28.つかの間の平穏

 今日も、いい感じだな。

《大森林》――あるいは《青の森》の木々を見渡しながら、フランツは心の中でそう呟いた。みずみずしい緑は、本来北大陸には無縁の春を目前にして、ますます生命力をたぎらせているようである。ふと、木々を見上げれば、枝葉の隙間から栗鼠がちろちろと地上の様子をうかがっていた。フランツはそちらにほほ笑みかけて、しゃがみこむ。湿った土から生えている草を丁寧になでてから、そのいくらかを摘み取った。隣の家の老人からの指示を思い出しつつ、目当ての薬草だけを、慎重に籠へ詰めてゆく。森の植物をぞんざいに扱えば、人からも竜からも怒られることになりかねない。

 最後の一本を引き抜いたフランツは、ふう、と息を吐いて、籠を持ち上げた。草ばかりとはいえ、さすがに詰まっていると籠も重くなる。こんもりと顔を出している薬草をならしながら、彼は何気なく空を仰いだ。

 そこで、違和感に気づく。

 森の上を竜が飛んでいる。それ自体は珍しくもなんともない。ただそれは、ここの水竜たちではなく、白い竜の群だった。

「風竜かあ、なんでこんなところに」

 言いかけて、しかしフランツは口をつぐんだ。隣に人が立ったのが、わかったからだ。

「ねえ、君はどう思う?」

「風竜は、本来このあたりにはあまりいないのですが」

 振り向くと、《神官》の青年は苦い顔をして答えた。フランツはそれに対し「何かあったかな」と呟く。《神官》への気遣いも含んだ問いかけは、けれど、本人によって否定された。

「おそらく非常事態というわけではないでしょうし、不法侵入でもないでしょう。――あの方の御力を感じます」

 落ち着き払った若者を前にして、フランツは眉を上げた。



     ※



 並走する竜の上で、トランスが目を瞬いた。

「おっ。見えてきたな、《大森林》」

 呟く彼は嬉しそうだ。ディランも少しだけ竜の背から身を乗り出して、変わらず広がる森を見る。息をのむほど美しい緑に、感動とは別の安心感を抱いてほほ笑んだ。そして、木々のざわめきの中に、翼の音を捉える。

「……さっそく、誰かが気づいたらしい」

 ディランがぽつりとそう言うと、風竜の群は速度を落とした。ディランがじっと森の方をうかがっていると、やがて、木々の隙間からいくつかの青い点が飛び出してくる。点だったそれはみるみる形をはっきりさせた。水の竜たちは、彼らに気づくなり歓迎の竜語ドラーゼを響かせる。

『ディルネオ様、お帰りなさい! どうなさったんですか、急に』

 まっさきに飛び出してきた水竜の声がする。ディランは苦笑した。この姿のときにディルネオの名で呼ばれると、なんとなくくすぐったい。

『説明は後でする。とりあえず、広い場所に降りるので、頼んだ』

 それだけ言うと、水竜は『はい!』と言って反転した。やってきた同胞たちに何かを呼びかけている。風竜たちを受け入れるようはからってくれと、さっきはそう頼んだのだ。大丈夫、の意味をこめて風竜シルフィエを振り返ったディランは、竜の上から《大森林》の一角を指さした。

「あのあたりにしようか。今くらいの群なら、十分おさまるはずだ」

『――わかりました』

 シルフィエは穏やかに肯定すると、眷族に呼びかける。風竜たちは一斉に方向を定めると、体を傾けて下降しだした。

 ほどなくして、白い竜の群は、無事大森林のただ中に降り立つ。そこは、かつて一行が見た大樹の前、《聖域》と呼ばれる空間の一歩手前の場所だった。降り立った竜たちは翼を畳み、ある者は毛づくろいをして、またある者は森の住民である水竜に挨拶をしていた。ディランは竜の背からするりと降りて、かたわらで彼らの様子をながめる。そんな彼の隣に、一頭の水竜が降りてきた。

『今度はまた唐突に帰還なされましたね。私たちは大歓迎ですが』

『ミルトレか、騒がせたな』

 青い鱗の雌竜を振り返り、苦笑したディランは、彼女の首のあたりを軽くなでる。ミルトレは『いいえ』と嬉しそうに応じた。思えば主の唐突な出入りは昔からだ。彼らも慣れているだろう。そう考えて、けれど少年姿の水竜は、首をひねった。

 ひょっとして、昔の自分は相当自由奔放だったのだろうか。そんな疑問がディランの頭をよぎる。すぐ隣の眷族に確認したかったが、したらしたで落ちこむだろうという予感がしたため、結局何も言わずにおいた。


 人と竜が落ち着いたところで、現状を整理することにした。状況把握のためか、ミルトレ含む水竜の何頭かもその場に残っている。竜たちに囲まれて、ゼフィアーが北大陸の地図を広げている。それが終わるまでの間に、ディランは事の経緯を眷族たちに説明しておいた。

