21.見極め
その頃、彼はまだ
ただ、自分を拾ってくれたとある水竜のことは慕っていた。眷族にはならないにしろ、彼女の群で暮らしていたのである。人にも竜にも情熱と愛を傾ける竜たちに育まれ、彼は群の中で穏やかに過ごしていた。
その幸福な日々が突然終わりを告げたのは――もう、七百年以上も前のことである。
「失念していたわけじゃないだろ?」
ディランは凪いだ声で言う。そばにいたチトセのみならず、仲間たちさえもがたじろいだ気配を感じた。だが、彼は、構わず言葉を紡ぐ。
「ディルネオは千五百年以上生きている。今の俺にとって、その頃の記憶はまだ曖昧だけどな。……嫌なことほど、すぐ思い出すみたいだ」
珍しく唖然としていたらしいセンが、そこで我に返った。へえ、とこぼして肩をすくめる。
「いたのか、その場に」
「いや。着いた頃には何もかもが終わってた」
「――そうか」
やり取りされる言葉の中に、感情はない。事実と、それを受けた者の相槌だけが、むなしく響く。
ディルネオが、己の無力さを初めて噛みしめたのが、あの日だった。
北の水竜たちが多大な犠牲をしいられ、あれほど強い痛みを受けたのも、あの日が最初だっただろう。
『彼女』たちの死は、人間たちに武器を与え、竜たちに絶望をもたらした。そして、武器は《魂喰らい》と呼ばれて恐れられることとなった。
「同胞の魂を喰らうとは、ずいぶん皮肉な話だと思うよ」そう言って、ディランは目を細める。いっそ安らかとさえいえる水竜の表情に何を思ったか、センは軽く息をのんだ。
「……それでも。それだけのことがあっても、まだ人間と分かりあおうって言えるのか」
彼らしからぬ、凍りついた声が問いかける。ディランは相手をまっすぐに見すえた。
「だからこそ、だよ。あの方が志半ばで裏切られて、亡くなられたからこそ、あの方が思い描いた世界を、代わりに実現したかった。それに何より、竜たちがそうであったように、人間のすべてが《魂喰らい》におぼれて狂ってしまっていたわけではなかった。だから、彼らがいつかまた振り向いてくれると、信じたかったんだ。――結局、今も昔も、変わってないんだよ」
ディランは穏やかに締めくくった。まわりの人々は声さえ上げない。ディランの前に立つセンは「そうか」と感情のわからない声で呟いた。老成して見える青年の顔から、表情が抜け落ちる。その瞬間、ディランは手になじんだ
わずかな手ごたえ。けれど、センにひるんだ様子は見られない。彼もまた、踏みしめた左足を軸に上体を反転させて武器を突き出してくる。二、三合短く打ちあった。何度目になるかもわからない刃のぶつかりあいの後、センが距離を詰めてくる。ディランは刃を流そうとしたがうまくいかず、そのまま剣の押しあいになった。
ぞっとするほど静かなつばぜり合いの中。無表情のセンが、口に形だけの笑みを乗せた。
「ああ、ちくしょう。うらやましいね。心がぶれないってのは、何度
「……セン?」
ディランは眉を寄せる。交差する刃のむこうに見える彼の顔は、うつろだ。そのはずなのに、なぜか怒り泣いているかのように見えたのだ。かすかな揺らぎに気を取られていたその瞬間、《魂喰らい》の剣に力がこもる。
「けどよ、忘れるな。誰もが竜みたいに強く――高潔にあれるわけじゃない」
きりり、と耳が痛くなるほどの高音が響く。次の瞬間、センがディランの剣を押し下げ、からめとる。対応しきれず大きく体勢を崩した彼は、左手で地面を勢いよく叩いて強引に体の向きを変え、迫る刃を逃れた。だが直後、強く振られた相手の足が腹を蹴る。鈍痛のせいでつかの間動けなくなった。視界の端に閃くものと、おぞましい力の気配を捉えて凍りつく。
