第2話「発端」

 全員を部屋に案内した後、淳子はキッチンに向かった。

 いきなり一人増えちゃったけど、大丈夫かな。不安になりながら冷蔵庫を開く。ウィーンと冷却機が働く音を聞きながら中をくまなく見回す。やがて淳子は冷蔵庫の扉を閉め、真っ青になった。

 ――ない。

 どうしよう。今日のお客様は全員一泊。ディナーを食べて眠り、モーニングを食べて帰る。そこまで保つだろうか。いや、保たせなくてはならない。お客様に満足して帰って頂く。それが自分の責務だ。

「おい」

 背中からしわがれた声が届いた。振り返ると、しかめ面の岡島。

「どうなさいましたか?」

「廊下がやかましくて敵わねえ。なんとかしろ」

「廊下?」

「見りゃ分かる」

 つっけんどんに言い放ち、岡島が足早に歩き出す。無視するわけにもいかず、淳子はその後をついていく。階段を上って二階に辿り着き、廊下の奥を覗くと、確かに岡島の言うとおり「見れば分かる」光景がそこには広がっていた。

「なあ、美月。開けてくれよ。頼むよ」

 パーカーにチノパンというラフな格好の小林が、藤本の部屋のドアに話しかけている。正しくは部屋の中の藤本に話しかけているのだろうけれど、藤本が答えないのでドアに話しかける形になっている。「民事不介入」という言葉が淳子の頭に浮かんだ。

「オーナーとして、お客様のプライベートに立ち入ることは難しいのですが」

「ほう。ならばオーナーとして、他の客のせいで迷惑こうむっている客に我慢を強いるのは正しいってわけだ。ご立派なこった」

 口の減らない老人だ。淳子は抵抗を諦め、しずしずと小林に歩み寄った。そして必死にドアと会話――もとい、ドアに演説する小林に、恐る恐る声をかける。

「あの、小林様。他のお客様のご迷惑になられますので、なるべくお静かに願えませんでしょうか」

 小林がくるりと振り向いた。少し興奮した様子で早口に語る。

「そうは言いますけどね、オーナーさん。僕も大変なんですよ」

「はい。それは分かります。ですが――」

「何ならオーナーさんからも言ってやってくださいよ。お前のせいでみんなが迷惑している。いつまでも意地張ってるんじゃないって」

「他人を使うとかサイッテー!」

 部屋から声が響いた。どうやら演説を聞いてはいたらしい。「ああ、もう」と頭を掻き毟る小林に、淳子の陰から岡島がぬっと現れて声をかけた。

「兄ちゃん、その辺で止めときな。女は追えば追うほど逃げる」

「なんですかいきなり。貴方には関係ないでしょう」

「そうだな。だが、年長者の言うことは聞いておくもんだ」

「……年長者の発言が常に正しいとは限らない」

「そうかい。なら、女房に逃げられた経験者の発言ならどうだ?」

 小林が目に見えて狼狽した。三下り半だったかと、淳子は一人納得する。

「追いかけなきゃ捕まえらんねえってのは、もうお前のもんじゃねえってことなんだよ」

 吐き捨てるように言い残し、岡島が自分の部屋に引っ込んだ。小林は再び藤本の部屋のドアと向かいあい、しかし今度は声をかけない。モゴモゴと唇を動かす小林に、淳子は横から声を潜めて話しかけた。

「小林様。食事の時間になれば藤本様も出てくると思います。まずは藤本様の気が鎮まるのをお待ちになってはいかがでしょうか」

 小林が、淳子と藤本の部屋のドアを交互に見やる。やがて疲れたように大きな溜息をつくと、弱々しい声で淳子に告げた。

「……分かりました」

 小林がよろよろと歩き、自分の――正確には、自分用にあてがわれた代替の――部屋に消える。やれやれ、どうにか片付いた。早くディナーの準備をしないと。急いで一階に戻ろうとした淳子の足を、突然開いた扉から出て来た一人の男が止めた。

 城ケ崎。

「あ、オーナーさん。ちょうど良かった」

「ちょうど良かった?」

「オレ、今めっちゃ暇なんすよ。なんで――」

 ジーパンのポケットから直方体の箱を取り出し、城ケ崎が二カッと笑った。

「トランプしません?」

 しません。「夕食の仕込みがあるので」と場をやり過ごし、一階に向かう。やがて階段の途中で「小林さーん。遊びませんかー?」という脳天気な声を背中から聞いた淳子は、面倒なことに巻き込まれないように歩調を速めた。


     ◆


 夕食の時間、最初に食堂に現れたのは奥山だった。

 続けて岡島。そして小林と城ケ崎。どうも小林は城ケ崎の遊びの誘いに乗ったようで、やたら仲良さげに話しながら食堂に来た。城ケ崎は「じゃ、コバちゃん。カノジョさん来たら悪いから、オレは別の席に座るっす」と小林とは別のテーブルに座り、小林は何だか寂しそうに離れた城ケ崎を見つめていた。情にほだされる日本人。

