5.故郷

 白い雲が尾をひいてたなびく空を、蒼穹よりも鮮やかな青い竜が駆けている。悠々と、空中散歩の速度で飛ぶ竜は、大陸を東へと進み、湖をながめたのち、うっそうと茂る大きな森の上を通りすぎているところだった。木こりか誰かに見つかったかもしれない、と、竜は一瞬考えた。けれど、すぐ、その思考を放り投げる。今は人に見つかったくらいで命に関わる時世ではないし、はやく飛びすぎて背中の少女を振り落としてしまっては目も当てられない。

「何を考えているのだ」

 背から、きょとんとした声が降ってくる。水の竜はほんの少し顔を上向け、それからゆるりと首を振った。『たわいもないことだ』と言い切る。少女はそうかとうなずいて、垂れ下がってきた三つ編みを背中に払い、ぬるい風を吸いこんだ。

「うーむ。懐かしいな。この、少しじめっとした空気。……もうそろそろ雨季がくるか」

『あとどれくらい飛べば着きそうだ、ゼフィー』

 竜――ディルネオが問いを向ければ、ゼフィアー・ウェンデルは首をひねった。眼下の風景を確かめ、さらに遠くまで視線をのばす。「あと二十里くらいかなー」と、のんびりした声を出す少女に、竜は応答の意味で喉を鳴らした。

『おまえの故郷か。いくらつたえの末裔の村だからといって、この姿で近くに降りたら驚かれそうだな』

「そこまで気を回さんでも大丈夫だと思うけどもなー。村の人たちは、みんな、図太いのだ」

『……ゼフィーに図太いとか言われる人たちって、どんななんだよ』

 ディルネオは、呟いて嘆息する。そうこうしているうちに森を抜け、なだらかな平野へ入った。

「もっと飛ぶと山が見える。山のふもとに見える村が、私の村だ」

『了解』

 短く答えたディルネオは、音で少女に合図をしてから、少しだけ速度を上げた。


 ほどなくして、ゼフィアーの言ったとおり、えんえん連なる山々と、麓に佇む村の影が見えてきた。村の周囲に広がる田畑からさらに離れた広い大地を、着陸地点に定める。『降りるぞ』と短く告げ、ディルネオはゆっくりと、高度と速度を落としていった。慎重に翼を打ち、平野のただ中に降り立つ。水竜が翼を畳んだことを確かめて、ゼフィアーがその背からするりと降りた。彼女が両足を地面につけたところを見計らい、竜は人の姿をとるべく、その場で両翼を広げた。

 青い光は、白昼の中では薄く揺らいで消える。体の具合を確かめたディルネオ――ディランは、ゼフィアーと目を合わせてから、ゆっくりと歩き出した。

 あたりに人の気配はない。黙々と平野を進めば、空からみた畑が、影となって現れる。感心して声を漏らしたディランの隣で、ゼフィアーは懐かしそうに、目を細めていた。畑と畑の間を抜ければ、間もなく柵で囲われた家いえが見えてくる。肩をこわばらせている少女へ、ディランは無言の激励を送った。

 二人で旅した日々を思い出しながら、そっと、柵の方へ近づいた。出身者のゼフィアーが前に立ち、柵の内側をのぞきこむ。すると、さっそく、一人の男性と目があった。彼も、少女と同じ、琥珀色とも金色とも取れる色の瞳を持っていた。

「あ、れ」

 彼はそう呟き、たっぷり間を置いたあと、ゼフィアーの方へずいっと身を乗り出してきた。

「君、ひょっとしてゼフィーか!? セイダとアリアのとこの」

「いかにも、なのだ。久しぶりなのだ」

 ゼフィアーは、たじろぐことなくうなずいた。彼女が迷いなく認めたことで、男性は手を叩いて飛びあがる。彼はひとしきり、ゼフィアーに声をかけたあと、その視線を少女の後ろへ向けた。

「ん。そちらの方は、どなただい?」

「私の仲間なのだ」

 ゼフィアーが胸を張る。いきなり話題にひっぱりだされたディランは、自己紹介をしようと、口を開きかけた。けれど、彼が声を出す前に、男性の顔がこわばる。黄金を思わせる瞳に、畏怖の念のこもった、鈍い光が宿った。

「お、おい、ゼフィー。彼は……いや、この方は、もしかして……」

 ゼフィアーは目を瞬いたが、すぐにディランを振り返る。

「なんだ、お主、ひょっとして隠していなかったのか」

「ああ、うん。伝の末裔なら、警戒する必要もないかなと」

 ディランは頭をかいて答えた。わなわなと震える男性を見てから、「この格好のときはディランで通ってます」と、自分でも奇妙と思う名乗りをあげる。すると男性は、目を極限まで見開いたあと、村の方へ駆けだした。

「おおい、みんなー! ゼフィーが竜を連れて帰ってきたー!」

 彼のあまりの慌てぶりに、水竜と少女は顔を見合わせてしまった。

 