「目指すは最北の聖山だけども……どこだ?」

 地図の、北あたりをながめまわしながら、ゼフィアーが呟いた。

「『最北の聖山』っていうのは、いわゆる俗称ってやつだからな。地図を見ても、名前は載ってないと思う」

「ええっ?」

 ディランの言葉を聞いた何人かが、うわずった声を上げる。構わず、ディランは少女の横から身を乗り出して、地図の上を目でなぞった。

「確か、《大森林》の反対方向……このへんかな?」

 大陸北東部を指さす。人々は、顔をしかめた。

「うっへ。今しがた大陸縦断してきたばっかだってのに、今度は横断かよ」

「しかも、今度は竜の翼に頼れないわよ」

 不服そうなトランスに、チトセが無愛想な言葉を投げかけた。その意味するところを察して、人は重々しくうなずき、竜はうなり声を上げる。今までの出来事を顧みれば嫌でも察せられた。

 今、大陸でどの程度竜狩人が活動しているかはわからない。だが、かなりの数いるだろうことは想像できる。そこへ『破邪の神槍』まで割り込んできたら、大混乱なんて言葉では済まない状態になるだろう。顔をしかめたゼフィアーが、『ひとまず、みんなは注意してくれ』と、竜たちに呼びかけた。そのとき、ミルトレが翼を張る。

『みんな、すぐあの山に向かうんでしょう? だったら、各地の竜たちに知らせておいた方がいいかしら』

『む、そうだな。人手――ではなく竜の手は、多いに越したことはない』

 少女の瞳が、ちらりと人の形をとっている水の竜を見た。彼は、気づいてはいたがあえて知らないふりをして、地図に視線を注ぐ。

 水竜たちが、高く鳴いた。

『それじゃ、仲間の何頭かに呼びかけてみるわ』

 言うなり、ミルトレは高く飛び上がり、森の奥へと飛んでゆく。それを見送った人々は、顔を見合わせた。

「ぼくたちはどうします?」

 レビの言葉に、ディランがうなずく。

「とりあえず、今日のところは休むか。大陸を突っ切ってきたばかりだし、みんな疲れただろ」

 ディランがそう言うと、ほっと空気が緩む。「じゃあ、あの村にでも行くか?」と、トランスがのんびりした声を放った。風竜たちも休む場所の相談をしはじめる。ちょうどそのとき、《大森林》の入口の方、つまりは村の方角から足音が聞こえてきた。人々が振り返ると、木立の奥から青年が歩いてくるのが見える。彼は風の竜たちに一瞬驚いていたものの、愛想よく手を挙げた。

「あら、フランツ」

 マリエットが優しく目を細める。フランツは「久しぶり」と挨拶をした後、一行をぐるりと見渡した。

「竜の群が見えたから来てみたら、またすごいことになってるね。せっかくだし、何が起きてるのか聞かせてよ」

 青年は変わらず穏やかだ。水竜以外の竜の群が森のただ中にいるという状況に、まったく動じていない。一行は、顔を見合わせて肩をすくめた。

 その後、フランツは「どうせなら村に来て」と六人を誘った。ちょうど休息の話をしていた彼らは、その誘いに乗ることにした。風竜たちも場所を決めたようで、ばらばらと森の外へと飛び立ってゆく。ルルリエが去り際に『また様子を見に来るわ!』と言っていたので、おおかた鳥に変化へんげして、夜にでも乗りこんでくるのだろう。

《大森林》を出て村へ入ると、入口で待っていた若い《神官》に、幽霊を見たかのような顔をされた。一行は苦笑して、ディランとフランツが前に出る。

「やあバート、君の言った通りだったよ」

「妙なところから出てきてすみません」

 二人が続けてそう言うと、青年は困った様子ながらも人々を迎え入れてくれた。フランツが六人を引き連れて戻ってきたことに驚いたのは、彼だけではなかったようだ。あちこちから、不思議な色の瞳が彼らを見つめていた。――のだが、村の人たちはディランの姿を目にとめると、その視線をふいっと逸らした。興味をなくしたのではなく、なんだそういうことか、と納得したような雰囲気だ。ディランが首をひねっていると、《神官》の青年がわずかに振り向く。

「あの後、ヘルマンさんから村人全員に改めて説明があったのですよ。あなたがあまりにも巧妙に気配を隠していたものですから、みな驚いていましたが」

「なるほど。……なんか、すみませんね」

 うなずいたディランが小声で謝ると、青年は前を向きなおして、いえ、と言った。以前のような冷やかさがなくなっているから、本当に気にしていないのだろう。ディランはたまたまかたわらにいたマリエットと、目を合わせてほほ笑みあった。

 村の中をそぞろ歩く。そうしながら、世間話をするふうに、これまでの出来事をぽつぽつと語った。フランツも青年も、興味深そうに聞き入っていた。

「へえー。あれを仕込んだのは『暁の傭兵団』だったんだ。奇抜なこと考えるなあ」

 世界中に広まりつつある話を指して『あれ』と言ったフランツが、感じ入ったようにうなずいている。「よく言われます」とレビが答えた。嬉しそうなのは、自分たちと傭兵団の努力が形となって表れているのを確かめられたからだろう。なごやかな空気から少し外れたところで、《神官》の青年も真面目に考えこんでいる。

