第27話入院二十七日目「退院」

朝食を食べた私は、案外静かな時間の中にいた。

挨拶は、ほとんど済ませていた。

といっても、私は自分から「今日、退院なんです」とは触れ回らなかったから、事情を知ってる数少ない人たちと親交をこっそり温めただけだった。

今だって本当に退院できるか実は少し不安なぐらいだ。

強制入院の時は言っていたことが簡単に覆されたし、一度降りた許可がダメになることもよくあった。

任意入院だってそうなることはあり得ると思ったし、実際、任意入院だったのに、あばれたり、洗剤を飲んでしまったりして医療保護入院(強制入院)に切り替えになる患者さんも今までたくさん見てきたのだ。

 10時を過ぎ、看護師さんたちの手を借りて、荷物もきちんとまとめた。

携帯電話を渡される。

「ご家族と連絡とりあう必要があるだろうから渡しておくけれどくれぐれも他の患者さんに見られないようにね」

「はい。わかりました」

閉鎖病棟内で光る、白いIphone5S。

それを手の中でいじっていると優香ちゃんがそっと私のベッドのカーテンを開ける。

「あ、携帯だ」

しー、と指で静かにのポーズをすると優香ちゃんは、「あっ」という顔をして口をつぐんでくれた。

私のベッドに二人で腰かける。

「よかったら自撮りで写真をとりませんか。一緒に」

優香ちゃんの提案。

私はあたりを見回す。……看護師さん、いない。同室の人たち、いない。

よし。

「内緒だよ」

「わかってますよ」

そうして、二人で何枚か自撮りの写真を撮る。

「よかったら連絡先も、交換しましょう」

「そうだね」

ささっと連絡先の交換を済ませ、何食わぬ顔をする。

「私、真世さんに会えて良かったです」

「私もだよ」

相田みつをが言ったという。

 『あなたにめぐり逢えて

ほんとうによかった


生きていてよかった

生かされてきてよかった

あなたにめぐり逢えたから


つまづいてもいい

ころんでもいい

これから先

どんなことがあってもいい

あなたにめぐり逢えたから


ひとりでもいい

こころから そういって

くれる人が あれば』

 と。

 「真世さんがいなくなってしまうの、本当にさみしいです」

 「んー。でもさ、考えてごらん。こんな規制だらけの閉鎖病棟じゃなく、近いうちに広い世界で自由に会えるようになるんだよ。

それも そんなに遠い話じゃないんだよ」

 「私は……やっぱり退院したくないなあ。

怖いです。外は」

 「そっか。じゃあ、まだここにいるべきなのかもしれないね。

ゆっくり休んで、ここを出られるくらい元気になったら、私は待っているよ」

二人でつらつらと話していると、聞き覚えのある二つの足音が近づいてくる。

なぜだろう。面会の人など外の世界の人の足音は入院者とはどこか違う。

力強くまっすぐこちらに向かって歩いてくる。

「真世ー」

ひょっこりと母が顔を出す。

「一緒に家に帰れるね。マロンも待ってるよー」

そう言って私の顔を両手で包み込むように挟んだので、すぐそばにいる優香ちゃんがびっくりしている。

「……うちの母さんはこういう人なんだよ。愛情表現がどストレートなの」

あら、単純なのが一番よ、と母がコロコロ笑う。

「真世、迎えに来たよ」

父も、姿を見せた。

「荷物持って先に駐車場に行くから貸して」

「あ、うん。ありがとう。でも重いよ、大丈夫?」

「全然、大丈夫」

まだ還暦を迎えていない父の背中は、さすがに逞しい。

「こっちのかわいらしい子は?」

 「同じ部屋の優香ちゃん。仲良くしてくれてるんだ」

優香ちゃんがはにかんだ顔で会釈をする。

「あらあら、ありがとうございます」

母が笑顔になる。

「じゃ、行こうか」

母と父に挟まれるようにして、私は立ち上がる。

ベッドのカーテンの外に出ると、りえさんと美香さんも待っててくれていた。

「じゃあね、真世さん元気でね」

「……風邪とか引かないようにね」

無邪気なりえさんとミステリアスな美香さん。

この二人もいいコンビだった。

そうして、部屋を出ると

 「真世さん!」

マシンガントークの晴美さんが待っていた。

正直、うっ。と思ったが顔に出さないよう、笑顔を作った。退院だということは一応昨日は伝えてあって手紙も渡してあった。

「晴美さん、どうかお元」

言いかけてはっとした。

彼女はぎゅうっと両こぶしを握り、目を閉じて、体を硬くする。

その閉じた目からはらはらはらはら涙がどんどん落ちて行った。

「行かないでよー」

看護師さんがそれを目ざとく見つけ、「晴美さん。こっちに来ようね

んで、ちょっと落ち着こうか」

と、晴美さんを引っ張って行ってくれる。

それでも彼女は「さみしいよー」と叫んでいた。

「……心が奇麗すぎるのね。あれでは病棟の外で過ごすのはしんどいね」

母がぽつり、と言った。

「まあ、あんたも大概そうなんだけど」

「え!? 私? いやー、そんなことない、と思うけれどなあ」

私の言葉を無視して、母が続ける。

「心が少し汚れているぐらいがね、今の世の中を渡って行くにはちょうどいいのよ」

母の言うことは、半分はわかるけれど、半分はわからなかった。

「さあ、行こうか」

母と手をつないだ。

優香ちゃんやりえさんや美香さんの視線を背中に浴びながら、私は一歩一歩病棟の外に向かって足を進めていく。

三重のロックが掛かった扉が一枚一枚開いていく。

「バイバイ」

バイバイ、閉鎖病棟。

そして、こんにちは世界。

私はまた「外」の、たくさんの大事な人たちのいる世界に。同時にたくさんの怖い人たちのいる世界に向かって歩みだす。

再び、閉鎖病棟に戻らないことを祈りながら。


今日の朝食

味噌汁、ご飯、焼き豆腐煮付け、野菜いため、ふりかけ

今日の処方

昨日と同じ


※これで(了)と、打ちたいところですが、あと一章、あとがきだけ続くんじゃ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る