お前はすでに死んでいる。

浅原ナオト

第1話「集合」

 稲光の少し後、巨大な龍の嘶きのような雷鳴が轟いた。

 ロッキングチェアに揺られながら文庫本を読んでいた田上淳子は、その音に反応して顔を上げた。パタンと本を閉じて立ち上がり、近くの窓辺に向かう。吹き付ける強風と大雨で震える窓ガラスに手を乗せ、遠くに見える山々をぼんやりと見やる。

 東京都台東区に住んでいた淳子が地元を離れ、長野県諏訪市の山奥でペンションの経営を初めてから、そろそろ十年になる。溢れんばかりの自然で囲まれたお洒落な木造りペンションでロマンチックな一時を――というものに憧れていた初心は四十も半ばになってだいぶ薄れてしまったが、その分、逞しさが身に着いた。たいていの虫は素手で触れるし、蜂の巣も問題なく処理できる。付き合いのある地元の人がくれるイナゴの佃煮も蜂の子もバリバリ食べるし、何なら自分で買ってくることすらある。そういう淳子は、この程度の嵐では動じない。

 しかし、お客様は別だ。いつキャンセルの連絡が来てもおかしくない。

 今日の予約は三組。人数で言うと四人。今日がどういう日かを考えれば決して多いとは言えない。むしろ六つある二人部屋が三つも空いており、埋まっているうちの二つは一人しか泊まらないという現状はかなり少ない。ペンションの従業員は淳子一人しかいないから人数が増えすぎても対応に苦慮するけれども、やはり世の中は、多少の無理をしないと儲からないように出来ている。

 不意に、ロングスカートのポケットで業務用のスマホが震えた。来てしまった。気を滅入らせながらスマホを取り出す。しかし表示されているのは番号のみであり、どうやらアドレス帳に登録されていないようだった。おかしい。お客様の番号は予約が入った時点ですぐ登録するのに。

「はい。ペンション『森の隠れ家』です」

 電話を取り、事務的に告げる。返って来たのは若い男の声だった。

「すいません。今日、部屋に空きあります?」

「あります」

「良かったー。予約なしで泊まれますか?」

 答えに詰まる。男がたどたどしく事情を語り出した。

「えっと、オレ、自転車であちこち走ってる大学生なんすけど、急に嵐が来て泊まるところがなくて困ってるんです。メシとか全部なしでいいんで、泊まれませんか?」

 なるほど、と淳子は小さく頷いた。

「構いません。お料理も用意いたします。ですがこの嵐の中、自転車でこちらまで来られるのですか?」

「タクシー呼びます」

「承知いたしました。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

「城ケ崎直哉っす」

 近くの小さなデスクからメモ帳とペンを取り出し、サラサラとメモを残す。それから料金やチェックアウトの時間などを説明して会話は終わり、淳子は電話を切った。スマホをポケットにしまい、ふうと息を吐く。

 ――まさか、増えるとはね。

 肩を鳴らす。これでお客様は四組五人になった。電話をかけてきた城ケ崎直哉はもてなし不要などと言っていたが、そういうわけにもいかないだろう。後で空き部屋を清掃しなくては。

 外はどんな感じなのだろうと玄関に向かい、扉を開ける。強烈な雨風がロッジ内に吹き込んで来たので、すぐに閉める。神様も何もこんな日にこんな天気にしなくていいのに。玄関脇の下駄箱の上に飾ってある、メッセージの記された看板を肩に担ぐ小さなサンタクロース人形を眺めながら、淳子は物思いに耽る。

 今日はクリスマス。

 ここの乗り切り方でその後の評判が決まる、宿泊業界にとっては天王山とも言えるイベントだ。しかし、この悪天候。客の要求に応えるのは当然難しくなる。更にせっかくのイベントを神の気まぐれで台無しにされたお客様はだいたい不愉快になっており、そういったお客様と相対するのは、決して気持ちのいいものではない。

 サンタクロース人形が掲げるメッセージを読む。山の麓の商店街でクリスマスの準備を整えていた際、たまたま入った雑貨屋で賑やかしに買った、胴体と首がバネで繋がっている首振り人形。今となってはここに記されている文言も皮肉に思えてくる。


