第5話入院五日目「初めての院外外出。犬のマロンについて」
今日は土曜日。特別に主治医から十三時から十七時まで院外外出の許可が出た。
院外外出の許可も強制入院の時は滅多に出なかった。
外出の許可が出たとしても30分の院内外出(病院の向いのコンビニに行くことすら許されないという)くらいだった。
任意入院の自由度に驚きつつ、有難くその権利を享受する。
まあ、院外外出の許可が下りたのは、家族が所用で土日家を空けるので、その間自宅にいるペットのマロンに餌やりやペットシートの取り換えなどの世話をしに行かなければならない、という明確な事情があってのことだが。
マロンは、私が望んでうちにやってきた犬だった。
そして、マロンが来る前に、うちにはアンディという犬がいた。
私が物心ついたときにはすでに犬のアンディは家族の一員で、私が大人になっていく風景の中にはいつもアンディがいた。
ふわふわの白い巻き毛のアンディ。ピンク色の首輪がよく似合っていたアンディ。散歩が大好きだったアンディ。食いしん坊で、生の米を山ほど食べておなかを壊していたアンディ。
かわいかった。愛しかった。つらくて泣いていると、そっと寄り添ってくれたアンディ。いたずら好きでティッシュ箱の中身をすべて出してしまったアンディ。十六年間生きたアンディは、最後はあんなに大好きだったアイスすら口にしてくれなくて、干からびるようにして、亡くなった。
アンディの骨は細くてからからで、ペットの葬儀屋さんは「この子はすごく頑張って生き切った犬ですね」と言っていた。
苦しくても辛くても生き切ったアンディが居たからこそ、私はどんなに追い込まれても自死を選ばなかったのかもしれない。
……マロンがうちに来たきっかけは、アンディだった。
アンディが死んで三年くらい経ったのち。
量販店のペットショップコーナーでマロンを見かけたとき(アンディが死んだ直後はつらくてペットショップなんて覗けなかったが)マロンはショーケースに入っているやる気のかけらもない他の子と違い、ぶんぶん尻尾を振って、ガラス越しに一生懸命私にすり寄った。
「アンディ?」
つるりとその一言が私の喉から滑り落ちた。
マロンは「そうです! 僕アンディです!」とでも言うように、粗雑な作りのショーケースの隙間から長い舌を必死に出して、私の手をぺろりと舐めた。
私のほほをつうっと涙が伝った。
犬種はおなじだが、マロンはアンディとは似ても似つかなかった。
毛の色は茶色だし、目もアンディより大分小さい。なによりマズル(鼻先)がアンディに比べてものすごく太かった。
「抱っこしてみますか?」
店員さんが私の涙に気づかないふりをしながら、マロンを抱かせてくれた。
ふわっとした獣の匂い……多分、シャンプーをあまりさせてもらっていないのだろう。
それが、最後のとき、体力を使うからお風呂に入れられなかったアンディの香りとそっくりで、私は涙が止まらなかった。
「この子、買います」
そうして、マロンはうちの子になった。
アンディの生まれ変わりかもしれない、と思いながらアンディと同じ名前をつけなかったのは、アンディの思い出を大事にしたかったのと、そして新しく迎えたマロンに対して、何か失礼な気がしたからだった。
せっかく狭いペットショップのショーケースの中から出て新しい世界に出たのだから、新しい名前をあげたかった。
飼ってみると、マロンはアンディ以上に食いしん坊で、でも、散歩はあんまり好きじゃない。アンディは外で用を足すのを好んだが、マロンはほぼ室内でしか用を足さないなど、やっぱりアンディはアンディで、マロンはマロンだった。
……私が入院して迷惑をかけているのは家族だけでも職場だけでもなかった。
マロンにも、そうだった。
きっと共働きで帰りが夜遅い父と母では散歩に毎日行くことは難しいだろうし、マロンには不憫な思いをさせている。
入院しているしるしの、リストバンドを服で隠しながら、バスに乗って家に戻るとマロンは尻尾をちぎれんばかりに振って私を迎えてくれた。
「マロンー」
会いたかったよ、と言いながらその温かい体を抱き上げるとはふ、はふ、と言いながらマロンは私の顔をべろべろ舐めた。
「お腹すいたよね? 待っててね。ごはんにするから」
ごはん、という言葉に反応してマロンがくるくるとその場で回転しだす。
まるでちびくろさんぼの虎みたいに。
「バターになっちゃうよ。マロン」
笑いながら、ごはんをあげるとすごい勢いでがっついていた。
マロンの水を新しいものに取り替えて、ペットシーツも替えて、粗相の後片付けをする。
不思議だが、汚い排泄物でもアンディや、マロンのものだとそんなに抵抗なくティッシュで摘み取ることができる。
マロンともっと居たかったが、時間は無情で、あっという間に過ぎてしまう。
「もう帰らないと」
マロンが首を傾げるような動作をする。
少し茶色い、ビー玉のような澄んだ瞳が私をじっと見ている。
「……ごめんね」
ごめんね、マロンと言いながら名残惜しくて、ずっとその体を抱きしめていると流石に嫌だったのか、マロンはくぅん、と抗議した。
マロンをゲージにいれ、施錠を確認して、自宅を出る。
五日ぶりの外界は色の洪水だ。白と薄いグリーンの配色の閉鎖病棟とは全く違う。
そして、空気に匂いがある。
食べ物の匂い。誰かのたばこの匂い。香水のような匂い。ごみの匂い。そして、風が運んでくる、季節の匂い。
閉鎖病棟の空気は死んでいる。清浄ではあるが、そこには何の息遣いもない。
それでも私は帰らなくてはならない。
あの精神科の閉鎖病棟へ。
「おかえりなさい」
戻った私にそう声をかけた看護師に複雑な気持ちになった。
お帰りなさい、か。
ここが私の帰る場所? いや違う。さっきまで居たマロンがいる自宅が本当の私の帰るべき場所なのだ。
「……今戻りました」
あえて、ただいまは言わななかった。
ごめんね、マロン。
ごめんね、父さん母さん。
眠くならないよう減薬してもらったら、直ぐに退院できるよう医師にかけあってみようか。
外出許可がこんなに簡単に下りたのだから、意外とあっさりといくかもしれない。
今日の夕食
ほたての和風クリームソース、白菜甘酢和え、すまし汁、スイカ。
今日の処方
昨日と同じ
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