第7話「終局」

 全員で玄関に集まって靴を調べたところ、奥山の靴が無くなっていた。

 外に出たことが分かり、場に強い緊張が走る。何せ彼女は自殺志願者なのだ。嵐が吹き荒れる中わざわざ外出するという自殺行為に走った理由なんて、一つしかない。

「オーナーさん! 奥山さんの連絡先は分からないんですか!」

「今、電話します!」

 小林に急かされ、淳子は予約を承った時に登録した番号に電話をかけた。やがて呼び出しが始まる。どうやら電源を切ってはいないようだ。

 リビングから、ピリリと電子音が聞こえた。

 イヤな予感と共に、全員でリビングに戻る。テーブルの下で鳴り響くピンク色のカバーをしたスマホが目に入る。藤本がスマホを拾い、画面を覗き込んだ。

「これ、奥山さんのだ」

「置いて行きやがったのか」

 岡島がチッと舌打ちをした。これでもう奥山と繋がる術はない。小林が不安げな態度を隠さず、淳子に尋ねる。

「オーナーさん、どうしましょう」

「……警察を呼ぶしかないですね」

「でもこの嵐で、警察の人が奥山さんを探せるでしょうか」

「分かりません。ですが、私たちに出来ることはそれしかありません」

 淳子は考える。冬山の夜は凍てつくように寒い。仮に自殺しなくても、すぐに見つからなければ間違いなく凍死だ。既にどこかで動けなくなっていても全くおかしくはない。だから警察を呼ぶならば、一刻も早く動かなくてはなくてはならない。

 だが――

 

「――カノジョさん」

 俯き、何事かを思案していた城ケ崎が、顔を上げて藤本に話しかけた。

「カノジョさんのスマホは結局どこ行ったんすか?」

「さあ……分かんない」

「暗かったし、スマホカバー似てたし、あのお姉さんがカノジョさんのスマホを間違えて持っていった可能性はないっすかね」

 藤本がハッと目を見開いた。小林が「電話しよう!」と自分のスマホを取り出す。それを城ケ崎が制した。

「コバちゃん。相手を刺激するかもしれない電話より先に、やることがあるっす」

「やること?」

「監視アプリ見れば、あのお姉さんがどこにいるか分かるんじゃないっすか?」

 小林は「それだ!」と手を打ち、自分のスマホを操作し始めた。全員が固唾を飲み、小林の手元を見つめる。やがて周辺の地図と、藤本のスマホの在り処がディスプレイに示され、小林はごくりと唾を飲んだ。

「これ……」

「……事故のあった橋ですね」

 淳子がそう言った途端、城ケ崎が椅子にかけていたウィンドブレーカーを羽織って「行くっすよ!」と駆け出した。小林、藤本、岡島、淳子も後に続く。傘もささず嵐の中に飛び出し、土地勘のある淳子を先頭に据え、橋に向かって急ぐ。

 外の雨風は未だ激しく、捌け切れない水が道路に小さな川を作っていた。その川を踏みしめ、冷たい水をまき散らしながら、淳子たちは走る。城ケ崎が白い息を吐きながら、快活に叫んだ。

「コバちゃんがストーカーで良かったっすね!」

「お前なあ!」

「二人とも! ふざけてる場合じゃないでしょ!」

 皆が叫ぶ。凍てつく身体を奮い立たせるように、熱の籠もった言葉を放つ。淳子のすぐ横を走る岡島が、雨に溶けそうな小さい声でボソリと愚痴を吐いた。

「どうしてこうなっちまうんだか……」

 全くだ。

 聖夜の幽霊探しは、推理、推薦、立候補、抽選という奇奇怪怪な過程を経て、どんどんと本筋からずれていった。そしていつの間にか、自殺志願者を止めるため嵐の山中を全力疾走することになっている。あまりにも無茶苦茶で、理解に苦しむ展開だ。

 だけど――

「そうですね」

 息を切らして走りながら、淳子は答える。

「でも生きるってきっと、そういうことの連続ですよ」

 きっとそうなのだ。どうしてこうなった。こうなってしまった。人生はその連続で、だからこそ愛おしいのだ。思うように積み上げていったらいつの間にかぐらぐらになってしまったジェンガタワーのように、不安定で、不可逆で、愛すべき存在なのだ。

 笑えるような状況ではない。だけど淳子は笑っていた。おかしくて、おかしくて仕方が無かった。ああ、本当、生きるってままならない。

「……かもな」

 岡島がぷいと淳子から顔を背ける。城ケ崎が前方の橋を指さし、「着いたっすよ!」と大きな声を上げた。


     ◆


 ひしゃげたガードレールの切れ目に立ち、橋の上から増水した川を覗き込む奥山を見つけ、全員が足を止めた。

 奥山がゆっくりと淳子たちの方を振り向く。全身を雨に打たれるに任せ、長い黒髪からしとどに水滴を垂らす奥山は、本当に幽霊のようだった。藤本が前に出て、震える声で温かい言葉をかける。

