第8話入院八日目「新しい同室者」
今日、四人部屋体制の私の病室に新しい患者が入ってきた。
実は四人部屋と言いながら、今まで私の病室には私のほかに一人しか同室者がいなかったのだ。
ちなみに今までで唯一の同室者は寝たきりで、いびきはとても煩いし、たまに無理やり起き上がろうとしてベッドから落ちそうになるのでそうなると私が代わりに慌ててナースコールを押さなくてはならないが、それ以外は概ね寝てばかりいらっしゃる方なので私にほとんど害はなかった。
新しく入るのは五反さんという方らしいが、看護師に連れられて病室に案内されると即、カーテンでベッドを仕切り、こもったまま出てこない。
ちらりと見た姿は、ショートカットの洒落た女性だった。だが、同じ部屋の私への挨拶も当然のようになかった。
見た目以上に病状が重いのかもしれない。
そういう相手は放っておいてあげるのが一番なので、私もあえて声をかけたりせずに食堂に向かう。
すると、優香ちゃんが数学の宿題をしていたので、声をかけて手伝ってあげる。
因数分解。二次式の解の方程式などとても懐かしい。
「すいません、真世さん」
「ううんー全然。社会人になってからは数学なんて解かないから良い頭の体操だよ」
気を遣っていった言葉ではなく本音だった。
「それにすらすら解けるのがうれしい。中一、中二ぐらいの問題なら私でも何とか歯が立つみたいだ。
優香ちゃんが中三だったら無理だっただろうなー」
「中三の数学ってそんなに難しいんですか?」
「何か方程式のグラフとか出てきてそれがネックだった覚えがあるなあ」
「え! どうしよう私グラフ苦手ですー」
「好きな人の方が稀だと思うよ、あれは」
そんなことを言いながら優香ちゃんときゃいきゃいしていたら、ちょっと小太りのにこにこした女性が傍にやってきた。
ユニクロのムーミンのステテコを履いていて、それが妙に似合っている
「あ、りえさん!」
優香ちゃんが破顔してかわいい笑顔を見せる。
「真世さん、こちら、りえさん。私と同じ部屋なんですよー」
にこにこしながらりえさんは手を差し出してきたので私も手を出して握手した。
いつかの美香さんのほっそいりとした冷たい手とは対照的な、温かいふっくらとしたクリームパンみたいなお手手だった。
「真世さん、よろしくねー。優香ちゃんや陽子さんから話聞いてお話したいなって思ってたよ」
陽子さんも私たちと同じ部屋なんです、と優香ちゃんが説明してくれる。
ところでさ、と前置きしてりえさんは続けた。
「新しい人が入ったみたいだねえ。もしかして真世さんのところ?」
そうですよ、と続けると「どんな人?」と聞かれた。
皆の視線を浴びながら、私は言葉を選んで
「美人さんでしたよ。でも、今は一人でいらっしゃりたい時期みたいで」
「そうなんだ。あの人は医療保護入院みたいだけど、いきなり四人部屋だから、珍しいな、と思って見てたんだけど」
医療保護入院。
二つある強制入院の一つで(もう一つは措置入院)、たぶん、任意入院と措置入院、医療保護入院の中だと閉鎖病棟で一番多いケースの入院なのではないだろうか。
簡単に説明すれば、病状的な問題で患者本人に入院治療契約を交わすだけの理解力、同意能力がないということで、家族等の保護者・や扶養義務者の同意によって成立する入院である。
本人に入院治療契約を交わすだけの理解力がないと判断されている、ということはそれだけ病状が重い、ということなのでこの病院では医療保護入院の場合、最初は完全に施錠された個室をあてがうケースが多く、回復するに従って施錠が時間制で解かれ、次に施錠がなくなり、その後四人部屋に移されるという経過をたどっていく。
私は過去に二回の医療保護入院を経験しているがいずれもそのように回復していった。
「なんて名前のひと?」
「五反さんっていうみたいです」
「うまくやっていけそう?」
りえさんに問われて、うーん、と私は唸った。
「今の時点ではなんとも……まだ初日ですし。様子見ですね」
「合わなかったら私たちの部屋に真世さんが移動してきたら最高じゃない? ベッド一つ空いてるからさ」
りえさんが言い、優香ちゃんも「わ、それ最高ですね。楽しそう」と続ける。
いくら任意入院でもそんな権限は与えられないだろうと思いつつ「そうですね、もし上手くいかない感じだったら主治医や看護師さんに相談してみます」と口先だけで言ったら、二人ともやったあ、そうなるといいね、と喜んでくれて心が痛んだ。
ちなみに、軽い気持ちで口にした実現不可能だと思ったこの提案、実をいうと後ほど実現することになる。
任意入院の患者の意見は強制入院に比べると、やはり格段に通りやすいということがここでも見受けられるのかもしれない。
「りえさんに、陽子さんに、私に、真世さんだったら絶対、毎日楽しいですよ」
「盛り上がりすぎて怒られないようにしないとねー」
ひとしきり盛り上がったあと昼ごはんの時間になったのでテーブルに着いた。
ご飯の時間になると、消されていた食堂のテレビがつき、看護師が三人体制で見守る中、私たちは食事をする。
と、いっても看護師さんたちも結構雑談をしている。
よっぽどのことがなければ和やかな空間である。
食事開始から20分すぎると食事後の薬を乗せたカートが食堂に姿をあらわし、薬の自己管理をしている人以外(これも許可が必要)には看護師の手から薬が渡される。
薬は看護師の目の前で飲み、口の中も確認されることになっている。厳しいのだ。
五反さんは、昼食の時間、食堂に姿を見せなかった。
おそらく部屋で一人(寝たきりの同室の人を頭数にいれれば二人だが)で食べているのだろう。
昼食後、部屋に戻ると固く閉じられたカーテンの外側にあるサイドテーブルに全く手を付けていない五反さんの昼食が見えた。
この日はかつ丼だったのに、冷めきってしまっている。
ベッドに横になってしばらくすると、看護師らしき足音が近づいてきて、部屋の中に入ってきた。五反さんに話しかけているのが聞こえてきた。
「ねえ、食べないの? せっかく美味しそうなのに」
食べない、というくぐもった女性の声。苛立ちをたっぷり含んだその声に、無理やり入院させられた、という言外の怒りを感じた。
私はご飯を拒否することはなかったけれど、医療保護入院の時はいろいろやったなあ、と思い出した。
手足を縛られながら、ふざけんなと叫んだし、食べ終わった後の皿をフリスビーのようにして壁にたたきつけたこともあった。
……ああ、すみません。あのときは、本当、どうかしてたんです。
「じゃあ、一口でも食べて? そうしないと先生呼ぶよ? いいの?」
嫌! とヒステリックな叫び声がした。
これは、合う合わない以前の問題だな、と思いながらベッドの上で目を閉じた。
今日は昼寝は出来そうもない。
また、足音がして、五反さんは主治医を呼ばれてしまったようだった。
食べないと、胃ろうにしなくちゃいけないんだけどな、という医師の恐ろしい殺し文句を聞き流しながらこの間借りた本を開いた。
嶽本野ばらのスリーピング・ピルを読みながら、五反さんが泣きじゃくる声を、聞いた。
今日の昼ごはん
かつ丼、大根サラダ、うずら煮豆、牛乳
今日の処方
昨日と同じ。
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