『聖なる夜は、奇跡が起こる』


「……奇跡で嵐を止めてみなさいよ」

 指先で人形の頭をつつく。「それは専門外です」と言った風に、人形がぷるぷると首を横に揺らした。


     ◆


 午後二時半頃、一人目のお客様が現れた。

 黒いロングコートを身に纏った白髪の老人、岡島康二。その顔の皺は不機嫌そうな表情と相まってとても深い。閉じた傘を傘立てにしまう老人に、淳子は深々と頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました」

 歓迎の言葉を告げ、濡れた身体を拭くためのバスタオルを差し出す。しかし老人はタオルを受け取らず、面白くなさそうにふんと鼻を鳴らして悪態をついた。

「相変わらず、小汚ねえ建物だな」

 ――出た。

 岡島は過去、奥さんと結婚記念日を祝いに『森の隠れ家』を訪れている。よって淳子はこの老人の偏屈さをよく知っている。目に映ったもの全てに文句をつけることを生業としているかのように、建物に、部屋に、料理に、淳子に文句をつけて帰って行った。あの時は岡島がいちゃもんをつける度、おっとりした年配の奥さんが「よくありませんよ」と諌めてくれたのだが、今回は残念ながら一人だ。

「駐車場も遠いしよ。雨に降られてひでえ目にあったぜ」

「……申し訳ありません」

「部屋はどこだ」

「二階の一番右奥となっております。それよりタオルを……」

「要らねえ。鍵を寄越せ」

 岡島がずいと手を伸ばす。そっちは要らなくてもこっちは建物汚されちゃ困るのよ。半分以上でかかったその言葉を胸中に留め、淳子は玄関脇のキーボックスから部屋番号を記したプラスチックプレートつきの鍵を外し、岡島に渡した。岡島は鍵を受け取るや否や淳子に背を向け、無言でツカツカと玄関脇の階段を上っていく。

 別に期待していなかったとは言え、あんまりな態度に淳子の口から溜息が漏れる。緩衝剤となってくれる奥さんがいないのはやはり辛い。彼女はどうしたのだろう。病気だろうか。いや、病気ならば一人で旅行には来ないだろう。ならば死別。ああいう男だから、三下り半をつきつけられたのかもしれない。熟年離婚の傷心からクリスマスに思い出のペンションを訪れているのだとしたら、ああ見えてセンチメンタルなところのある男だ。

 まあ、なんでもいい。理由は様々考えられるけれど、どの理由も宿泊先のペンションオーナー程度が気軽に聞いて良いものではないことは一致している。淳子はそう割り切り、使われなかったバスタオルを持ってリビングに向かおうとした。

 玄関の扉が、再び開いた。

 現れたのは二十代後半ぐらいの若い女だった。ブラウンのカーディガンを羽織り、ブランドもののマフラーを巻き付け、旅行用の小さなキャリーケースを引いている。パーマのかかった明るい茶髪は、平常時ならばその出で立ちに合ったふわふわした雰囲気を醸し出しているのだろう。だが今は湿気でペタッと潰れてしまい、むしろ野暮ったい。

 女性一人客。ということは――

「ようこそいらっしゃいました。奥山様でしょうか?」

 今日宿泊する女性一人客は奥山彩音しかいない。質問というより、確認のために淳子は尋ねた。しかし女性は首を横に振る。

「藤本です」

 淳子は驚きに大きく目を見開いた。藤本美月。確かに彼女は今日の宿泊リストに入っている。しかし――

「お連れの小林様は……」

「さあ。すぐそこの川で泳いでるんじゃないですか。そのうち来ると思いますよ」

 つっけんどんに言い放ち、藤本が淳子の手からタオルを取って髪を拭く。藤本の宿泊予約を入れたのは藤本自身ではなく、小林学という名の男性だ。昔は二人だった老夫婦が一人で来たように、二人で来る予定だったカップルが一人で来た。何にせよ、迂闊に理由を聞けないことに変わりは無い。

「――まずは、お部屋に案内しますね」

 色々と聞きたい気持ちをグッと堪えて、藤本を部屋に連れて行く。二階に繋がる階段を上り、右手側と左手側にそれぞれ部屋が三つずつある長い廊下を歩く。右手側の一番奥が岡島の部屋。左手側の一番奥が藤本と小林の部屋だ。

