36.心の槍
遠くで明るい笑い声が上がった気がした。その楽しげな空気が気に食わなくて、カロクは格子窓をにらみつける。けれど、すぐにその無意味さを悟ってため息をついた。うっすらと差し込んでくる光が床に落としている、窓と同じ格子模様をじっと見つめる。
――『あの記述』を見つけてから、十日近く経つ。あれからカロクは、自分なりに考えたり、家人に聞いて回ったりしてみたが、納得のいく答えは得られなかった。
父シグレが、優しいはずの水竜を殺した理由は、わからないままだ。
それどころか、今日もまた、シグレから竜狩人の心得とやらを聞かされてきたところである。
「人に害をなす竜を狩る、か」
それはいい。
問題は、なぜ今回、人畜無害に違いない竜を狩ったか、だ。わずかに聞こえてきた噂によれば、かの竜がすんでいた大陸は、ほかの竜たちが怒り狂って大変なことになっているらしい。当たり前だ、とカロクは冷笑した。そのたびに、言いようのない不快感が胸を覆った。むなしく回る思考が、ずるずると深みにはまっていきそうだ。カロクはゆるくかぶりを振った。
「こういうときは、体を動かした方がいいな」
ひとりごちたカロクは、もやもやを振り切って廊下を駆け出す。素振りでもしようか。いや、そうだ、オボロの鍛錬にまた付き合ってやろうか。ここ最近、忙しくてなかなか会えていなかった。一緒にいて安らぐような相手ではないのだが、あの親友のことを考えだした途端、ふっと心が軽くなった。家人の一人を捕まえて、外出することを伝えたカロクは、草履をはいて屋敷の外へ飛び出す。
オボロの家は、カロクの屋敷とは違う区画にある。いわゆる、町人の居住区だ。土を固めただけの道を軽々走り、人混みの中を潜り抜け、商店をかねた彼の家へ辿り着く。そこでばったりオボロの母に出会った。少年の行方を聞くと、彼女は申し訳なさそうに笑った。
「あの子は今日、隣村に行っているんです。お友達と遊ぶといって聞かなくて。せっかくだから、村長さんへの届け物もお願いしたのよ」
「……そうですか」
カロクは、自然と苦い表情になった。――嫉妬しているわけではない。
隣村のオボロの友達のことは、カロクも知っている。会ったこともある。彼もまた竜狩人志望で、オボロよりさらに、シグレを尊敬している。もはや、心酔といってもいいだろう。息子のカロクでさえ、あの陶酔しきった顔を見たときは一歩退いたものである。
カロクは頭を下げて友の母と別れると、なんとなく町の正門の方角へ歩きだした。どこかから笛太鼓の音がする。奇妙に調子のついた声もする。劇か大道芸でもやっているのだろうかと、ぼんやり考えた。
「隣村か。おれの方からあいつに会いに行く気にはなれないな」
カロクは雑踏のただ中でため息をこぼす。憂鬱な日ほど、色々とままならないものだ。しかたがないので家に戻ろうかと、踵を返す。
そのとき、人混みがにわかにざわついた。「何が起こっとるんじゃ!?」という悲鳴を聞き、カロクは思わず振り返る。まぶしさに目を細め、その意味に気づいて唖然とした。
遠くの空に、赤い光の柱が立ち昇っている。
光があがっているのは、隣村の方向だった。
気づくやいなや、カロクは走り出す。人混みをかき分け、時には突き飛ばし、門番の制止も聞かずに町を飛び出した。ここから隣村までは、数刻で着く。子どもの足では少々きつい距離だが、今は、そんなことはどうでもいい。オボロはどうしているだろう、そればかり考えてがむしゃらに走った。途中で草履が脱げたことにも気づかなかった。
時間の感覚があやふやになった頃、ようやく村が見えてきた。木の柵で部分的に囲われた村落は、予想通り、赤く染まっていた。人が放ったにしてはきれいすぎる炎が、ちろちろと燃えている。村のすぐ上空に翼を持った巨大な生物の姿を見つけ、カロクは反射的に身構えた。けれど、彼らが苦しげにもがいていることに気づき、激しく首を振る。あれが、「人に害をなしている」とは限らない。危害を加えているのは人間の方かもしれない。外からでは状況がわからない。カロクは大急ぎで、村の中へと飛び込んだ。
村はなおも燃えていた。赤々と燃え盛る炎が、畑と家をなめとっている。黒煙の立ち込める村を、少年は咳きこみながら駆けた。ややあって、村の端に辿り着く。そこで、見覚えのある少年を見つけて、カロクは何も考えず叫ぼうとした。