風が、強く鳴いた。
二人の間を矢が通り抜け、センが一瞬動きを止める。ディランはその隙に跳ね起きて、その勢いで突き出した手のひらで、相手の右肘をを強く打った。センの顔が苦痛にゆがみ、ぴくんと震えた右手から、剣が滑り落ちそうになった。傾いた《魂喰らい》の剣に、己の剣をぶつけてすくいあげる。《魂喰らい》の武具は澄んだ音を立て、あらぬ方向に飛んだ。目を細めたセンはお返しとばかりに少年の胸を強く殴る。ディランはうめき声をあげてよろめいたが、そのとき、得意げな笑みをのぞかせた。
目をみはったセンが、剣の飛んでいった方向を振り返る。ちょうどそのとき、跳ね飛ばされた剣の柄を、華奢な手がつかんだ。むりやり戦場に滑りこんできた彼女は、うつぶせで《魂喰らい》の武具をつかみとるなり、その切っ先をセンの方に向けて威嚇する。若者の目が少女の無防備な顔を捉えたとき――横合から、別の切っ先が彼の首もとに突きつけられた。ディランの剣だった。
無音の時間。その果てに、センの《魂喰らい》の武具を奪い取ったゼフィアーは、それを下ろしてひょいっと飛び起きた。しゃがんで剣を手にとった彼女が不敵にほほ笑むと、センは肩をすくめる。
「おっと。一本取られたな」
冷たさを押し隠し、軽薄な態度で両手を挙げる彼を見て、ディランはゆっくり武器をおろした。若者からはもう、殺意どころか戦意も感じない。だが、凍てついた闇は、おどけた態度の端々からにじみ出てしまっていた。ディランが剣を鞘に収めたとき、センがゆっくり振り向いた。
「……本当に、ぶれないんだな、君は」
いくつもの
ただ無垢なのではなく、好意も悪意もすべて受け入れてきた、深い輝きを宿す瞳。そこに青年が希望とも期待ともつかぬものを見いだしたことなど、知るよしもなかった。真意を問う前に、彼は視線を逸らしてしまったから。
「いやあ、チトセがほだされるのもわかるわ」
「なっ……! べ、別にほだされたわけじゃ……!」
ふだんの軽々しい表情でそんなことを言いだしたセンに、チトセが食ってかかる。だが若者は「おまえみたいな奴は、みんな、そう言うんだよ」と、少女の反論を受け流した。言葉に詰まったチトセは、「うるさい」と吐き捨ててそっぽを向いた。
「それで何? 気は済んだの?」
「ああ、済んだ済んだ」
ひらひら手を振ったセンは、もう片方の手で、六人に向けて金属の鞘を放り投げた。そのまま自分が持っていた《魂喰らい》の剣を指さす。
「そいつは、戦利品だと思って持って行けよ。詳しくは知らないけど、それも初期に作られた武器らしい。ひょっとしたら、七百年前に殺されたっていう、水竜の誰かの魂かもしれないな」
「そうなのか!?」
ゼフィアーが目を丸くして、まじまじと剣を見やる。ディランもまた両目を瞬いた。彼女の方をのぞきこもうとして、センと目が合う。
「――だから、君らの手で還してやれ」
近くで響いた声に驚いて、ディランはしばし固まったものの、強くうなずいて「ああ」と答えた。十八にも満たない少年のようにも、千年を越えた時を生きる人ならざる者にも見える彼に、青年は優しい視線を注ぐ。けれどそれも刹那のことで、彼はすぐ薄っぺらい笑顔の仮面を貼りつけると、六人に背を向けた。歩き出そうとして、やめる。
「ひとつ、いいこと教えてやるよ」
唐突なセンの言葉に、六人は首をかしげた。青年はわずかに彼らへ目を向ける。
「カロクほか一部の幹部は、イスズがレッタから戻った後に、北大陸へ向けて出航した。俺もこれから後を追う」
「北大陸に? なんでですか?」