「こちらです」

 鍵を渡し、部屋を開けてみせる。部屋に足を踏み入れた藤本はすぐドアを閉めようとしたけれど、ふと何かに気づいてドアを半開きにしたまま淳子に話しかけてきた。

「あの、すいません。鍵はこれ一本ですか?」

 藤本が受け取った鍵を掲げる。淳子は「え?」と素っ頓狂な声を上げた。

「この鍵以外に、部屋の鍵を開けられるスペアキーとかはありますか?」

「オーナー用のマスターキーを用意しておりますが」

「分かりました。じゃあ一つ、お願いします」

 藤本が気の強そうな細い眉を釣り上げ、怒気を込めた言葉を放った。

「そのマスターキー、絶対に使わないで下さい」

 ドアが勢いよく閉じられる。後から来る小林を部屋に入れるなという要求であると理解した淳子は、面倒なことになりそうな気配に深く肩を落とした。


     ◆


 三人目は、藤本のすぐ後に現れた。

 藍色のリュックサックを背負い、白いウィンドパーカーを着た、両耳に銀色のピアスをつけた茶髪の若い男。十代後半から二十代前半。小林だろうか。いや、藤本の隣に並ぶにしては雰囲気が若すぎる。

「あの――」

「いやー、すいません。予約無しでいきなり泊めてくれなんて言っちゃって。この嵐じゃ買い出しとかも行けないし、めっちゃ困りますよね。にしてもマジすごいっすよ、外。道路封鎖されるんじゃないかなー。あ、そのタオル、使っていいですか?」

 やはり、城ケ崎直哉だった。淳子は「どうぞ」とタオルを恭しく差し出す。城ケ崎は「あざーっす」と軽い調子でタオルを受け取り、濡れた顔や身体を拭きはじめた。

「あー、生き返るー。ところでこのペンション、いい雰囲気っすね。適度にOSR値高くてすげー親しみやすいっす。あ、OSR値ってのはオシャレ値って意味っす。OSR値は高すぎてもダメなんすよ。オレみたいなパンピーがビビッしちゃうんで。だからこのペンションの、なんつーか、中途半端にお洒落な雰囲気はめっちゃいいと思います。ベリグです、べリグ」

 よく喋る男だ。そして凄まじく失礼でもある。これでも間接照明を置いてみたり、無意味に皿を飾ってみたり、格調高いペンションにしようと頑張っているのに。

「そんで、オレの部屋はどこですか?」

「部屋は二階です。行きましょう――」

 ガチャ。

 玄関扉の開く音が聞こえ、淳子と城ケ崎は揃って後ろを振り返った。トレンチコートを着込み、肩からドラム型の旅行バッグを提げた、頭からつま先まで全身ずぶ濡れの男が視界に入る。大きな黒縁眼鏡が神経質な印象を抱かせる、二十後半から三十前半ぐらいの青年。どこかハイカラなところのある城ケ崎と比べ、ザ・日本人といった風体だ。

「小林様でしょうか?」

 問いかけに、男――小林がこくりと頷いた。そして顔を上げ、眼鏡の奥の目を見開いて淳子に詰め寄る。

「美月は来ていますか」

「藤本様でしたら、既に到着しております」

「どこにいますか」

「部屋です」

「案内して下さい」

「先にお身体を拭かれた方がよいと思いますよ。全身びしょ濡れですので」

「ああ……すいません。駐車場から傘も差さないで走ってきたので」

「これ使います?」

 城ケ崎が会話に割り込み、タオルを小林に差し出した。小林は戸惑いながらも「あ、ああ、ありがとう」とタオルを受け取って使う。流されやすい日本人。

「美月は、どんな感じでしたか?」

 タオルで髪を拭きながら小林が淳子に尋ねる。隠しても仕方ない。淳子ははぐらかすことなく、素直に答えた。

「大変怒っていらっしゃるようでした」

「……そうですか」

「正直、今のままでは部屋に入るのも難しいと思います」

「オーナーさんはスペアのキーを持っていないんですか?」

「藤本様からマスターキーは使うなと釘をさされています」

「マジっすか! こえー!」

 またしても城ケ崎が会話に割り込み、小林が怪訝な表情で城ケ崎を見やった。しかしやはり追求はせず、城ケ崎を無視して淳子に話しかける。

「とにかく、行きましょう。連れて行ってください」

「あ、オレも部屋行きたいんで、お願いしまーす」

 はいはい。淳子は城ケ崎の部屋の鍵を持ち、二人を二階に案内した。城ケ崎の部屋は右手側の一番手前。鍵を渡して扉を開け、「こちらが城ケ崎様のお部屋です」と示す。

「分かりました!」

 元気の良い返事。しかし、城ケ崎は動かない。

「あの……」

「じゃ、次行きましょう!」

 城ケ崎がずんずんと奥に向かって歩き出す。どうやら小林と藤本のいざこざを見たいようだ。淳子が「どうします?」という視線を送ると、小林は力なく項垂れながら「行きましょう」と呟いた。NOと言えない日本人。