叫ぶ前に、喉がかたまって、言葉は出てこなかった。
――探していた友は、血を浴びていた。
見慣れぬ槍を手にしていて、かたわらには息絶えた少年と竜。そして友は、狂ったように笑っている。
近くで、赤い光の柱が、また立ち上がった。カロクは、体が芯から震えだすのを感じた。足も、口も、何もかもが言うことを聞かない。
「なんだ、これ、は」
ガチガチと鳴る歯の隙間から、声が漏れる。
「オボロっ! なに、何をしているんだ! これは、いったい――」
がむしゃらに叫ぶと、哄笑がやんだ。
「ああ、カロク」
ねっとりとした声が、彼の名前を呼ぶ。全身をこわばらせたカロクへ、オボロはいびつに笑いかけた。
「何、って? 聞くまでもないじゃないか。
ああ、もしかして心配して来てくれたのかい。それは、悪いことをした」
「あ、あだうちって……だ、だけど、その槍は……!」
父のものと、同じ槍。つまり、竜を殺す武器だ。あの少年は、自然の守護者を討ちとらんとして、みずから竜に挑みかかった。そのことを指摘しようとしたカロクは、けれど、口をつぐむ方を選んだ。今の親友の耳には、どんな声も届かないだろうと、わかってしまったからだった。かたく、拳を握る。
――なんということだ。竜狩人の後継ぎたるおれより先に、こいつが狂ってしまうなんて……。
赤い光が三本の柱を作り――弾けて消え、炎も忌々しい赤も、吹き飛ばしてゆく。
禍々しくも美しい、災いの
先の一件以降、オボロの目には時折、隠しきれない狂気がちらつくようになった。それを見ているうちに、カロクはわかってしまった。これは、こいつ本来の性格なのだろうと。今まで押し隠してきたものが、大きな事件をきっかけにして、表に出てきただけなのだ。
彼から逃れるようにして、屋敷の裏手で木刀を振っていたカロクは、動きを止めて空を仰ぐ。今日は、憎らしいほどにいい天気だ。真っ青な空の上を、時々、羊の毛のような雲が、のんびり漂っている。――竜が殺されたからといって、何も変わったところはない。
町も、いつも通り落ち着いていた。最初こそ不吉な光の柱と、竜が死んだという事実を、町人たちが騒ぎ立てたものだ。しかし、三日もすると騒ぎは徐々におさまっていき、今は誰もが悲惨な事件など忘れたような顔をして過ごしている。
「竜なんて、いなくても、何も変わらない」
吐息のように呟きをこぼしたカロクは、ふいに、顔をしかめた。
いなくても何も変わらないのなら、なぜ人は、こんなにも竜に惑わされるのだろう。今まで考えたこともなかった疑問が頭をかすめて、カロクは驚いた。けれど、同時に、すとんと腑に落ちるような感覚もあった。
「そもそも……竜などいなければ、よかったのかもしれない」
これほどの絶望も恐怖もなかったかもしれない。
オボロだって、今みたいにおかしくならずに済んだかもしれない。
そんなふうに思って、初めて、父が竜狩りをする理由の一片が、わかった気がした。
いなくても何も変わらない、が、いなければよかった、に変わる。その瞬間、彼はひとつ、決意をしていた。
※
「結局、あの時点で狂っていたのは私も同じだろうな」
打ちあいのわずかな
《破邪の
「妙だな」
カロクはぽつりと呟いた。
「妙、とは?」
ディランは首をかしげる。少年とも竜ともつかないしぐさに、男は少し嫌そうな顔をした。
「――なぜ、力を使わん。貴様の手にはもう、かつての力が戻ってきているはずだ」
「なんだ、そのことか」
ディランは肩をすくめた。ほほ笑みを浮かべながら、ひそかに息を整える。
「買いかぶりすぎだな。前みたいにらくらく使えるもんでもないし、この姿ならなおさらだ。それに」
一度、深く息を吸って、吐く。――整った。
ディランは、にやりと笑って、槍を脇に構える。
「竜の力は、命を守り、世界を包むためのもの。この戦いには、必要ない」
言い終わるやいなや、彼は地面を蹴って駆け出した。その瞬間、カロクがうすい笑みを浮かべた気がしたが、真相を確かめることはできなかった。視界の真ん中で光がひらめく。突き出された穂先を柄で受けとめたディランは、手首をひねって槍を回転させ、力をよそへ流した。一瞬、相手の構えがぶれた隙に、あいた急所をめがけて手槍を突きこもうとする。カロクは身をひねってそれをかわすと、槍を半回転させて、末端の方を持った。
