6.墜落

 ノーグは、きつく細めていた目を、ふっとゆるめた。知らない間に、重苦しい空気に慣れてしまったようで、嫌になってくる。が、そう思うのはいつも、ほんのわずかな間だけ。すぐに気を取り直して、蝶番ちょうつがいが片方外れた扉を押しのけ、前へ進んだ。

 人が一人、やっと通れるくらいの小路には、煙草や排泄物、さらには薬のようなつんとしたにおいまでが複雑にまざりあい、重い煙のようにこもっていた。なんとはなしに横のぼろ小屋を見やれば、奥の暗がりでうずくまっている偏屈そうな老婆と目があってしまった。ノーグは、なるべく知らない振りをして目をそらした。あたりを見るのをやめ、今はただ、正面をずんずん進む男の背中を追いかける。

 途中で道が途切れ、石段が暗いところへ続いていた。道案内兼協力者の男は、平然として進んでゆく。ノーグにもためらいはなかった。

「ちぇ。そろそろこんなところからはおさらばしたいもんなんだがねえ」

 ふいに、先頭を行っていた男が、そんなふうに愚痴をこぼした。ノーグは意外に思った。こいつもそんなふうに愚痴を言うのかと。

「奇遇だね。俺も、実はかなり前から、そう思ってる」

「はは、だろうな。今度こそ当たるといいんだけど」

「――まあ、このあたりにタミルがらみの情報持ってる奴なんて、そういないでしょ」

 ノーグが肩をすくめると、男はちらりと振り返った。参ったね、と目が語っている。東人とうじんで、毒をもつ花にもノーグより詳しいらしい彼は、どうにもつかみどころがない。何十軒と情報屋や闇医者や薬屋をあたっては空振りしているのも、実はわざと遠回りをしているのではないかと勘ぐってしまう。そう思わせる何かが、彼にはあった。

「で、センとやら。次こそは自信があるのか?」

 慎重に石段を踏みしめながら、ノーグは尋ねる。センは、不敵な笑みを彼へ向けた。

「ま、今までの中では一番かね。俺の故郷のあたりにも詳しくて、それがきっかけで意気投合した奴だから」

「あてにしてるぜ。俺の方の知りあいをあたるには、すっげえ移動しないといけないから面倒くさいんだ」

 センはひらりと手を振った。階段を降り切って、さらに暗く深くなった通りを歩く。ノーグも今度は無言で続いた。

 蛇行する小路を進むこと、しばし。今にも崩れそうな木の小屋の前で、二人は止まった。前をゆくセンが、扉がわりにさげられている布を持ちあげ、声を張り上げる。

「おおい、濁り目じじい、いるか」

 ノーグは転びそうになった。相手が誰だか知らないが、失礼すぎやしないか。はらはらしていた青年の耳に、かすれた声が届いたのは、少しの間があった後のことだった。

「その声、すすきの坊主か。まだ生きてたのか、しぶてえな」

「芒はやめてくんねーかな。今、人連れてるんで」

 ノーグには意味の取れないやりとりのあと、ふんっと鼻を鳴らす音がする。「入れ」と短い声が続くと、センが振り返って笑った。

 彼に続いて中へ入ると、古びた布の放つ臭気と植物の香りがまざったおかしな空気が、むわっと襲いかかってきた。鼻をつまみそうになるのをこらえて、ノーグは暗がりの中へと踏みこむ。

「野郎か。どこの奴だ」

「『暁の傭兵団』。知ってんだろ」

「けっ。ジエッタんとこのくそがきか」

 正面から不穏なやり取りが聞こえ、闇にうずもれていた両目が、ノーグを見た。

 小屋の奥、むしろのうえにあぐらをかいて座っているのは、五十代半ばか六十代には見える、白と黒のまじった髪をした男である。すすけた肌には深いしわと濃いしみが目立ち、唇の色も悪い。細められた目だけが、強く、暗い光を放っていた。

 なるほど、センが「濁り目じじい」と呼ぶのもわかる気がする。ノーグは気づかれないようにうなずいた。彼が考えを巡らせている間に、『破邪の神槍』の雇われ者は、男の眼前にしゃがみこんでいた。

