今夜、私を殺してよ

櫻井 音衣

芽生えた殺意



今夜もあなたは私の気も知らず無防備に寝息をたてている。


安心しきったその寝顔を眺めながら大きなため息をついてベッドを降りた。


眠れない私はソファーにうずくまり、心の中で“明日こそは”と何度も呟く。


どのタイミングで、どんな方法で。


ありとあらゆる状況をシミュレーションしながらゆっくりと眠りの淵に堕ちていく。


こんな不毛な夜を何度重ねただろう。



私は今日もまた、あなたを殺しそびれてしまった。





夜明け前。


明け方の冷たい空気にさらされた肌がブルリと震えて目が覚めた。


窓の外はまだ暗い。


あなたは常夜灯に照らされたベッドの上で温かそうに布団にくるまってぐっすりと眠っている。


冷えた体をさすりながら常夜灯を消して布団に潜り込むと、あなたは眠ったまま腕を伸ばして私を抱きしめた。


あなたのぬくもりが私の体を少しずつ温めていく。


それと引き換えにあなたの体は冷えていく。


まるで私があなたの体から体温を吸い取っているみたいだ。


あなたは眠っているはずなのに、私の体の冷たさに顔をしかめた。


このまま私の体で包み込んで、あなたの体温をすべて奪って殺すことができればいいのに。


あなたが眠っているうちなら簡単に殺せるのはわかっている。


だけど私がそれをしないのは、あなたが苦痛に顔を歪めて許しを乞う姿が見たいから。


私の愛とあなたの罪の深さを思い知り悔やんで欲しいから。


そして最期に私に対してどんな言葉を残すのかを知りたいから。


だから私は今日こそあなたを殺そうと心に決めて、冷えきった唇で眠るあなたに口付ける。


あなたが最期の時くらいは嘘つきなその唇で“愛してる”と囁いてくれるように。





いつも通りの朝。


テーブルの上にはバターを塗った厚切りのトーストと固めに焼いた目玉焼き、野菜ジュースと温かいカフェ・オ・レ。


私たちはダイニングキッチンで向かい合って席に着き、いつものように朝食を取る。


あなたはトーストを一口かじって私の方を見た。


「またソファーで寝ちゃったのか?」


眠っていてもわかるくらい私の体は冷えきっていたんだろう。


「うん。なかなか寝付けなくてね。ベッドで横になってたら余計に目が冴えて来たからしばらくソファーに座ってたんだけど、いつの間にか眠っちゃって。明け方寒くて目が覚めたの。」


「もう冬になるんだからそりゃ寒いよ。気を付けないと風邪引くぞ。」


看病でもさせられたら面倒だと思っているのか、風邪をうつされたら大変だと自分の心配をしているのか。


どちらが本心なのか、あるいは両方とも本心なのかも知れないけれど、あなたの声や言葉は私の体を本気で心配してくれているんじゃないかと勘違いするほど優しい。


「そうだね。気を付ける。」


熱を出して寝込んだりすると、あなたを殺せないからね。





付き合い始めて2年。


一緒に暮らし始めて今日でちょうど1年。


世間のカップルのように記念日を祝う予定もない。




彼に別居中の妻がいることを知ったのは、私たちが付き合い始めて半年が過ぎた頃だった。


結婚して2年ほど経った頃からいさかいが増えて夫婦関係がうまくいかなくなり、少し距離を置いて冷静になればまたうまくいくかも知れないと、何度も話し合った末に別居に至ったそうだ。


距離を置くことで修復を図ろうとしたはずなのに、逆にお互いの心は冷めきってもう修復の出来ない状態になってしまったと彼は言った。



何も知らなかったとは言え、どんな事情があったとしても家庭のある人との恋愛なんて許されないと私は思ったから、何度も彼と別れようとした。


だけどその度に“妻とは必ず離婚するからもう少し待ってくれ”と引き留められ、彼が好きだからどうしても離れることができなかった。



妻との離婚話が進むこともないまま付き合って1年近くが経った頃、私が少しでも安心できるように一緒に暮らそうと言い出したのは彼だった。


一緒に暮らそうと彼が言ったと言うことは、もうじき妻との離婚が成立して堂々と彼との関係を親や友人に明かせるのだと思ったのだけれど。


彼に私という恋人がいると知った妻は“絶対に離婚はしない”と言って、離婚話には応じなかったのだそうだ。


妻が怒るのも無理はない。


別居中とは言え彼と妻はまだ夫婦なのだから。



今にして思えば、好きだからこそもっと早く別れていれば良かった。


そうすれば彼が私だけのものにはならないことを虚しく思うことも、妻への後ろめたさに押し潰されそうになることも、彼を想って苦しむこともなかったんだ。


どんなに愛し合っていても、どれだけ一緒にいても、このままでは一緒になることは愚か、彼の存在を誰に明かすことも出来ない。


彼を好きになるほど私の罪は重くなっていくような気がしたから、一緒に暮らして1年経っても何も変わらなければ潔く別れようと決めていたのだけれど。


1ヶ月ほど前から彼の帰りが異様に遅い日が増え、ようやく帰ってきたと思ったらろくに会話もせずに眠ってしまうことが続いた。


そんな日は決まって、スーツから私の知らない女物の香水の残り香がした。


妻との決着がつかないまま私と付き合いだした時と同じように、今度は私も捨てられるのかな。


因果応報って言葉もあるし、妻が受けた屈辱を次に味わうのは私ってこと?


私も同じことをしたのだから、それは自業自得だと言って誰も私を哀れんではくれないだろう。


誰も哀れんでくれなくても構わないけれど、妻を裏切ってまで待たせていた私を捨てて、また別の人を同じ目にあわせるなんて許せない。


だから私は、優しいふりをして悪魔のように罪深きこの男を私の手で殺してしまおうと決めた。


本当は彼の手で死ねたら一番いいのだけれど、彼が息を引き取るのを見届けたら、私は彼の腕の中で自分の命を絶つつもりでいる。


そうすれば彼は永遠に私のものだ。


それなのに。


私はもう何日も彼の命を奪うことを躊躇している。


今日こそは彼を殺して一緒に逝こう。


そう心に決めて、彼の唇に最後の“行ってらっしゃい”のキスをした。



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