 男性が叫んだとたん、のどかな村がざわめきに包まれた。人々が、家の中から顔を出したり、草を選別する手をとめたりする。驚き戸惑っている金の瞳の人々を前にして、ゼフィアーは大げさに両手をあげて苦笑した。

 二人は男性に招かれるままに、村へと踏み込んだ。土をならしただけの道を奥へと進むと、いっとう大きな家が見える。「長の家、兼集会場なのだ。変わっておらんのだ」と、ゼフィアーは平然とした口調で言っていた。わらぶき屋根の家の前には、先程の叫び声を聞きつけた人々が集まっている。《神官》のような人がいないこの村では、誰もが質素な上下や長衣をまとっていた。人々は二人を指さしながら、何事かささやきあっている。

 そんな人の群の中から、誰かが飛び出してきた。艶やかな黒髪をゆるく結い上げた女性だった。彼女は、膝下まである衣をものともせずに駆け寄ると、ゼフィアーを、飛びつくような勢いで抱きしめた。

「ゼフィー、ゼフィーなのね。おかえりなさい」

「かあさま、久しぶりなのだ。ちょっと苦しいのだ」

 ゼフィアーがくぐもった声で言うと、女性は慌てて彼女から離れた。けれど、手は肩に置いて、そこから動かさなかった。彼女も同じく金色の瞳だが、村の人とは少し顔つきが違うことに、ディランは気がついた。デアグレード王国のあたりの人々を思わせた。

「なるほど。ゼフィーの奴、顔は母親譲りか」

 ディランは、誰にともなく呟いた。その声が聞こえたわけではなかろうが、女性がぱっとディランの方に顔を向ける。日光を弾いて虹色を灯した瞳は、確かにディランを見ていたのだが、彼女はなぜか、何も言わなかった。言いたそうではあるのだが、まごついたきり黙りこんでしまった。首をかしげたディランは、自分の方から踏み出そうとする。けれど、ゼフィアーに手で制された。

「まあ、待て。かあさまが困ってしまう。この村には、今では非常にゆるいけども、序列というものがあるのだ」

「序列?」

 ディランが言葉を繰り返したとき。かすかなざわめきが、ぴたりとやんだ。同時に、扉の閉まる音がする。ディランがそちらへ視線を向けると、大きな家から一人の老人が進み出てきたところだった。髪はすっかり白くなっているが、独特な色の目は、若者に負けず劣らず、輝いている。村人たちが道を開けるように固まり、女性がためらいながらゼフィアーから離れたのを見て、ディランはだいたいを察した。

 老人は、長い衣のすそをひきずりながら歩くと、ゼフィアーの前で立ち止まった。彼女はいつもどおりの雰囲気である。ただ、少し、背筋を伸ばしていた。

「長老様。突然戻ってきてしまって、申し訳ない」

「……いや、構わぬ。久しいな、ゼフィアー。セイダのぎょうにならうのは、やめたのか」

「いいや。そういうわけではないし、今は業ならい以外の目的もあるのだ。今回村に戻ったのは、竜にまつわるある事件をおさめるために、村のみんなに協力をお願いしたいからだったのだ」

 長老の背後で、村人たちが顔を見合わせる。ゼフィアーは、口を閉じて老人を見上げていた。彼は、ふむ、と首をかしげると、視線を彼女の後ろに注ぐ。少女のそれとはまた違う、底の見えない瞳に射られ、ディランはわずかに緊張した。

「なるほど。ならば、後で話を聴くとしよう。だが、その前に……なぜ、おまえが、偉大なる主竜殿とともにいるのだ。『協力』をお願いしたのか」

 主竜、と。長老が口にした瞬間、人々が、火がついたように騒ぎだした。ゼフィアーが息をのんでいる。そしてディランも、驚いていた。いくら隠すことをやめたとはいえ、今の彼は変化へんげしている。竜の力が小さくおさえられているこの状態で、主竜と見抜ける人は、ほとんどいないはずだった。

《大森林》の村に生まれていたならば、《神官》になっていたかもしれないな。胸の内で呟きつつ、ディランはゼフィアーを見おろした。彼女は珍しく、少し動揺していたが、やがてはいつもどおりに口を開いた。

「彼は確かに水の主竜だ。けども、それ以前に、私にとっては相棒で、仲間で、友なのだ。ともに行動しているのは、今に限ったことではないのだ」

「友?」

「――事情があってな。彼女と出会った頃は、己を人間と思っていた。お互い何も知らない状態で、私が彼女の用心棒を引き受けて、それからともに旅する仲になった、というわけだ。いろいろと、世話になっている」

 長老が目をみはり、ゼフィアーはぱっと振り返った。ディランは苦笑し、肩をすくめる。少女の頭を軽くなでて、その隣へ踏み出すと、軽く頭を下げた。

「お初にお目にかかる。水をつかさどる主竜が一角、ディルネオだ。……ここで変化を解いては村が大変なことになってしまうので、この姿で許していただきたい」

 長老が、目どころか口も開けて固まった。村人の中の誰かが叫ぶ。すっかり大騒ぎを始めてしまった人々を止めるすべは、旅の二人にはなかった。


 ディランは、東から大きな家の裏手にまわりこむと、からの樽のそばに腰を下ろした。長く息を吐きだしながら、家の小さな窓をあおいだ。


 中では、今、ゼフィアーが長老に事情を話しているはずだ。ディランも一緒に説明しようかと考えたのだが、彼が家に入ったとたん、あたりの空気がはりつめたので、しかたなく外で待っていることにしたのである。ゼフィアーには、「気にしなくてもいい」と渋い顔をされたが。


