第5話「立候補」
立候補。
いよいよ話が混迷を極めて来た。もはや推理の「す」の字もない。誰が死んでいるかを決めるという時点で謎過ぎる会合なのに、それが立候補で決まるとは。
「……つまり、自分が死んでると思いますって、名乗り出るの?」
自分のスマホを机に置き、藤本が恐る恐る尋ねる。奥山は小さく首を横に振った。
「少し違います。『自分が死んでいてもいいです』と名乗り出るんです。それでその人を死んでいることにします。そうすれば、みんな納得いくでしょう?」
奥山が微笑む。場面次第では「そういう顔で笑えるんだ」と異性を魅了しそうな笑顔。だが今はひたすら怖い。現に男性陣は、あの城ケ崎ですら言葉を失っている。
「それで奥山さんはその……立候補するの?」
「はい。わたしは元々、死ぬためにここに来たので全く問題ありません」
さらりと衝撃的な発言が飛び出した。奥山が淳子を見やり、穏やかに告げる。
「大丈夫ですよ、オーナーさん。このペンションで死ぬ気はありません。ここはわたしを捨てた彼といつか一緒に行きたいねと言っていた場所なんです。だから選ばせて貰いました。明日の朝ここを出て、彼と行こうと思っていた近く観光地をぐるりと回って、それからどこかその辺で死にます。迷惑はかけないから安心して下さい」
安心できるか。何か言わないと不味いと淳子は口を開きかける。しかしそれより先に隣の藤本が、奥山の肩に手を乗せて語りかけた。
「ねえ、男にフラれたぐらいで自殺なんて止めなさいよ。奥山さん、かわいいから、すぐにもっといい男見つかるって」
「あんな一途に思ってくれる男性がいる藤本さんに、わたしの気持ちは分かりませんよ」
「いや、あんなの別にそんないいもんじゃ……」
「数百人単位で開いた盛大な結婚披露宴の当日に、他の女に花婿を取られて逃げられたわたしの気持ちは、藤本さんには分かりません」
――うわあ。
想像以上に重たい過去に、淳子の顔が引きつった。藤本も苦み走る表情で頬をぴくぴくさせている。奥山が力なく首を振り、藤本の手を肩から外した。
「いいんです。もう、わたしは疲れました。こんなわたしでも自分が幽霊だと名乗り出ることでこの場を綺麗に収めることが出来るなら、それはとても光栄です。きっとこのために生まれて来たんだなって、思うことが出来ます」
奥山の瞳にじわりと涙が浮かぶ。淳子は「そんなことのために生まれて来た命で本当にいいの?」と言いかけたが、馬鹿にしているようにも聞こえるから止めた。藤本も何かを言いあぐねているのが唇の動きから分かる。椅子に座り直した小林はオロオロと視線を動かして戸惑っている。岡島は傍観。口を固く閉じ、微動だにしない。
そして、城ケ崎が動いた。
「ダメっすよ」
城ケ崎がテーブルに身を乗り出した。奥山にずいと顔を近づけ、いやに真摯な声で語りかける。
「死んじゃダメっす。死んだらゼロっすよ。人間、どんな不幸のどん底だって、ちょびっとずつは進んでるもんなんす。ゼロになったら、おしまいっす」
元はと言えばあんたが「幽霊を決めよう」とか言い出したんでしょうが。そう批難したい気持ちを堪える。現状の最優先事項は、奥山の説得だ。
「お姉さん、どこ住んでる人っすか」
「……東京」
「じゃあ帰ったら、オレとデートしましょう」
「……デート?」
「オレの大学、上野公園の近くにあるんで、そこ行きましょう。美術館とか科学館とか動物園とか色々あるっすよ。そんで大学の敷地内に大学病院もあるんで、ついでにそこの心療内科にも寄りましょう。一日でイヤな気持ち全部吐き出してハッピーっす」
「いや、デートコースに心療内科入れるのは止めようよ……」
我慢しきれず、小林が城ケ崎のデートプランにツッコミを入れた。そしてポリポリと頬を掻きながら言葉を続ける。
「でも城ケ崎くんの意見には同意だよ。死ぬのは良くない。月並みな言葉で申し訳ないけれど、生きていればきっと、いいことがある」
優しい日本人。俯く奥山の肩がわずかに上下する。藤本が、城ケ崎が、小林がかけた言葉が奥山の心を動かしている。さあ、あと一人。奥山以外の全員の視線が集まる中、岡島が大きく口を開いた。
「死にたい奴は死なせとけ」
場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「生きたいと思うなら生きればいい。死にたいと思うなら死ねばいい。他人が他人の命をどう使おうが知ったこっちゃねえよ。自殺なんざ、止める権利も義務もねえ」
岡島がふーと煙草の煙を吐いた。城ケ崎が岡島を睨む。
「ジイちゃん、それは冷たいっすよ。本当に先生だったんすか?」
「知るか。本気で死にてえと思った奴は何があっても死ぬんだよ。止めたって無駄だ」
「分かったようなこと言うっすね。誰かに死なれた経験でもあるんすか」
「あるぜ」
城ケ崎が止まった。岡島が煙草を灰皿に押し付け、重たい言葉を何ら飾ることなく、重たいまま言い放つ。
「女房に死なれた」
◆
岡島の奥さん。
記憶の中から淳子はその姿を呼び起こす。おっとりしていて、立ち振る舞いの洗練された品の良い老女。あちこちにいちゃもんをつける岡島を諌め、だけど岡島と仲良さそうに笑いあっていた穏やかな人。あの人が、自殺した。
「……岡島さん、逃げられたって言ってたじゃないですか」