「今日は何しにきた。く――」

「センだって。今日はあんたに訊きたいことがあってきた」

 額に指をつきつけられた男が、開いていた口をばくんと閉じる。青年の指が離れると、男は彼とノーグをじろりとにらんだ。センは気にせず続ける。

「なあ、このあたりでタミルをこっそり売ってる連中を知らねえか」

 彼がささやくように言うと、男はつかのま、目を伏せた。それから、センに向かって手を突きだす。

「タミルの情報は俺らの最高機密のひとつだ。高くつくぜ」

「あんたを見逃してやってるだけでも、じゅうぶんに対価は払ってると思うけどなあ」

 ぶっきらぼうな男に対して、センはにっこりと笑みを広げる。とろけそうな笑顔に見えるが、目の奥には恐ろしく冷たい光が灯っていた。けれど、男は男で、まったく動じない。

「で。見逃していただいてから、俺は何十回、てめえらやそこの小僧の頭に情報を渡してやったと思う?」

 ノーグは目をみはった。ジエッタは、この男と関わっているなどとは、一言も言っていなかったからだ。一方、センはといえば、「はいはい、わかりましたよ」とお手上げのしぐさをする。その右手を流れるように懐へ突っこむと、木の小さな入れ物を取り出した。

「これで手を打とうじゃないか」

 センは楽しげに言うと、入れ物にくくりつけられている赤いひもをほどき、栓を抜いた。小さな口から、つん、とする草のにおいが立ちのぼる。入れものをのぞきこんだ男の目が、まんまるに見開かれた。

「てめ……どこでこれを」

「ちょっと、人脈使って」

 センはそう口にしながらも、目だけでノーグの方をうかがってくる。彼は「俺が直接なんかしたわけじゃないよ」とささやく。そこから先はセンに任せる気でいたのだが、黒眼ににらまれたので、しぶしぶ言葉を続ける。

「それって、そんなに珍しいもんなのかい?」

「こいつは、いわゆる生薬と呼ばれるもんを混ぜたやつだがな。その材料はどれも、生息地が限られてる植物の、特に効能が強い部分だ。保存状態もいい。こりゃ、いい薬ができるぜ」

 ここに効くんだよ、と言いながら、男は自分の腹をさする。薬のことなどまったくわからない二人は、生返事をした。男は彼らのどうでもよさそうな態度などないかのように、機嫌よく入れ物を持ちあげる。

「いいだろう。もらったもののぶんだけは、こっちもくれてやる」

 ノーグは曖昧に笑って礼を言った。

 あの草葉の入った入れ物は、ゼフィアーが出がけに鞄から取り出し、ノーグに放るようにして渡してきたものだったのだ。「取引になったら、役立ててくれ」と言われたが、本当に役立ったのだから驚きである。

 今は山脈の向こうにいるであろう娘に、ノーグは心から感謝した。

「さて、そんでだ。タミルの密売に関わってる連中は、この大陸にも結構いる。ま、教えられるのは、最高でふたつ。ほかにも教えてほしいことがあるってんなら、ひとつってところだな」

 言いながら、男は地面に小石を並べてゆく。六つほど小石を並べたところで、それを左から順に指さしながら、情報のきれはしを挙げてゆく。ひとつひとつにうなずいていた若者たちは、最後に男から目で問われ、顔を見合わせた。

 急かされるより前に、ノーグが身を乗り出す。

「そりゃあ……今は、これだよなあ」

 ノーグが指さしたのは、左から二番目の石だった。その色は、生成りの生地に似ている。男はおもしろそうに目を細めたあと、デアグレードに拠点をもっているという連中の情報を、知る限り教えてくれた。身を引いたノーグがセンを振り返ると、彼はすましてうなずいた。

「そんだけわかれば大丈夫。あと、もうひとつ訊きたいことがあってね。――この一年以内に、個人でタミルを調べていた奴に会ったか?」

 さらりと投げられた問いに、男が太い眉を寄せた。

「個人? そりゃあ」

 彼の濁り目は、つかのま、足もとの入れ物へと向いた。赤いひもを結びなおすと、彼は咳払いする。

「……そういえば、一人、いたかもな。珍しいことに、薬についてよく知ってるふうだった」

 思わぬ語りだしに、ノーグは息をのむ。様々な臭気がたまる小屋に、男のしゃがれ声が響いた。

「そいつはまず、タミルが生えている場所を教えてくれと言ってきた。教えてやると、自分じゃいけねえとあきらめたのか、金を渡してきて、タミルの花や実を取り扱っている集団はないのかと訊いてきやがった」

