今夜こそ、一緒に
その日の昼休み。
昼食を取るために足を運んだいつものレストランが珍しく満席だったので、そこから少し先にあるカフェに行くことにした。
その途中にある喫茶店の前を通りかかった時、髪の長い女の人と笑いながら向かい合ってコーヒーを飲んでいる彼を見掛けた。
その人は間違いなく彼の妻だった。
前に一度だけ見掛けた時より髪が伸びて、頬の辺りが少しふっくらしている。
二人して楽しそうに笑う姿は、どこか幸せそうにも見えた。
離婚するなんて嘘だったんだ。
帰りが遅くなった日はおそらく妻と会っていて、二人はきっと復縁するつもりなんだろう。
そうでなければあんなに幸せそうに笑えるはずがない。
妻との関係が修復できた今、用済みの私は間違いなく捨てられる。
つらくても苦しくても、愛していたから彼の言葉を信じて待っていたのに。
彼と私が愛し合った罪が私だけに課せられるなんておかしい。
彼も同じ重さの罪を背負うべきだ。
その夜。
急いで帰宅した私は、いつもより腕によりを掛けて作った豪華な料理と贅沢なワインをテーブルに並べて彼の帰りを待った。
彼と私の最後の晩餐ってやつだ。
最後の夜だから、心から笑って記念日をお祝いしよう。
それが済んだら、今度こそひと思いに……。
時計の針が8時を指した頃。
何も知らずに帰宅した彼はテーブルに並べられた料理を見ると、いつになく嬉しそうに笑った。
「おっ、すごいご馳走だなぁ。」
「一緒に暮らし始めて今日でちょうど1年でしょ。ちょっと奮発しちゃった。」
いつもは買わない血のように赤い贅沢なワインをグラスに注ぐ。
私が最後の晩餐に乾杯しようとグラスを手に取ると、彼は床に置いた鞄の中をゴソゴソと漁った。
「乾杯の前に、ちょっといい?」
「どうしたの?」
もしかしたら妻と復縁することになったから別れようと言われるのかと思いながら、ワイングラスを静かにテーブルの上に置いた。
彼は鞄の中から取り出した何かをテーブルの下に隠し持って笑っている。
「妻が妊娠したんだ。今、3ヶ月だって。」
「えっ…妊娠?」
それはあなたの子なの?
そう尋ねたいのに言葉が何ひとつ出てこない。
彼はテーブルの下で何かをギュッと握りしめた。
まさか私の殺意に気付いて、殺られる前に殺ってしまおうと思ってる?!
妻との間に子供ができたから邪魔な私を消してしまおうとしているの?
なんの凶器も持たず丸腰の状態の私の力では、彼の力には敵わないだろう。
思いもよらぬ事態に動揺して、テーブルに置いたワイングラスを倒してしまいそうになる。
ああ、でも私を殺せば、彼は一生私を忘れることはないだろう。
最期に視界に映るのが彼ならば、私はきっと幸せにこの人生を終えることができる。
憎むほど愛する彼に殺されるなら本望だ。
覚悟を決めたその時。
「妻にも再婚したい相手が現れてね…その人の子を授かったんだよ。それでやっと離婚に応じてくれて、今日で全部話は済んだから。」
「えっ……?」
何それ、そんなの聞いてない。
もしかして最近帰りが遅かったのも、今日のお昼に奥さんと会っていたのもそのために?
「離婚の話が進んでること、どうして何も話してくれなかったの?」
「全部済ませてから知らせてビックリさせようと思って。今日までにちゃんとケジメつけたかったんだ。」
彼は握りしめた手の中から、私の目の前に小さなビロードの箱を差し出した。
ゆっくりと蓋を開けると、ダイヤの指輪がキラキラと輝いている。
彼は私の手を取り薬指に指輪をはめてくれた。
「長い間待たせてごめん。結婚しよう。」
これは夢…?
まさか嘘をついて私を油断させておいて殺そうなんて思ってないよね?
じっと指輪を見つめたまま黙り込んでいる私の様子に不安になったのか、彼はためらいがちに私の手を握った。
「プロポーズの返事…聞かせてくれるかな?」
「うん…。」
「俺と、結婚してくれる?」
「はい…よろしくお願いします…。」
彼のたった一言で最後の晩餐はお祝いのディナーに変わり、私の嬉し涙で殺害計画は未遂のまま幕を閉じた。
殺されたのは私の中に芽生えたあなたへの殺意だけ。
「この先何があっても浮気だけはしないって約束して。」
「言われなくても絶対にしないよ。一緒に幸せになろうな。」
「うん、一緒にね。」
いつか息を引き取るその時まであなただけを愛することを誓うから、これから先のあなたの人生、命掛けで私だけを愛してね。
殺したはずのあなたへの殺意が再び息を吹き返さないように。
これからはつらく悲しい罪ではなく、二人の愛情を重ねて生きて行きましょう。
今夜、私を殺してよ 櫻井 音衣 @naynay
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