「奥山さん、帰ろう」

 奥山は動かない。あと僅か踏み出せば川に落ちる。命を失う。そういう場所から、焦点の合わない瞳で淳子たちを見つめる。

「帰って、お風呂入って、着替えて、オーナーさんにコーヒー入れて貰って、あったかくして寝よう。そういう幸せな日常に戻ろう。辛いこともたくさんあるけれど、それが全部じゃないよ」

 藤本が奥山に笑いかける。奥山の唇が、ゆっくりと開いた。

「うるさい」

 冷たい言葉が、冷たい風に乗って、全員の耳に届いた。

「藤本さんには絶対に分かりません。あんなに愛してくれる人がいる藤本さんに、その人を自分から切り捨てることすら出来る藤本さんに、愛されなかったわたしの気持ちは分かりません。愛されることに慣れている藤本さんに、愛されない人間の気持ちなんて、分かるわけがないんです」

 藤本から笑顔が消えた。その横から小林がずいと前に出る。

「奥山さん。僕は美月のことを、生きているから愛しているんだ」

 小林が、藤本の肩に右腕を回した。

「いつも一生懸命に生きている美月だから、愛するようになった。僕が他人に無償の愛を注ぐことを趣味にしていて、たまたま美月がその対象に選ばれたわけじゃない。幸せはある日突然、天から降ってくるものじゃないんだ。君がそうやって生きることに背を向けていたら、手に入るものも逃げていく。だから――」

「じゃあわたしは、一生懸命生きてなかったって言うんですか!?」

 奥山が金切り声を上げた。吹きすさぶ雨風を切り裂き、叫びが山に木霊する。

「一生懸命生きてなかったから、わたしは裏切られたんですか!? 一生懸命生きてなかったから、ゴミみたいに捨てられたんですか!? そういうことですか!?」

「い、いや、僕が言いたいのはそういうことじゃなくて……」

「でもそういうことですよね! 分かりました! 決心つきました! こんなに頑張って生きてるのにそんなこと言われるぐらいなら、やっぱり死んだ方がマシです!」

「ちょ、やめ……」

「止めろ!」

 野太い怒鳴り声が、奥山と小林を止めた。

「止めろ。自殺なんかするな」

 奥山の目を真っ直ぐに見つめ、岡島が芯の通った声を発する。奥山の口元に、岡島を小馬鹿にするような嘲笑いが浮かんだ。

「奥さんの自殺は止めなかったくせに、わたしの自殺は止めるんですね」

「ああ」

「罪滅ぼしのつもりですか?」

「こんなもんで滅びる罪なら最初から苦しんだりしねえ。俺が嬢ちゃんを止めんのは、俺がイヤだからだ」

 ぶっきらぼうに、正直に、岡島が自らの想いを告げる。

「女房は関係ねえ。命の尊さがどうとか、そういう小難しいことにも興味はねえ。俺はただ、縁あって知り合った嬢ちゃんが自分で自分を殺しちまうことがイヤなだけだ。ここにいる連中は皆同じさ。だからこうして集まって、嬢ちゃんを引き止めてる」

 岡島が両腕を広げ、おどけるように肩を竦めた。

「『人のイヤがることは止めましょう』。俺がしつこくガキ共に教えて来た、小学生でも分かる基本中の基本だぜ」

 雨が降る。風が吹く。天候が、体温を奪い去る。

 藤本も小林も城ケ崎も岡島も寒そうに身を竦めている。だいぶ前から外にいた奥山はもっと辛いはずだ。大丈夫だろうか。淳子は奥山をつぶさに観察し、そして、見つけた。

 奥山の身体が、震えている。

「仕方ないじゃないですか」

 不安定に揺れる声で、奥山が語る。

「もうわたしには、何もないんです。全部、無くなっちゃったんです。だったら死ぬしかないじゃないですか。それ以外にどうしようも、ないじゃないですか」

 泣いている。雨のせいで見えはしなかったけど、それがありありと分かった。

「わたしは――」

 強風が、橋の上を駆け抜けた。

 奥山の身体が大きくぐらつく。ガードレールの切れ目、橋から空中に繋がる飛び出し口に向かって。世界が、スローモーションになる。

 淳子は「奥山さん!」と叫んだ。叫んだつもりだった。だけど奥山の身体がもうどうしたって自力では元に戻れないぐらい橋の外側に傾くまで、口に出来た言葉は「お」だけだった。灰色の水を轟々と勢いよく垂れ流す川に、奥山の身体が飲まれて消える映像が、淳子の脳裏にパッと浮かんだ。

 光の塊が、淳子の脇を駆け抜けた。

 それは、白いウィンドブレーカーを羽織った城ケ崎だった。城ケ崎が今まさに落ちようとしている奥山のジャケットを掴み、グイと思いきり自分側に引き寄せる。振り子のように振られた奥山の身体が、勢いよく城ケ崎の胸に飛び込む。

 城ケ崎は飛びこんで来た奥山を身体で受け止め、そのまま仰向けにアルファルトの地面に倒れ込んだ。そして奥山を抱き、分厚い雲で覆われた空を眺めながら、その長い髪を上から下に撫でる。