「教えたのか?」

「ああ教えた。てめえと似た手を使ってきたからな、そいつも」

 男の指が入れ物を弾くと、センは苦笑する。男は「そんだけだよ。そいつは以降、ここにはきてねえ」と締めくくる。ノーグは、また、男の方へと体を傾けた。

「なぜその人がタミルを調べていたのか、何か知らないか」

「さあなあ。――ああ、でも、なんかぶつぶつ呟いてたな。悲願とか、もうすぐ会えるとか……ああそれと、水の竜の血がどうの、力がどうのとか」

 ノーグは凍りついた。ふだん、飄々としているセンでさえ、口を半開きにして動きを止めた。

「おい、じじい。今なんて言った? 竜の血って、なんだよそりゃ」

「俺に迫られても困るね。だが確かに、竜がどうのとは言ってたな。タミルごときで竜がどうにかなるとは思えんが」

 男は足を組み直してから、どうでもよさそうに頬をかく。センとノーグは目を合わせた。それからセンが、男を振り返る。

「なるほどねえ。ま、参考にするわ。ありがとな」

「けっ。知らねえとこでくたばるんじゃねえぞ、芒の坊主。――おっと、今はセンだったな」

「まーね。せいぜいがんばるとしますよ」

 センは言い終えるなり、ノーグの肩を強く叩いてから、入口の布を持ちあげ、出ていく。ノーグも「世話んなった」と言い残して後を追う。いらえはなかった。


 日の光を浴び、苦い空気を吸いこんでから、青年たちはどちらからともなく歩きだす。そして、濁り目の男の家がずっと背後まで遠ざかったころ、センが鋭い声でノーグを呼びとめた。

「どうにかして、おまえらのところの坊主に直接連絡とれないのか」

 言われたことをすぐに理解したノーグは、やりきれない思いで首を振る。

「無茶言うなよ。連絡役を経由しないと無理だ。だいたい、あいつは今、お嬢ちゃんと一緒に山の向こう、だぜ」

「だよなあ、くそ。竜の知り合いつくっとくんだったか」

 元竜狩人が、むちゃくちゃなことを言って頭を小突く。ノーグは、後に残った気分の悪さをごまかすように、言葉を継いだ。

「だいたい、あいつが狙われるとは限らないじゃないか。仮にも『主竜』とかいうやつなんだろ」

「阿呆。狙われるんだよ」

 石段に足をひっかけたセンが、ぞっとするほど冷たい目でノーグをにらみつける。

「しかも、先だってのそちらの作戦で、半端に名前を知られちまってる。居場所を突きとめようと思えばできちまう。そうなると、困るのは、人間に手を出したくない水竜殿の方だろ」

「それは……」

 ノーグが視線をさまよわせていると、センのため息が聞こえた。

 とにかく、なるべく早く情報を共有するべきだろう。――ディランとは、特に。

 思いながら歩いていたノーグは、視界の隅に、ぼろ小屋の屋根を飛び越えてゆく黒猫の影をとらえた。けれど彼は、それをたいしたことがないものと判断して、無視したのである。



     ※

     

     

「ディラン、朝だぞー」

 すぐ近くで聞こえたささやきに意識を引き上げられ、ディランは目を開けた。瞼が重い。それどころか、全身がだるい。けれど、今は起きなければと暗示をかけて、彼はっ体を起こした。髪の毛や服にひっついた草を払って立ち上がる。

 小さな家の隅。丸くくりぬかれた窓からさす光はおぼろげで、けれど目ざめるにはじゅうぶんだ。煙とにおいのこもった家の中に、物音はしていなかった。アリアはもう、務めに出たのだろう。ディランは自分の頬をつねったあと、すぐそばに立っている少女を見おろした。

「おはよう」

「うむ。おはよう、なのだ。ちょうど、薬の準備もできたらしいから、とりにいくのだ」

 目ざまし役を買って出てくれたゼフィアーは明るく挨拶を返したあと、目を伏せた。

「ディラン……実は、無理しているだろう」

 彼女はすねたように言う。質問のかたちをとってはいるが、断言しているも同然だった。ディランは肩をすくめて、まあな、と答える。この少女に隠しごとをしても、いいことなどまったくないのだ。