問うたレビに、センは「さあな」とそっけない答えを投げ返す。つかみどころのない青年に、竜狩人の少女が訝しげな視線を向けた。
「なんでそんなこと教えるの。何か企んでる?」
「いや、なんにも? ただ、今の俺はどっちつかずの流れ者だからな。言っとくけど、君たちのこともカロクたちに報告させてもらう」
断言したセンは、顔を少しだけ後ろに向け、ディランを見た。
繕っているわけでもない。戦意に輝いているわけでもない。どちらかというとあどけないほほ笑みが浮かぶ。今まで知らなかったセンの一面に、ディランはかける言葉をなくして困った。
「誰もが、竜みたいに強くあれるわけじゃない。けど、君の強さに感化されて変わった奴は、たくさんいると思う。……君みたいなのに、少しずつ影響されて、世界は、時代は変わっていくんだろうな」
温かくそう言ったセンは、ディランが何かを返す前に「じゃあな」と言って身をひるがえした。靴音とともに遠ざかってゆく、後ろ姿。人知れず、様々なものを背負ってきたであろう彼の背を、六人は黙って見送った。
センの影が見えなくなった頃、ゼフィアーがしゃがみこんで鞘を拾い上げ、《魂喰らい》の剣を収める。それを見た誰かが息を吐くと、あたりの空気がほっと緩んだ。棒を立てて、ずるずるとレビがその場に座りこむ。
「よ、よかったあ。どうなるかと思いました……」
はあっ、と深く息を吐きだした彼に、チトセが冷やかな言葉をかけた。
「あんた、何もしてないじゃん」
「心配してたんだよ。そのくらい、いいじゃないか」
ちくちく厳しい少女の言葉に、レビが唇を尖らせた。まわりで見ていた人たちは、温かな笑い声をこぼす。けれど、すぐ後、ゼフィアーが眉を曇らせた。
「セン……彼は本当に、『雇われただけ』の者だろうか。どうも彼については、こう、胡散臭さが抜けなくてな」
珍しく、ためらいながらもセンへの辛辣な評価を口にするゼフィアーを、チトセが横目で見やる。
「あんたの評価には同意だけどね。本当の話だと思うよ。あいつ、竜狩りに参加する機会も、幹部って言われてる割に少なかったし。首領に対してぽんぽんもの言ってたしね。根っからの『破邪の神槍』幹部じゃ、ああはいかないわ」
「金で雇われただけの流れ者、ね。それが、どういう気持ちで竜を殺してたんだろうな」
トランスの苦い呟きに、チトセは「さあ」と返す。だが、そのとき、何かを閃いたように目を開いて固まった。たまたま彼女の変化に気づいたディランは、歩み寄って声をかける。
「どうかしたか、チトセ」
「――なんでもない。それより、もう用事は済んだから、カルトノーアに戻ろう」
チトセは相変わらず無愛想だった。ひとりでさっさと歩きだす彼女の、あからさまな冷めきった態度に首をひねりつつ、ディランは少女の後を追う。仲間たちも、そこへ続いた。すぐに追いついてきたゼフィアーが、ディランを見上げて、にっと口角を上げる。
「戻ったら、また陣の解読だな!」
「ああ。あと少しだから、頑張ろう」
「うむ!」
花がほころぶような笑顔でうなずいたゼフィアーの頭を、ディランは優しくなでる。そして、小走りで土の道を駆けた。
※
追いついてくる五人を、チトセは嫌がることも歓迎することもせずに受け入れる。彼女は一瞬、空を仰いで目を細めた。そして、歩調を緩めてほかの五人と並ぶ。
「そういえば、センが竜にとどめを刺したところ、見たことがなかったかもな……」
チトセの染み入るような呟きは、ディランたちの耳に届くことなく、空に吸いこまれた。
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