 三人でついさっき藤本が入った部屋の前に立つ。淳子が小林に「ここです」と告げると、小林はすうと一つ深呼吸をした。そしてコンコンと部屋の扉をノックする。

「美月。僕だ。開けてくれ」

 返事無し。もう一度ノックして呼びかける。

「美月。僕だ」

 返事無し。小林がくるりと振り返る。

「すいません。オーナーさん。やっぱりマスターキー下さい」

「オーナーさん! 絶対に渡さないで下さい!」

 甲高い叫び声がドア越しに響く。城ケ崎が自分で自分の身体を抱き、「こえー」と愉快そうに呟いた。

「じゃあ僕はどうすればいいんだよ!」

「帰れば? っていうか、帰れ!」

「帰れるわけないだろ。なあ、冷静になって――」

「帰れ!」

 取りつく島無し。小林ががっくりと肩を落とす。その肩を、城ケ崎がポンと叩いた。

「オレの部屋来ます?」

「……君は、いったいなんなんだ?」

 ようやく、小林が城ケ崎の正体に触れた。城ケ崎はなぜか無意味にはぐらかす。

「そんなのどーでもいいじゃないっすか。早く着替えないと風邪ひきますよ」

 いきなり常識人ぶるな。しかし、言っていることは間違っていない。

「小林様。確かに、このままだとお身体に障るのは間違いありません。まだ空室がございますから、ひとまずそちらにご案内します」

「すいません……助かります」

「え? クリスマスなのに二部屋も空いてたんすか? 超過疎ってますね」

 ――悪かったわね。三部屋空いてたわよ。

 淳子は引きつった笑顔を浮かべて城ケ崎の言葉を受け流し、「鍵を取ってきます」と二人から離れた。駆け足で階段を下り、キーボックスのある玄関に向かう。

 そして、いつの間にか玄関に立っていた女を見て立ち竦む。

 下は黒いジーンズを履き、上は黒いジャケットを着込んだ、全身黒づくめの女性。年齢は若く、おそらく三十代には届いていない。何をするわけでもなくただ俯き、前も後ろも長い黒髪から水滴をしたたらせ、置き物のように立っている。

 淳子は階段を下り、女性の前に立った。しかし女性は顔を上げることすらしない。このまま放っておいたらどうなるのだろう。そんなことを考えてしまうぐらい、生きている気配を感じない。

「奥山様でしょうか?」

 明るく話しかける。女性――奥山の首が、揺れたのか頷いたのか分からないぐらい縦に振れた。

「ようこそいらっしゃいました。今、お身体を拭くタオルをお持ちいたしますので、少々お待ち下さい」

 淳子は踵を返した。小林には申し訳ないが、今まさにずぶ濡れのこちらが優先だ。急いでバスタオルを取りに洗面所に向かおうとする。

 淳子のスカートを、奥山が掴んだ。

 いきなり後ろに引かれ、つんのめりそうになった。ゆっくり振り返る淳子に、奥山がボソボソと囁くように話しかける。

「あの……」

「はい」

「今日、このペンション、幸せなカップルだらけですか」

 意味不明な質問。眉をひそめつつ、淳子は答える。

「いえ。男女でいらしてる方は一組だけです」

 しかも全く幸せそうではありません。そこまでは言わずに留める。それが貴女になんの関係があるんですか? それも聞かずに留める。

 長い前髪の奥で、奥山がニタリと笑った。

「……良かった」

 ――どうして、こう。

 額に手をやって嘆きたくなる気持ちを堪え、そそくさと奥山から離れる。なんでこんなにも一癖も二癖もあるお客様が集まるのだろう。中途半端にお洒落なのがいけないのかしら。そんなことを考えながら淳子は、本日何度目かの溜息を盛大に吐いた。

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