ぞっと、冷たいものが背筋をなでる。ディランは反射的に息を吸い、横に跳んで柄を水平に構えた。振り抜かれた石突が、柄をかすめてやかましい音を立てる。
いつか似たようなことをされかけたのを思い出し、ディランは頬を引きつらせた。詰めていた息を吐いて、気分を切り替えると、再び槍を持ち替えて、《魂喰らい》と向かいあう。
雪が絶えず降る中で、槍が躍り、うなり、回転し――ぶつかる。穂先は舞うたび鋭く光り、雷光がぶつかりあっているかのようだった。
きいん、と高い音が鳴る。弾きあったふたつの穂先は、火花を散らして離れた。少し身を沈めたディランは、地面を強く踏みしめる。直後、勢いをつけて走った。手槍が、鋭く男の脇腹をかすめる。手ごたえはあったが、カロクの表情はわずかも揺るがなかった。ディランは考えることをやめ、そのままカロクとすれ違うように走りきる。上半身をひねって、お返しとばかりに放たれた突きを、かろうじて避けた。そのまま反撃に出ようと、体を半回転させる。けれどその瞬間、腹に熱を感じてよろめいた。
また、この気配だ。
形のないものが、魂を食いに潜り込んでくる。
ディランはとっさに、槍を上から下に叩きつけた。けたたましい音に顔をしかめることもせず、無我夢中で距離をとる。
魂が震え、体がずっしり重くなった。穂先がかすった腹を片手で押さえて、うなだれる。
ディランはうつむいたままに笑みを刻んだ。たれさがった黒髪に隠れて、カロクからはその表情は見えていないだろう。
「竜などいなくなればいい、と、本気で思った」
淡々とした、まるで教本を読み上げるかのような声が、響いた。
「竜などいなければ、ひとつの村が滅びることも、友が狂気を宿すこともなかったと」
声は、岩だらけの山道で奇妙に反響する。
「だが……本当に、心からそう思ったのは、実のところたったの一度だけだった」
靴が、地面をこすって鳴る。
死が迫る。馴染みのある感覚だ。ディランは唇をゆがめた。
「それでも一度、確かに怒りを覚えたのだな。竜という存在に対して」
「……ああ。だが、それからずっと、心に引っかかっていたことがある。貴様のことだ、ディルネオ」
ディランは黙って続きをうながす。
「貴様は、父が狩りの対象とする『人に害をなす竜』ではなかった。なのになぜ、父はあの日ディルネオ狩りに及んだのか、私はそれが不思議でならなかった」
ディランは目をみはった。
「そうなのか? シグレもオボロも、おまえに何も話していなかったのか」
少しだけ、頭を持ち上げる。軽く眉を上げた男と、目が合った。
「私も、シグレ本人から聞いたわけではない。だが、仲間がオボロから聞いたところによれば、シグレは、人間と竜がお互いまったく干渉せずに暮らすことが望みのひとつだったらしい。竜狩りは本来、そのための手段だったのではないかな。だから、人と竜を繋ごうとする私は、とてもとても厄介な、邪魔者に過ぎなかった。それが理由で、私はかつて、殺されかけた」
息をのむ音がする。カロクはきっと、ほんの少しは驚いたに違いない。ディランは不敵にほほ笑むと、重みをこらえて完全に顔を上げた。
「それに対し、おまえは純粋に竜を憎んだ。その感情を、私にぶつけてくれたのだろう。記憶を取り戻した今となっては、かえって嬉しいと思う。だから、今もまだ憎いというのなら、ぜひともその槍を向けてくれ」
震える魂を叱咤した水竜は、悠然とほほ笑んでみせる。恐れることはない。命の危機など、今さらだ。
カロクは大きく、目を見開いた。
「嬉しい、だと? 憎悪をぶつけられたというのに、か」
「ああ。一応言っておくが、自暴自棄になったわけではない。ただ――あのときは、『彼』の心に寄り添ってやれなかったから」
想い人を失った青年の絶望を、共に分かち合えなかった。共に悲しんでやれなかった。二十二年前の失敗は、苦みとなって、ディランの中にある。だからこそ、もう暗い感情から目を背けることはしたくなかった。
カロクはしばらく、自我を失ったように佇んでいた。だが、徐々にいつもの無愛想な顔に戻ると、槍を持ちあげた。
「ならば、望みのものをくれてやるとしよう」
冷淡な宣告。
ディランは答えない。つかの間目を閉じる。
そして、相手の槍が振るわれようとした瞬間に目を見開くと、手槍を構えて地を蹴った。
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