その手を掴む
@mamemin
第1話
夜空に浮かぶ、猫の爪みたいな白くて細い月を目指して坂を上った。
とても静かな夜だった。聞こえてくるのは律子が履いたヒールのカツカツいう音だけで、それはすなわち僕たちの間に会話がないことを意味していたけど、僕はあまりにも緊張していて何も言葉が出てこなかった。
僕は今晩、この坂の上で律子に告白する。
律子はちょっと変わった女の子だ。東京生まれ東京育ちなんて、僕からすれば羨ましくてしょうがない環境で生まれ育ったのに、長崎に住みたくてわざわざこっちの大学に進学した。
「私、外国語はひとつも話せないんだけど、外国の雰囲気は好きなんだよね。長崎は、町全体が異国情緒に溢れてるでしょ?」
そう言われても、長崎で生まれ育った僕には正直いまいちぴんと来ない。
長崎に観光スポットはたくさんあるけど、幼い頃に家族と行って以降はそれほど足を運んだこともなく、もうほとんど覚えていないその場所を、僕は律子と一緒にたくさん回った。出島ワーフで海鮮料理を堪能し、孔子廟で石像を見た。眼鏡橋を並んで渡り、七ツ釜鍾乳洞を探検した。グラバー園ではハート型の石も触った。
そうして思い出を共有していくうちに、僕は律子を好きになった。今年の2月に行ったランタンフェスティバルで、ランタンの幻想的な灯りの中にぼんやりと浮かぶ律子の姿はまるで光の妖精みたいで、瞬きをした途端に律子が消えてしまうんじゃないかと思って僕は必死に瞼を開いて、律子を目に焼き付けた。
「ねえ、まだ?」
「ごめん、もうちょっとやけん」
久しぶりに喋ったと思ったら、疲労がありありと浮かぶ律子の声に挫けそうになるけれど、本当にあと少しだから、と焦りながら坂を上る。やがてカーブが見えてきて、それに沿って左へ曲がると嘘みたいにぶわりと道が開けた。
「ど、どう?」
「……綺麗」
この場所から見えるのは、長崎の夜景と夜の海。稲佐山から見える景色も好きだけど、それより低いこの場所から見える景色が僕は好きだ。届きそうで届かない、長崎に住む人々の灯りがそこにある。
「どうしても律子にここば見せたかったんや。僕はこの場所から見える長崎の夜景が一番綺麗だと思うから。……でも」
「なに?」
「僕は律子の方がこの夜景よりずっとずっと綺麗やと思う。好きです。僕の恋人になってください」
バッ、と頭を下げたのは、僕が丁寧な人間だからじゃなくて顔を見るのが怖いだけだ。ドキドキしながら律子の返事を待っていると、ふうと律子が息を吐いて、心臓がひときわ大きく跳ねた。
「あのね、ヒールを履いてたくさん歩くとすっごく足が痛くなるの」
告白の答えでなく、律子の口から出てきたのは、何の説明もなしにここまで歩かせた僕への文句だった。
「えっ。ご、ごめん」
「でもね、それでも私はヒールが付いたかわいい靴が履きたかったの。なんでか分かる?」
僕にはさっぱり分からない。どうしよう、と思って口ごもっていると、律子は呆れたようにため息を吐いた。
「杉崎くんに、かわいいって思われたかったからだよ」
えっ、と思って顔を上げると、律子がいたずらっぽい笑みを浮かべて僕を見ていた。夜空に浮かぶ無数の星より、背景に輝くまばゆい夜景より、僕には律子が一番美しく光輝いて見えた。
「ねえ、わざわざロマンチックな場所を探してくれなくたって、私は杉崎くんと居られるならどこだって嬉しいんだよ」
私も杉崎くんの恋人になりたいです、と言いながら律子が両手を差し出してくる。その手を握り返したら、ぴりぴりと体に電気が走った。
長崎の夜景に溶けてしまいそうなかわいい彼女を、絶対に手放さないぞと僕は指先に力をこめた。
その手を掴む @mamemin
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