 剣の手入れでもしようか、と思っていたとき、下草がかすかに鳴る。顔を上げると、先程の女性が遠慮がちに歩み寄ってきた。腰を浮かせたディランは、彼女に会釈えしゃくする。

「ああ、どうも。ゼフィーのお母さん、ですよね」

「は、はい。アリアと申します、ディルネオ様」

 竜への礼を示す女性改めアリアに、少年姿の水竜は、苦笑した。

「この姿の時はディランで通しているんです。あまり、なんというか、かたくならなくていいですよ」

 なんなら、見た目どおりの子どもに接する感じでも。ディランは穏やかにそう言い、アリアに握手を求めてみた。返してはくれたが、アリアは明らかに戸惑っている。とりあえず彼女のやりやすいようにさせてあげよう、と思いなおしたディランは、再び樽の横に座りこんだ。アリアも、おずおずと、ななめ前に立つ。

「娘がお世話になっているようで。ありがとうございます。業ならいに出ると言いだしたときはどうなるかと思いましたが、元気そうでよかった」

「さっき、長老様もおっしゃってましたけど、業ならいってなんなんですか?」

 ディランが見上げれば、アリアはほほ笑んだ。

「この村の古くからの習わしで、子どもは最低でも五年、父親の業にならう――つまり父親と同じ仕事をする、というものです。五年の業ならいを終えたあとは、自分の望む仕事をしても、今の仕事を続けてもいいことになっているようです。夫の仕事は、各地を旅しながら現在の竜の状況を調べることで、今も外に出ています」

「じゃあ、ゼフィーは、それにならって旅に出た、と?」

 慎重に問えば、アリアはあっさりうなずいた。ディランは思わず、天をあおぐ。


 おまえ、そんなこと一言も言ってなかったじゃないか。


 今、ここにはいない少女に向かって文句を吐いた。彼女と旅をして気づけばずいぶん経つが、今さらその旅の意味を知るとは。そう思うと、なんともいえない気分になった。

 ありがとうございます、と、声が聞こえて。見れば、女性がまた頭を下げていた。ディランはかぶりを振ったあと、自分も礼を示す。

「お礼を言うのは俺の方です。ゼフィーがいなかったら、自分のことを思い出せていなかったかもしれない。思い出せたとしても、乗り越えられなかったかもしれない。彼女のおかげで、俺はここにいられるんです。だから――ありがとうございます」


「む、ディラン。かあさまと一緒だったのか」

 少しして、ゼフィアーが裏に顔をのぞかせた。アリアはかすかな苦笑をのぞかせていたが、いつもどおりの娘を咎めることはしない。代わりにディランが立ち上がって、言葉を返した。

「おかえり。どうだった」

「とりあえず事情は理解していただけた。……タミルに効く薬は、試作品なら少し譲ってもらえるかもしれん」

「本当か。よかったじゃないか」

「今から、薬師たちに交渉しに行ってくる」

 ぴしり、と敬礼をしたゼフィアーは、「ディランも来るか?」と訊いてきた。彼が迷わずうなずくと、ゼフィアーは表情をゆるめる。

 そのまま駆けだそうとしていた少女は、しかし、寸前で母親を振り返った。

「そういえば、かあさま。さっき隣のおじさんが気になることを言いかけていたのだけども」

「え? なんの話かしら」

 首をかしげた母親へ、ゼフィアーはずばり、切り出した。

「二年前に、ラケス湖で人が亡くなったというのは、本当か?」

 アリアが険しい顔をした。ディランはディランで息をのむ。ラケス湖といえば、村に向かう途中、ちらりと見えた湖の名前だ。

 アリアはしばらく、ためらうように口を動かしていたが、ゼフィアーが微動だにしないでいると「本当」とささやいた。

「旅の一団がその近辺を通りがかったそうなのだけど。たまたまその日の昼過ぎから、強い雨が降り出して。そのせいで、一人が足を滑らせて――」

「湖でおぼれて……亡くなった、か」

 ゼフィアーは目を伏せた。

「その豪雨には心当たりがあるな。竜に詳しい人が、ディルネオ狩りの影響が残っているのではないかと、話していた」

 ディランは胸を突かれた気がして固まった。顔を上げたゼフィアーに、すぐ、「お、お主のせいと言っているわけではないからな! 断じて!」と言われたあと、謝られた。ゼフィアーが謝ることではないのだ。そして、自分が直接関わったわけではない。だというのに、ディランの心はざわついたままだった。

「ラケス湖、か」

 誰にともなく呟いたディランは、ゼフィアーに急かされて歩きだした。

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