「でも、今こんなところで眠りに入るわけにもいかないだろ」

「私としては、お主に寝ていてもらって、その間に事を終わらせる、でもいいくらいだけども」

「――悪いけど、性に合わないな、それは」

 ディランはきっぱり言い切った。ゼフィアーは意外にも怒らなかった。背伸びして、ディランの額を小突いてくる。

「そう言うだろうと思った。……本当につらいときは言うのだ。いのちは大事にせねばならんからな」

 悪戯っぽく笑う彼女に、ディランは短く、わかってる、とだけ返したのである。

 

 家を出ると、すでに村の若者が待ちかまえていた。そばにはアリアもいた。若者は、ディランの掌ほどの円筒形の入れ物を同胞の少女に託す。

「これ、例の薬の試作品。どのくらい効くかはわからないけど、体に害になることはないから安心してくれよ」

「うむ。ありがとうなのだ。に、しても」

 ゼフィアーは、入れ物を目の上にまで掲げてのぞきこむ。ディランも横からそれを見た。入れ物には、雑多な種類の薬草のにおいが染みついている。

「よく、この短期間でこれほどの薬が作れるようになったな。驚いたのだ」

「へへーん。優秀な薬師と――どっかの親子のおかげさ」

 若者は胸を張った。ゼフィアーは、彼と、隣に立つ母を見比べて、目をみはる。

「とうさまはともかく、私は何もしていないけども……」

「何もしてないってことはないじゃないか。おまえは、人と竜をつなぎ直してくれた。そのおかげで、竜の情報がこの村にもじゃんじゃん入ってくるようになったんだぜ」

 ゼフィアーは、少しの間ぽかんとしていた。けれど、前に立つ二人が誇らしげにしているのを見て、ゆっくりと笑みを広げる。

「ふふ。そうなら、頑張った甲斐があるというものだ。けどもな、それは、私だけの力ではないのだぞ」

 彼女はそう言ったあと、目を丸くして固まっていたディランを振り返り、悪戯っぽく目を細めたのである。

 

 薬をいただいたあと、二人は手早く支度をして、村を出た。アリアや村の衆にひどく惜しまれたが、ゼフィアーはどういうつもりか「またすぐ来る」と約束をとりつけていた。

 村と畑から少し離れたところ、まだ人々の目の届く平野のただなかで、ディランは変化を解いた。素性が知られている以上、こそこそする必要はないのだった。ゼフィアーがひらりと飛び乗り、体につかまったことを確認すると、青い竜は合図のような咆哮を響かせ、勢いよく羽ばたいた。

 ちらりと眼下を見れば、村人たちが手を振っている姿をとらえる。ゼフィアーも、ほんの少しだけ身を乗り出し、手を振り返していた。彼女にとってはおそらく、業ならいに出てからはじめての帰郷だったろう。あまりゆっくりできなかったことが、ディラン――ディルネオとしては心苦しかったが、当のゼフィアーはあまり気にしていないようだった。

 少しすると、ゼフィアーが竜の首を叩いた。

「ありがとう。急いで戻ろう」

 ディルネオはわずかに目を細め、わかった、と返事をする。わざと旋回していたことに、気づかれてしまったようだ。ディルネオは、悪戯をしたあとのような気分で体の向きを変えると、喉を鳴らして少女に合図し、強く翼を打ったのである。



 今日の空には厚い雲がたれこめていた。雨の兆しはまだない。ただ、天候のことを差し引いてものんびりしている余裕はないので、ディルネオは行きよりも速度を上げて飛んでいた。再び高々と森を通過してゆく。

 もう少しで木々の緑が途切れる。そんな頃。ディルネオは、くっと頭を持ちあげた。わずかに羽ばたきをゆるめて、灰色の空を見すえる。

「ディラン? どうした?」

 ゼフィアーが、ひょっこり顔を出して問うてきた。ディルネオは、すぐに答えなかった。空を見つめ続け――やがて目をみはると、背を預けている少女に叫ぶ。

『ゼフィー! しがみつけ!』

 ゼフィアーは驚いていた様子だったが、対応は早かった。すぐさま頭をひっこめて、竜の太い首に腕を回す。小さな手がたしかに自分をつかんでいるのを感じたディルネオは、ほっとした。しかし、安心していられたのはほんの一瞬だけ。――直後に、息もできなくなりそうな熱風が、襲いかかってきたのだ。