 まずは前菜。有機野菜のサラダとシャンパンを各テーブルに配る。奥山は無言で、小林は「すいません」と頭を下げて、城ケ崎は「あざーっす」と雑な礼を告げて料理を受け取った。岡島は「おい」と淳子に声をかけ、乱暴に言い放つ。

「灰皿寄越せ」

「……他のお客様のご迷惑になりますので、お食事中は禁煙でお願いしたいのですが」

「前もそれ言ったな。あん時、言われた俺がどうしようとしたか覚えてるか?」

 岡島がすうと息を吸い、食堂中に響き渡る大声を出した。

「おーい。俺は今から煙草吸うけど、どうしてもイヤって奴がいたら手ぇ挙げろー」

 反応なし。当たり前だ。こう言われて正面から反発出来る人間など普通はいない。もっとも今回の場合、城ケ崎は出来そうだが、彼は食事中に煙草の煙を嫌がるような繊細なタイプではないだろう。

「っつーわけだ。灰皿持ってこい」

「……承知いたしました」

 前は奥さんが止めていたのに。淳子は憂鬱な気分で食堂の戸棚に向かい、ガラスの灰皿を取り出して岡島の下に運んだ。岡島は既に吸い始めていた煙草の灰をとんとんと灰皿に落とし、淳子に尋ねる。

「今日のメニューはどうなっている」

「前菜の後はカボチャのポタージュスープ、サーモンのパイ包み、それからメインディッシュに七面鳥のローストをお出しして、最後はジェラートの予定となっております」

「クリスマスなのにケーキの一つも出ねえのか。しみったれたペンションだな」

「……以前、お祝いのケーキをお出しした際、岡島様はケーキが苦手であると仰っていた記憶がございますが」

「心意気の問題だ」

 出したら出したで文句を言うくせに。そんなんだから奥さんに逃げられるのよ。言わないけれど。

「申し訳ありません」

 謝罪を告げ、そそくさと岡島から離れる。まあ、この偏屈爺の相手は経験済みだ。対応はそれほど難しくはない。今、一番対応が難しいのは――

 食堂の扉が開いた。

 現れたのは当然、藤本。藤本は小林をさっと一瞥すると、小林から最も離れたテーブルに座った。湿気のせいだけではない重たい空気が流れる中、城ケ崎があっけらかんと皆に尋ねる。

「すいませーん。テレビつけていいっすかー?」

 小林が「いいよ」と答える。他の客は全員無反応。賛成一、無効三を城ケ崎は同意と捉え、淳子を呼んだ。

「オーナーさん、リモコンくれます?」

 頼まれた通り、淳子はリモコンを城ケ崎に渡した。すぐに食堂の壁に立てかけてある薄型テレビの電源が入り、バラエティ番組がクリスマス特集で街を行く幸せそうなカップルにインタビューをしている映像が映る。なんて空気の読めないテレビ。


『彼と喧嘩したことはありますか?』

『ないでーす』

『喧嘩ゼロの秘訣は?』

『えー、なんだろうね、たっくん』

『僕からしたら、好きあっているのに喧嘩するカップルの方が不思議ですね』

『大好きな彼女のことなら何でも許せる?』

『はい。もちろん』

『ちょっと恥ずかしいから止めてよー』


「……ウザ」

 奥山がボソリと呟く。淳子も同意だった。しかし城ケ崎の手の中にあるリモコンを奪ってチャンネルを強引に変えるわけにもいかず、キッチンに引っ込む。

 それから淳子がどれだけ料理を出しても、重苦しい雰囲気は全く解消されなかった。五人が五つのテーブルを使って食事をするという個人主義の極地から会話が生まれることはない。唯一、城ケ崎だけはテレビに相槌打ったりして声を発していたが、それも番組がバラエティからニュースになって無くなった。

 淳子が全員に最後のジェラードを配り終えた時、そのニュースは流れた。

『本日、長野県の山中で、車が橋から川に転落したと思わしき痕跡が見つかりました』

 長野県の山奥という言葉に反応して、全員の視線がテレビに集中する。テレビがパッと切り替わり、ただコンクリートを固めてガードレールで両脇を覆っただけの雑な橋と、そのガードレールがひしゃげで裂けている箇所、そしてその橋の下を流れる嵐で増水した川を映した。

「あ、ここ、通った」

 城ケ崎がテレビを指さした。皆の視線がさらに強くなる。それもそのはず。テレビに映し出された場所は、山のふもとから『森の隠れ家』に来るのであればほぼ確実に通る、すぐ近くの橋だ。

 午後四時頃に事故の痕跡が発見されたこと。車ごと増水した川に落ちて流されたと思われること。嵐が止み次第、捜索を開始する予定だということ。目撃証言や行方不明者の情報を集めていること。それらを告げてニュースが終わる。しんと場が静まりかえる中、城ケ崎がテンション高く淳子に話しかける。

「オーナーさん! あれ、すぐ近くっすよね!」

「はい」

「マジかー。もしかして事故ったの、ここに来る客じゃないっすか?」

「お客様は全員揃っております」

「いや、分かんないっすよ。もしかしたらこの中の誰か――」

 城ケ崎がへらへらと笑いながら、ぐるりと食堂を見渡した。

「もう、死んでたりして」

 雷光が、室内を強く照らした。

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