「少なくともこの大陸の人たちは、驚くくらいすんなり、あの話を受け入れていましたからね……。今は僕たちや竜にも、だいぶ協力的になっています。もっと我々について知りたい、などという人もいるくらいですし」

 どう対応していいか悩むところです、と言い、彼は頬をかいた。言葉とは裏腹に、目は笑っている。めったに見られない青年のほほ笑みに、ディランは小さな感動を覚えていた。さりげなくまわりを見てみれば、こちらへ向けられる視線は前と比べて優しい。ディランが竜だから、ということだけが理由ではないだろう。

「さて、それじゃあ」

 フランツの一声が、ふわふわと漂う綿毛のような雰囲気を引き締めた。

「みんな、とりあえず今日は僕の家においでよ。日が沈むと気温も下がるし獣も増えるし、色々大変だからね」

 青年の、緑の瞳が空を見る。相変わらずの曇天でわかりにくいのだが、あたりはゆっくり暗くなりはじめていた。一行は誰からともなくうなずいて、若き《神官》は体をひるがえす。

「僕はいったんあの小屋に顔を出しておきます。夜の務めがないか確認もしないといけませんので」

「あ、うん、そうだね。頑張って。夕飯食べにくる?」

「――小屋に寄ってから決めます」

 青年は、返事も聞かず歩き出す。フランツはさして気にとめた様子もなく、落ち着いていた。「行こうか」という呼びかけにうなずいて、ゼフィアーたちが彼の後についてゆく。ディランも、当然のように続こうとした。しかし、踏み出した足がやわらかい下草を踏んだ瞬間、全身が凍りつく。

 背中に刃をさしこまれたような不快感。ぞわり、と肌が粟立つ。その気配はまだ遠い。けれども、こちらに向かってきている。

 立ち尽くしてしまった彼は、訝しげに振り返ったマリエットに問うた。

「確か、風竜たちは、村の周辺で休むって言ってたよな」

 マリエットは不思議そうな顔をしたが、ええ、と答えた。

「そんなことを言っていたわね。村のまわりなら緑も多いし、凍える心配はないと思うけれど」

 気遣うような言葉をディランは最後まで聞かなかった。女性の声が途切れる前に大きく踏み込み、地面を蹴って走り出す。追い越された仲間たちが目をみはった。

「ディラン!? どうしたんですか?」

 レビの声が追ってくる。通りがかった村人の、戸惑うような呼びかけも。ディランにはどれも、はっきり聞くことができなかった。頭の奥をえぐるような耳鳴りのせいで。だから、この場にいるすべての者に知らせるためだけに、大声を張り上げた。

「風竜たちが危ない――《魂喰らい》が、来る!」


 村を抜けた瞬間、白い鳥と出くわした。驚いたディランは立ち止まり、小鳥は忙しなく羽ばたいて、彼の肩にとまる。

『あら、どうしたのディラン。すっごく慌ててるわ』

 変化へんげしたルルリエは、首を傾けディランに体をすりつける。落ち着いているどころかくつろいでいる彼女を横目に見て、ディランは足を止めた。

「ルルリエは、気づいてないのか?」

『え、何に?』

 鳥の姿の竜は目を丸くする。ディランは答えず、少しの間息を整えると、また走り出した。

 ひょっとしたら、いよいよディルネオの鋭さが戻ってきているのかもしれない。あるいはここが《大森林》のそばだから、一時的に感覚が鋭敏になっているだけかもしれない。どちらにしろ直感しているのは彼だけで、その直感に従って走るしかなさそうだ。

「シルフィエは?」

『今、ほかの主竜様に会いに出かけられたわよ』

「っ、こんなときに限って……!」

 思わず吐き捨てたディランは、緑のぽつぽつ生えた平原をときどき曲がりながら走る。間もなく、白い竜の群が見えた。彼らは茂みのそばに固まって翼を休めていたようだ。

『ルルリエ』

 誰かが変化している竜の名を呼ぶ。よく見ると、茂みのそばで丸まっていたおすの竜が、頭をわずかに持ち上げたところだった。ルルリエは小さく羽を動かし、ディランを一瞥し、何か言おうとした。が、彼女の言葉を封じるように、恐ろしい気配が空間を覆った。

 雷に撃たれたような衝撃が、竜たちの間を駆け巡る。誰かが叫んだ。竜たちが警戒態勢を取る。強い力に魂を打たれ、ディランはよろめいた。そのとき、飛び立とうとした雄竜のすぐそば、茂みの中で何かが光る。

 ディランは叫んだ。何を叫んだのか、どのくらいの声を上げたかわからない。

 ただ確かなのは、鈍く光る刃が竜の背に突き刺さり――血しぶきが舞ったことだけだった。

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