虚ろに呟く小林に、岡島は冗談めかした口調で言葉を返した。
「逃げられたぜ。あの世にな」
小林が黙る。城ケ崎も、藤本も、奥山も、淳子も黙る。なんで。どうして。誰もが思いながら誰もが口に出来ない言葉を岡島は感じ取り、ゆっくりと語り出す。
「アルツハイマーって知ってるか?」
岡島が右の人さし指でトントンと、自分の側頭部を叩いた。
「ここがおかしくなって、ボケちまう病気だ。俺の女房はそれを発症した。普通の時は普通なんだけどよ、同じことを何回も言うようになったり、物忘れが激しくなったり、時計が読めなくなったり、夜中ウロウロと徘徊するようになった。俺たちにゃ子どもはいねえし、この年じゃ親も親戚もろくに生きちゃいねえからよ。そういう女房の世話をするのは俺の役目だった」
岡島が新しい煙草に火をつけた。吐き出した煙を目で追い、ぼんやりと中空を見やる。
「女房がボケる前、俺はずっと言ってたんだ。俺はボケたら自殺する。お前に介護はさせねえから安心しろってな。女房はその度に『縁起でもないことを言わないで頂戴』って俺を叱った。俺はそう言って貰えんのが気持ち良くて、何回も同じことを言った」
岡島の口元が歪んだ。笑いではなく、嗤い。
「ところが女房が先にボケちまってよ。ある日、あいつがニコニコ笑いながら俺に言って来たんだ。『あれだけ言われたのに私が先にボケちゃった。迷惑かけないために死んじゃおうかしら』って。俺は笑いながら『そうしてくれると楽かもなあ』って返した。女房はやっぱり笑いながら『あら、ひどい』って言ってな。そん時はそれで終わったよ」
煙草の先から、灰がテーブルに零れ落ちた。
「そうしたら次の日、部屋で首吊って死んでた」
雨音が、にわかに強くなった気がした。ザーザーとノイズのような音を背景に、岡島は語り続ける。
「遺書があってな。おかしくなっていく自分を俺に見られることや、自分が俺のことをどんどん忘れていくのがイヤだったそうだ。ずっと死にてえと思ってたらしい。俺の悪口は一切書いてなかったよ。『幸せだった。ありがとう』って、感謝しかなかった」
岡島が溜まった煙草の灰を灰皿に落とした。そしてまた、嗤う。
「意味わかんねえよな。幸せなら、何で死ぬんだよ」
かける言葉が見つからない。
何か言わなくてはと思う。何か言いたいとも思う。だけど何を言えば岡島の心が救われるのか、淳子には分からない。奥さんと一緒にいる時の岡島は幸せそうだった。偏屈を極めた老人が少年のように屈託なく笑う姿に、可笑しさすら感じていた。
だけどもう、奥さんはいない。
岡島があの顔で笑うことは――二度とない。
「ま、そーいうことがあってな。ここには女房と来たことがあるんだけどよ、アイツがクリスマスにも行ってみたいって言ってたのを思い出して来てみたのが今回だ。しかしまあ、失敗だったな。こんなわけのわかんねえ連中のわけのわかんねえオママゴトに付き合わされるとは思ってなかったぜ。女房には行かなくて正解だったって言っとくわ」
岡島が嗤う。厭らしい、下卑た嗤いを浮かべる。どちらかが神に呼ばれるまで、生涯を共にするつもりだった伴侶の前ではおそらく見せたことのない、ありったけの汚らしい感情を詰め込んだ笑顔。
「――ふざけんなよ」
男の声。
岡島に集まっていた視線が、一斉に声の主に引かれた。岡島もどこか疲れたようにぼんやりとその男を見やる。男――小林は椅子を引いて立ち上がり、両の拳を握りしめながら岡島を見下ろした。
「何が、『女は追えば追うほど逃げる』だ」
小林の険しい声からは、岡島を年長者と認め、敬う気持ちが完全に消えていた。
「何が、『追いかけなきゃ捕まえられないなら、お前のものじゃない』だ」
叩きつけられた言葉を叩きつけ返し、小林が吼える。
「あんた、一歩だって追いかけちゃいないじゃないか。好きな子いじめる小学生のガキみたいに悪ぶって、取り返しのつかないことになっただけじゃないか。それで出した結論が僕に言ったあの言葉か。それだけのことになってまだ、自己正当化のための詭弁を垂れ流し続けるのか。ふざけるのもいい加減にしろ」
小林が右の人さし指を立て、岡島の眉間を指さした。
「今、分かったよ。投票は正しかった。死んでいるのはあんただ。あんたは生きているけれど、死んでいるんだ」
反骨心からか、疲れ切っていた岡島の目に徐々に生気が宿る。小林が右手を開き、自分の胸に乗せた。
「僕は違うぞ。元々、僕のものじゃない人を、追いかけて追いかけて追いかけて僕のものにしたんだ。逃げられて僕のものじゃなくなったとしても、また追いかけて僕のものにする。あんたみたいに、我が身可愛さに、分かったようなことを言ったりしない」
小林がちらりと藤本を見やった。ずっと小林を避け続けて来た藤本が、その視線は避けずに正面から受け止める。岡島が、ふんと鼻を鳴らした。
「気持ち悪ぃストーカーまがいのことをしてでも、か」
弱みを突かれ、小林が怯んだ。岡島が煙草を灰皿に押し付け、小林を睨み返す。
「いいぜ。そこまで言うなら誰が死んでるか、聖夜に相応しいでっけえ存在に決めて貰おうじゃねえか」
「でっかい存在?」
「ああ」
稲光が部屋を照らす。岡島が腕を上げ、すっと天井を指さした。
「神様だよ」
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