「ダメっすよ」

 城ケ崎の手つきは、まるで親が子を撫でるように、優しかった。

「死んだら、ゼロっす」

 わあっと、奥山が声を上げて泣き出した。

 寝転がって抱き合う二人を見下ろし、淳子は肩から力を抜く。終わった。確かにそういう感触があった。岡島がコキコキと首を鳴らし、その感触を言葉にする。

「一件落着、ってとこだな」

 そうですね。言いかけた言葉を、小林が遮った。

「いいや、まだです」

 藤本が「え?」と目を丸くする。小林が藤本の肩に回していた右腕を外し、その手でジーパンのポケットをまさぐり出した。そして小さな群青色の箱を取り出して蓋を開け、藤本の前に両手で差し出す。

「美月」

 箱の中には、銀色に光るエンゲージリングが収まっていた。


「結婚してくれ!」


 天地を引き裂くような、激しい稲妻が鳴り響いた。

 城ケ崎と奥山があんぐりと口を開けて小林を見上げる。淳子と岡島も同じく放心しながら小林を見やる。しかし最も呆けていたのは、間違いなく藤本だった。まるで夢の中の出来事を見ているかのように、エンゲージリングを差し出したまま大きく頭を下げて固まる小林を、焦点の合わない目でぼんやりと眺めている。

「……馬鹿なの?」

 小林が「え?」と顔を上げた。眉を申し訳なさそうに下げた情けない表情を見て、藤本の感情に火がつく。

「なんで! 今! このタイミングでプロポーズなのよ! 誰がどう考えたっておかしいでしょ! 少しは空気読んでよ!」

「……全力で読んだつもりだったんだけど」

「どういう空気の読み方したらそうなるの!?」

「ご、ごめん。じゃあ、プロポーズも受けてくれないよね……」

「それは受けるけど!」

 叫んでから、藤本が「しまった」という風に口を噤んだ。眼鏡の奥の小林の瞳がキラキラと輝き出す。淳子は昔、実家で飼っていた柴犬のことを思い出した。「ねえ、今、散歩って言ったよね?」。そういう目。

 藤本がはあと溜息を吐いた。そして額に手をやり、疲れたように呟く。

「プロポーズはもっと、ロマンチックな感じが良かったんだけどな」

 でしょうね、と淳子は同意する。嵐の山中で全身ずぶ濡れになりながらプロポーズを受けたい女がいるものか。ペンションに帰ってからやればいいでしょうに。というか、元々そういう予定だったでしょうに。大きな騒動が終局に至って感極まったのは分かるけれど、なぜあと少しを我慢しないのか、理解に苦しむ。

 ――さて、どうしよう。

 お客様には出来る限り幸せになって帰って頂きたい。この結末が不幸せだとは言わないけれど、純白のウェディングドレスについた染みのように、無視できない遺恨が存在していることは間違いない。ならばどうするか。簡単だ。

 その染みを、模様にしてしまえ。

「皆様」

 淳子は大きく両腕を広げ、明るく声を張り上げた。全員の視線が淳子に集中するのを待ってから、続きを語る。

「この度、当ペンションにお越し頂いた小林学様と藤本美月様がご成婚なされました。大変喜ばしいことです。小林様、苗字はどちらに統一なされるご予定ですか?」

「苗字? そりゃあ、小林にするつもりですけど……」

「承知いたしました。では――」

 淳子はにこりと微笑み、その場の全員に向かって問いかけた。

「本日、お亡くなりになったのは『藤本美月』様でよろしいですね?」

 皆がハッと息を呑んだ。淳子はさらに演説を続ける。

「これにて幽霊探しは閉幕です。幽霊は藤本様でした。本日、小林様がエンゲージリングを忍ばせ、決意と共に当ペンションを訪れたその時から、『藤本美月』様はお亡くなりになっていたのです。しかしそれに誰も、当人ですら気づいていなかった。自動車事故は関係ありませんでしたが、城ケ崎様の直感は見事と言う他ありません」

 無理があるかしら。淳子は喋りながら考え、しかしすぐにその考えを打ち消す。ここまで散々無理を通して来たのだ。今更、少しばかりの無理が何だ。このドタバタ劇とプロポーズを一つに繋げ、大きな幸せの塊としてまとめてみせる。

「それでは藤本美月様の幸福なご逝去と、小林美月様の輝かしいご誕生に、皆様、盛大な拍手をお願いいたします」

 淳子は手を叩く。すぐに、城ケ崎が後に続いた。それから岡島、奥山と、拍手が重なっていく。小林は皆に向かって「ありがとう」と礼を告げ、藤本の身体を抱き寄せた。やる時はやる日本人。

 小林が、藤本の耳元で囁く。

「なあ」

「なに?」

「この、雨の音さ――」

 小林が藤本の首筋から顔を離し、穏やかに微笑みかけた。

「拍手みたいに聞こえないか?」

 雨は止まない。ザーザーと、ノイズのように、拍手のように降り注ぐ。藤本が小林の首に両腕を回し、くすりと笑った。

「聞こえる」

 小林と藤本の唇が重なる。神様がクラッカーを鳴らしたみたいに、漆黒の空から雷が落ちた。

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