 突然のことに、さすがのディルネオもよろめいた。けれど、背と腹に力をこめ、辛うじて体勢を立て直す。少女の苦しげな声を聞いた彼は、すぐさま大気に溶けている水の粒をかき集め、自分たちを目に見えない膜で覆った。

「ぷはっ――助かった。窒息死するかと思ったぞ……」

 ゼフィアーが、くたりとディルネオの首に頭を預けてうめく。彼女は「何事だ?」と呆けた声で言ったが、すぐに息をのんだ。

――彼女も、気づいたのだ。恐ろしい速度で迫りくる、竜の気配に。

 そのときすでに、水竜の両目は影をとらえていた。むちゃくちゃに熱波を吐きだす赤い竜。炎竜えんりゅうだ。今のところ性別の判然としない竜は、あっちにふらふら、こっちにふらふら、頼りない飛行を続けている。

『あの動きは』

 ディルネオは目を細めた。彼はすばやく、体を回転させようとした。けれど炎竜の方がわずかに早かった。咆哮とともに熱を吐きだし、無形の波をぶつけてくる。容赦のない攻撃に、青いからだは再び揺れた。

 ぐわん、と頭の中を揺らされる感覚がある。そんな状態で熱波から逃れようとすれば、自然と高度は下がった。木々がわずかに近くなる。片足だけでも森にかすれば、衝撃は大きい。ディルネオは頭を持ちあげ、翼を打ち――胴体を跳ねあげて上昇を試みた。けれどそのとき、赤い尾が勢いよく打ちおろされる。

『っ、ゼフィー!』

 ディルネオはとっさに、少女を抱きこむようにして尾を持ちあげた。そこへ、炎竜の熱い尾が激突する。どちらのものかわからない絶叫が、あたりを震わせた。

「ディラン!……ディルネオ!」

『平気だよ、このくらい。おまえは落ちないようにしておけ』

「けども――」

 滅多にないことだが、ゼフィアーの声にはあせりがにじんでいる。無理もなかった。酔ったように暴れる炎竜は、それでいてたくみに、水竜が立ち直ろうとするのを邪魔してきたのだ。大きな前足を振りおろされ、熱を吐かれ、尾で叩かれる。自分と少女を守るために、上昇と下降を繰り返して飛んだディルネオは、気づけば湖を通りすぎていた。

 そのとき、異変が起きた。

 炎竜の、ぎらついていた瞳が、急にとろりと力を失った。ディルネオは首をかしげていたが、直後に気づく。湖のまわり、彼が上を飛ぼうとしていた木立のなかから、慣れない匂いが漂ってくることに。

 独特の芳香。濃い甘さは、今まででもっとも強烈だ。下手をすれば、頭の中まで、とかされそうなほどに。

 ディルネオは、つかのま呆然とした。ゼフィアーが香りのせいでえずいたときに自分を取り戻し、そこで状況の悪さを悟る。

 けれど、時すでに遅し。甘い香りは、そこに含まれる毒素は、確実に竜の内側を侵そうとしていた。

 大きな体が、不安定に傾く。左右に繰り返し揺れるうち、しだいに、翼からも力が失われていった。

「っ、ディラン、しっかりしろ! お主が負けてどうする!」

 ゼフィアーがぽかぽか頭を叩いてくる。ディルネオは、それすらも、どこか切り離された場所でのことのように感じていた。朦朧としてくる意識の中、彼はわずかに目を細める。

『しくじったな、これは』

 自嘲気味に呟いたあと、ディルネオは大きな声を出す。一瞬だけ意識を引き戻すと、背中の相棒に向かって叫んだ。

『ゼフィー! そのままつかまって……全身をくっつけろ!』

 ゼフィアーはすなおに従った。ほとんど、反射だったのだろう。ディルネオが彼女の熱を感じたあとに、叫び声が頭を叩いた。

「お主、何をするつもりだ! まさか――」

『そのまさか、だよ。いいか、そのまま、動くなよ』

 ディルネオは、少年の口調で念を押す。彼がまともに言葉を話せたのは、そこまでだった。濃い霧が頭を侵して、彼から理性を奪ってゆく。くるりと視界が回転し、それきり、なにもわからなくなった。

 力を失った竜は、一人の少女を乗せたまま、木立の中へ落ちてゆく。彼らの姿が消えたあと、木々の間で、青い光が瞬いた。

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