕獲することができるかもしれない。そしてもしも捕獲に成功すれば、次に干潮になったときには、岩場が海面上にむき出しになった洞窟内で、捕らえた人魚を回収することができる。


 人魚を生け捕りにする罠を仕掛けるとしたら、少なくとも私なら、そこ以外には考えられない。

 そこで私は、海岸沿いにあるその洞窟へと、直接赴いて、見回りをしてくることにした――

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